Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

酔いしれる

2017-08-03 23:06:23 | ひとから学ぶ

 人がそれぞれであることは百も承知だ。それで〇〇は、そして〇〇は、と比較せざるを得ないのは、つまるところ狭い空間での比較にすぎない。同じように比較された側にとっても、狭い空間においてその批評をまともに受けて、自分の立場を認識していく。同様に忖度は生まれ、それぞれの立場において、相手を駆逐するように解釈する者もあれば、そうではない解釈をする者もいる。わたしが思うに、けして森友学園は犯罪と認識してこの過程に足を踏み入れたとは思わない。事後の比較選択の中で問題は拡大されていったと思う。わたしはとても小さな事例の一つに過ぎないと思う。これが報道の影の部分であるし、国民の視線をはばかる一事例だと思う。でもわたしたちは、そんな一事例に心を左右され、もしかしたらそんな小さな事例で人生を失うかもしれない、それほど世の中の視線は厳しいし、いっぽうでどんなにいいかげんな視線に基づいていても、けして批判も受けないような事例だってある。「運がなかった」と言ってしまえばそれまでだろうが、現実の仕業なのである。

 世の中には「運の良い人」は必ずいて、そうした人々の中には、必ず運の悪い時を被ることなく、人生を終いにする人もいる。そうした人々を羨む必要もないが、運の悪い人たちに比べると、経験差が生じていると、わたしは思う。だから「運の悪い人」に心を開くことはあっても、「運の良い人」に心を開くことは、わたしはしたくないと、常々思っているが、それを実践しているかどうかについては、判断するだけの情報をわたしは持ち合わせていない。そして常にそんな悩みに襲われ、自分の思いの中で憤慨し、自分の身分を 失うのだ。かつてのわたしを形づくる彷徨いの現象だ。そしていつごろからか、その全てを受け入れる自分があった。このごろはそんな場面に出くわす度に、自分の変化を味わっている。わたしはちっとも変っていないのに、わたしはおおらかな自分を得たのだと。


 あちらで物音がしても、こちらの物音に気付く。けして空間の見覚えのない動きを見失うことはない。もちろん認識していても、後に忘れてしまう事象は多いが…。そしてそう思わせる場面はとりわけ酔いしれた状況で垣間見る。それを認識するのも結果的に酔ったがうえのことなのである。

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