Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

田切駅

2017-11-10 23:30:01 | 歴史から学ぶ

カーブを過ぎた左手に今はホームがある

 

右手に駅舎があった。今はここに記念碑が建つ

 

駅へ向かう坂

 

 昼食時に近くにあったかつての駅を訪ねた。わたしの記憶の中にある駅は、最寄りにあった駅はもちろんだが、あと二つ、母とよく利用した駅だ。とりわけ母の実家に行く際に利用した高遠原の駅は当時から無人駅だったと記憶するが、母の妹が暮らしていた田切へ行く際に利用した田切駅は有人だった。高遠原にくらべると、利用した回数はくらべものにならないほど少なかったが、記憶では店が立ち並ぶ辻から旧坂を上ると駅舎があって、見通しの悪い急カーブにホームはあった。あまりに急カーブのため、3両編成の列車だと車掌が安全確認ができず危険だということで、駅は昭和59年に南へ移転された。当時移転したことをまったく知らなかったが、そののち田切駅に近いところに一時住んでいたこともあって、その時は最寄りの駅が田切駅だったので、移転された田切駅をよく利用するようになって、移転されていたことを知った。その移転された駅が冒頭の写真である。写真は旧駅があった現在の「田切」踏切から撮ったもの。まったく知らなかったが、この踏切のあるところは旧道にあたり、ここを西山に向かう道を「町谷高尾道」と言うらしく、踏切の西側に道標が建っている。この踏切まで坂を上ってくると、右手に駅舎があった。今はそこに「田切駅舎跡記念碑」というものが建っている。背面には次のように刻まれている。

 田切駅は大正七年二月伊那電気鉄道株式会社により軌道が開通された時に山田織太郎翁の尽力により開設された
 田切駅舎(二十五坪)は 山田織太郎翁が大正十四年十一月六日倉澤泰十郎より当地を借り建築する 初代駅長は倉澤泰十郎が任命される その後代々倉澤 山田家の関係者により継承す
 昭和五十九年六月一日 田切駅の移転に伴い廃駅となる
 平成九年六月一日
     山田洋三郎
     倉澤勘一  建之
        山田久子書

 駅舎の地権者である倉澤家が駅長となり、後にも駅の継承に尽力した。開通当時の駅舎はおおかた地権者などによって維持されてきたということなのだろう。路線選定の背景にもさまざまな伝承があって、興味深い話は多い。

 かつて坂を下ると辻に店が並んでいた。ここで手土産を買うと、母の妹の住む家に向かった記憶がある。もちろん今は辻に店は1軒もない。もう20年ほど前のことになるが、仕事でこの地域を盛んに訪れていた。あのころはまだこの辻に店があって、飲み物を調達するのが日課だった。

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