蕃神 義雄 部族民通信ブログ

部族民の精霊信仰、異界交流など独自の世界観は今も人の心奥に潜んでいます。彼等の心情と感性で今世界を批判したい。

猿でも分かる構造主義 その1

2017年04月05日 | 小説
=表題の第一回目の投稿です=2017年4月5日

社会人類学者、哲学者のレヴィストロースLevi-strauss(2009年10月死去)、訃報に接してから7年と半年が経過した。巨星墜ちる、一時代の終焉の感に打たれ寂しい思いにしばし、その数日、ひたった。そして、何故か、「いずれは著作を読破しよう」の意気込みに取り憑かれ、陰鬱とした気分を恢復する梃子とした。この感興を「意気込み」などとしたのは己の実力を知らないタワケ、そのなせる業であって、Levi-straussの読破はけっして実現出来ない。身の程知らずでしかないとは呟いた唇だって、これを寒々と知る。
著作(原語)のページを開かぬまま、気分だけが急かされる幾歳かが過ぎた。思いもかけない出会いが2015年に、これを偶然と伝えるのは出来過ぎ、降臨した。きっと何か、人の範囲を超越した「運命の力」が巡り会いを設定してくれたのだろう。
フランス語をやり直そうと決心して、昔、通ったA学院を訪れた、それが同年9月16日。学院の実名を出しても問題はないと思うが事務方と話をつけていないし、こんなブログを書いているの良からぬ評判が出ては通いずらいから黙っている。その学院はフランス語とフランス思想の教育、啓蒙では歴史があって評判も高い。東京お茶の水から歩いて8分と示せば、フランス語を嗜む方はたちどころに特定できる。故にあえてA学院とする。そして、ここの昔とは投稿子の学生時期なので50年前です。
久方振りの学舎を前にして外観は少しも変わっていない、これには感激した。一方、近隣に在ったはずの日仏会館(=MaisonFranco-Japonaise)が花屋の元締めに変わっているのに肩を落とした。50年の長さと重さか。
説明会にでると人類学・哲学の単科コースに「レヴィストロース悲しき熱帯TristesTropiques」を読むがありました。思わず「これだ」叫びました。X万円を「投資のつもり」、反対給付は期待しないで、ビンボー家計なけなしを、身を切り骨すら砕き、諭吉を握る腕の戸惑いを恣に震わせて、歯ぎしりガクガクを恥ずかしくも事務の少女に見せつけて、さっそくその場で払い込みました。
ちなみにXの単位は入学金とトリメストルTrimestre(3ヶ月の講習代)で4弱でした。
講師はアグレジェ資格を持つゴードー先生。ゴードー氏は(PierreGodo)、ご本人とは連絡が取れないのですが、A学院講師は経歴であり公の情報なので実名としました。
アグレジェとはリセの高学年と大学で教授に就任できる資格です。哲学のアグレジェとはかのレヴィストロースもサルトル、メルロポンティも取得しています。哲学人生の船出にアグレジェの肩書きがあったわけです。
ただし残念なことにゴードー氏は現在、A学院の講師ではありません。個人的事情で「退職なされた」と事務から聞きました。忙しい身の内と察します。
2016年10月からは別講師(エレガントな女性です)のメルロポンティ現象論の講義を受け、現象論と構造主義の考え方、世界観の比較を自分なりに取りまとめている処です。
ここまでが序論、本論にはいります。
1 悲しき熱帯で展開したレヴィストロースの思想を取り上げる。
同書の出版は1956年、構造人類学に次ぐ書であるが、代表作と評価が高い(=ネット上のいろいろ論評)未開の思考(PenseesSauvages)と比較されるが、後者は人類学の専門的考察を多く入れてあり、社会学系の学徒には必読かもしれないが、一般の読者には難しい。投稿子も読み始めたが「ニューヘブリデス諸島でのクラと呼ばれる習慣とは…」などは読み切れない。ゴードー氏も「哲学書として取り上げるに」前者が適しているとして教本に選んだと語った。
2 構造主義を方法論として取り上げるキライが最近ハバを効かせている。この「猿でも…」では哲学の思考として取り上げる。そこから入らないと何が何だか分からない。投稿子が学生の時、拾い読みして何も理解できなかった原因がこの「方法論」に空回りしたからである。構造を方法としたらこの世の中、全てが「構造」です。政治、会社、映画舞台劇も、山口組にもスパイ組織にすら構造は存在します。世界中が構造化して目出度しですが、これを思潮とも理解とも言いません。
哲学の思考とはデカルトとの相似、その発展と離反に尽きるわけですから、この伝統の思潮との比較によって構造主義を捉えたい。
3 彼は無神論者(ゴードー氏による)です。有神論は哲学の基礎です。デカルトは智の源泉を「神が人間に与えた」としている訳で「我考える」は「神の高みで考える」これは彼のような天才には楽です。考える対象の「本質」も「神が物を創造したから神に宿る」として辻褄が合います。単純明快でした。
無神論として構造を考える場合、人の「智」は誰が与えたのか、なぜ二重性(=Dualite)を基盤とするのか、その構造がかくも=頭の中から、親族構造、季節、神話にも=あまねく跳梁しているのかを考えます。
(1の了、2の出稿は7日を予定)
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小説
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