Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

(承前) 何度でも「田切」

2017-01-22 23:58:04 | 信州・信濃・長野県

 前回〝「伊那谷の真ん中でありながら郡境域という空間に翻弄されながら日々を送る。」は、伊南という地に生まれ育って得たもどかしい思いだ〟と記した。そもそも「伊南」の枠組みができた原点はともかくとして、郡境域のいわゆる外れた地域だからこそある地域名なのてはないか、とそんなことをわたしは思う。ようは上伊那というエリアにあって中部北部地域とは一線を画す意味でこの地域は生成されてきた、と。あくまでも個人的な印象に過ぎないかもしれないが。とりわけ青木隆幸氏は、伊那谷と一括りするのは無謀だと述べた。そしてそれは「南と北」という具合に二つに分けた向山雅重の表現を引用されたわけだが、このことはこの日記でも何度となく触れてきたこと。しかし、もっといえば「南と北」などという表現では足りないほど、この地域はもっと地域性に分断が見られる。たとえば「伊南」という青木氏のいう「町」も結局平成の合併で合意することは叶わなかった。中川村が文化圏も商圏も、いろいろ含めて上伊那よりも下伊那に接近していることは「伊那谷の南と北」の中で何度も触れてきたこと。そして「伊南」の北端にある宮田村は、行政組合上「伊南」にあるが、伊那市に隣接しているし、向いている方向も北のような印象が強い。もし田切地形を克服した町「伊南」という捉え方をすれば、宮田村は枠から外れているかもしれない。

 谷底に暮らすという景色、そして現実はそこに暮らしてみた人たちでないと解らない。日々、段丘崖を上り、そして下り暮らすのが当たり前なのだ。わたしがそんな暮らしを当たり前のように実践したのは幼稚園に通うようになってからのこと。とはいえその幼稚園も1年目は登園拒否して通わなかったので偉そうなことは口にできないが。そこから小学校・中学校・高校と段丘崖を上り下りする繰り返しだった。もちろん自分の足でしたわけだが、社会人になって以降も車でそれを繰り返し、時には自らの足でそれを実践した。もちろん車社会ではなかった前代の人々に比べたら大したことではなかったかもしれないが。そして、実はこの段丘崖によって囲まれた地域から移り住む人たちも少なくない。けして景観上も、住みやすさという面でも、この空間外にくらべると劣ることを、ここに暮らす人々は知っている。もちろん谷底の空間の広がりによっても異なるが。とりわけ深い谷の中に生まれ育ったわたしには、そうした思いを抱える人びとの思いも解る。

 

与田切川、ここがわたしの生まれ育った空間

 

中田切川、この広い空間をひとっ飛びする高架橋が、今まさに造られている。
その向こうに見える高架橋は広域農道と中央自動車道のもの。

 


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