Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

四十九日間の彷徨い

2007-08-09 08:27:10 | ひとから学ぶ


 死後の追善供養に関する説明はたくさんのページが検索できる。そうしたページは例えばお寺のページであったり、葬儀屋さんのページであったりさまざまだ。このごろの葬式は葬儀屋さん任せだから、そうした追善供養の仕方もそれほど地域差がなくなってきたのかもしれないが、それでも葬儀屋さんそのものが地域性を重視しているから、葬儀屋さんの意向で詳細が決まったりするわけではない。結婚式が式場で行われるようになって画一化されていったことにくらべると、葬式を含めた死後の供養までの儀礼は、大きく変わったとはいうものの、まだまだ地域差があるようだ。

 十数年前にわたしが家を建てた際の建前の折、餅拾いにやってきてくれた近所のお婆さんが数ヶ月前に亡くなられた。建前ののちも時あれば家に寄ってくれたり、道で顔を合わせたりと、親近感のなくなった時勢にしては縁のあった方だ。その家の横を通っては通勤をしていているのだが、葬儀のあと、今までは北側の部屋に電気が点かなかったのに、その後ずっと電気が点くようになった。ようはそこに祭壇が設けられ明かりが点されているからだ。葬儀のあとにそのまま後飾りの壇が置かれるが、そこにはだいたい遺影や白木の位牌が置かれ、花や灯明、香炉が並ぶ。壇の脇には、7本の塔婆が置かれていたりする。この塔婆を七本塔婆といい、本来は初七日までの毎日、この塔婆の一枚一枚をお墓におまいりして建てていったものだが、もうずいぶん前から初七日の供養を行うとすべてを墓地に建ててしまうようになった。今はほとんど初七日法要を葬儀に引き続いて行っているため、埋葬の際に墓地に持っていってしまっているのかもしれない。

 かつて生家で祖母や祖父が亡くなったとき、母は毎日この塔婆を持って墓参をしていたことを思いだす。記憶が定かではないが、わたしはこの七本塔婆は、七日ごとに墓に建てていたようにも思う。いずれにしても四十九日までの間、毎日墓参し、祭壇の蝋燭に明かりが点っていた。四十九日間は亡くなった人の霊がその家の屋根棟にいる(『上伊那郡誌民俗篇』)ともいう。亡くなった人はまだ成仏できずに、懐かしくその家に留まっているということになる。家というものが重要視されていた時代の感覚ならそんな気持ちはよく解るのだが、今の時代のように家というものにそれほどこだわらなくなると、そういう意識が生きていることも不思議になる。言い方としては「あの世とこの世の間をさまよっている」というものが一般的だが、わたしにはむしろ前者の上伊那郡誌の事例が本当だと思う。あの世とこの世ではなく、近親者の身のまわりに居残っているという方が亡者の気持ちには合っているだろう。だからこそ、現在のように家族すら支えにならなくなった時代において、亡者はさまようことなく、あの世へすぐに旅立ってしまい、かつてのように火の玉も飛ばなくなったのかもしれない。

 自分の年齢の位置的なものもあるのだろうが、祖父や祖母が亡くなったころは、近親に葬儀が頻繁にあった。そういう年齢的な時期だったのかもしれない。しばらく近親にそうした葬儀がなかったから、これからあるだろう近親の葬儀後の気持ちのありようがなかなか解らないものだ。近所のお婆さんがなくなって、おそらく四十九日までだったのだろうが、盛んにふだんは明かりの点かない部屋に明かりがあって、そこを通るたびに気持ちが和らいだのは、家に留まりたくなる亡者の気持ちがあったからかもしれない。

 7/31の夜、帰宅の夜道を歩いていると、すでに盆提灯が点っている家があった。思わずもう8月1日かと思ってしまったが、亡き人々が偲ばれ、亡き人々が家に戻ってくる季節がやってきて、少し田舎も賑やかになったような雰囲気があってほっとするのだ。そうこうしているうちに、六道の杜の魂迎えがこの8/6に行われたと地方紙に報道されていた。8/7には同じ伊那市でさ「サンヨリコヨリ」という行事も行われていた。いよいよ盆である。

コメント    この記事についてブログを書く
« 黄門様の戸別所得補償制度 | トップ | 赤穂のマチを歩いて »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとから学ぶ」カテゴリの最新記事