大脳皮質のジャンクヤード

トラック乗りのおっさんが自分の大脳皮質に落ちている思考のゴミをリサイクルして文章にしているブログ。

チャーム

2017年06月22日 | 雑記
私はかなり霊的に敏感な体質だが、御守りやお札を手にしても、具体的に人を守る力を感じたことがない。稀に人の思考エネルギーを認めるが、それは祈祷した人の残存思考でしかなく、やはり危険を跳ね除けるような強いエネルギーは込められていない。言ってしまえばフラシーボ効果を狙ったアスピリンという名の小麦粉と同じだと思う。ただ、それが大好きな人や大切な人からの贈り物だとしたら、大きな力を生むかもしれない。他から必要とされるアイデンティティを持つ者の思考エネルギーは、時として現実を書き換えてしまうほどのパワーを発揮することがあるのだ。しかしそれを神の力だとして崇めたり畏れたりするのは違うと思う。神は人にも物にも降りたりはしない。人は自分自身のワクワクで強くなれるのだ。

先日、ツイッターに気になる書き込みがあった。とある神社で働く人のものだったが、御朱印がネットオークションに出品されていることについてのクレームだった。そんなことをする人はもう神社に来ないでくださいと言うものだったが、世の中では彼らが述べるようなご利益よりも、御朱印の美術品としての価値の方が高いのかもしれない。私は個人的に、今回の騒動に於ける神社本庁の見解に興味がある。宗教とは言え法人である。この経済社会システムの中で組織を維持するための収入はいくらあっても良いだろう。むしろ自ら限定御朱印などを発行し、オークションに出品するべきだと思う。更に、神に仕える者は、如何なる理由があっても人を裁くような発言はしてはいけないと思う。

ところで、神は全てを赦すなんて言葉をよく聞くが、神は人を許したりはしない。何故なら、許すためには裁かなければならないからだ。時々、誰かを許せた自分に陶酔している人を見かけるが、問題は裁いていた自分にあることに気付いていない。御守りやお札に込めた念いをオークションにかけられて怒るのは、それが神の力ではなく、自分の仕事だと思っている人の、ただのエゴに過ぎないような気がする。
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