Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

持ち家を持つというリスク

2016-10-17 23:59:55 | つぶやき

 『生活と自治』(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)10月号にあった「どう思う? どうしてる?」という連載に、「賃貸派?持ち家派?」に別れたそれぞれの意見が掲載されている。たとえば「子育ては庭のある家で」という意見には、「庭があり、砂場があり、芝生がある。砂遊びやプールは、賃貸マンションのベランダでもできますが、自然との一体感は一戸建てならではだと思います。」と持ち家の利点が述べられる。また、「震災後に賃貸派へ」という意見には、「長く住み続けるつもりで購入しましたが、その2年後に東日本大鹿災がありました。(中略)予想もしないことが起こるものだと心底感じ、身動きが取りやすい賃貸がいいと考えるようになりました。」と災害に遭われた方の実感のこもった意見もあげられている。しかしこのごろの傾向とも言えるだろうか、「後々のため身軽な賃貸で」では、「義父は病気が見つかって10カ月で亡くなりました。長くないと言われ、入院中に所帯を小さくすることになり、義母は一人で賃貸のアパートに引っ越しました。それができたのも、もともと賃貸のアパートに住んでいたからでした。」と語られ、「年を取って快適なのは」では、「14年前に夫が亡くなり一人になった私は、今は賃貸マンション住まい。管理がしっかりしていて設備などを次々と整えてくれたり、周りの草取りや掃除をしてくれたりと快適です。持ち家のときは町内の付き合いやごみの掃除当番、庭の草取りなどがあり、年齢とともに体の負担になっていました。」と、現代の高齢化社会の事情から察するに、身軽さが重要な条件になりつつあるようだ。

 今や子どもたちが老後の面倒を見てくれると約束できる時代ではなくなった。自分の始末は自分でと思うと、余計なものを持っていると後々余計なことに気を配らなければならない。「身軽」ということで考えれば、持ち家を持つ時代ではなくなったと強く感じるしだいだ。わたしも長男ではなかったので、自宅を造るまでは「マイホームを持つ」という意識がとても強かった。社会人になった当時から先々は自宅を建てなくてはならないという目標をもって働いてきたように思う。しかし、あの労力を違うところに使っていたら、もっと違う人生があったかもしれない、などと思ったりするわけだ。それほどマイホームを持つことは、わたしの世代では大きな目標だったといえる。ところがどうだろう、いざ自宅に住むようになると、地域社会とのさまざまな課題を積み重ねるようになるし、造った家も古くなる。とりわけ大きな屋敷をと手に入れたこともあって、今や自宅の敷地の管理を怠っていて、「ジャングル」とか「ビオトープ」なんて周りでは言われるくらい、自然状態の「ヤマ」になりつつある。小ぢんまりした、管理できるスペースで十分だった、というのが今になっての感想である。

 さらに長い間住み続けることの軋轢については、わたしにとっての農業空間である妻の実家で十分思い知らされている。町の中に住んでいる知人は、春と秋にある地域一斉清掃について「朝早くからの仕事ですから、勘弁してほしいと思います。毎月あった河川敷の草取りの時など、6時半からの指定なのに6時少し過ぎると、まるで競い合うように人々は出ていました。時間通りにいけば遅れたみたいでいやな思いをするなんていうのは、何だかおかしなことでした。それだけ同調圧力が強いのです。」と書いている。わたしの住んでいるところでは地域社会での作業もつきあいも希薄で、よその人たちの話をきくにつけ、ずいぶん暮らしやすい地域だと実感するも、ほかの地域のことを知らない人たちは、こんなに希薄な社会でも「田舎は嫌だ」と好き勝手なことを口にする。いかによそのことを知らないか、という証だが、それだけに持ち家を持ってしまって身動きができなくなることを思えば、賃貸で一生を終える人のなんと「軽やかな」ことだろう、などと以前から思っている。時代は持ち家を持つ時代ではなくなったと断言できそうだ。住み着いた地域が嫌なら「よそへ」、あえてしがらみに身を投じて「絆」などというはやし詞に惑わされないことだ。

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