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RVでの小旅行。

正義とは・・・(その2)

2011-02-14 20:42:29 | 独り言
ネット上の正義を「ヨハネの黙示録」のラッパ吹きに準えているサイトが多い。黙示録的な考え方では、現代が悪の支配する時代であると云う認識だ。つまり、ネット上の正義が、現代を支配する悪としての独裁政権を打ち倒したのだ。SNSのそれは、従来のネット利用から少しだけ趣向が違うと思う。不特定多数への積極的な情報発信を考えた時、従来型のWebサイトやブログでは・・・そのサイトを認知される時点がハードルとなる。発信者自らがサイトURLを、読み手側が積極的にアクセスしてくるだろう検索サイト上位に置くという工夫が要求されるだろう。しかし、多くのSNSサイトではフォロー先の新着情報が表示される仕組みになっており発信者自らの労力に頼らずに情報伝搬を促進する可能性がある。そして、その情報伝搬には、その情報伝搬に携わった人の数だけ偏向されていく可能性がある。その偏向された方向性が、元発言者の意図とは離れた方向に向かう場合も在るだろう。ネット上のコンセンサス形成・・・果たして、そんな事が可能なのだろうか?

そして、SNSサイトではTwitterに代表される様に字数制限がある。その事がデメリットとならないのは、何よりもワンフレーズ・ポリティックスは分かり易い事、そして、Webサイトやブログでは・・・正確に説明したいと思う投稿者の意志が相当程度に長い文章とさせ生理的な拒否反応を招いてしまうのだろう。だから・・・、言葉足らずの感が否めない。しかし、その曖昧さがSNSの愛好される理由なのかも知れない。言葉足らずな曖昧な部分は、自らで補完し、自分に都合の良い方向への偏向を加え、自らの考えとして新たに伝搬させる事が可能となる・・・のだろう。

少し前・・・それこそ「ネット上のエチケットをネチケット」と呼んでいた頃では、ネットは世間からはみ出したマイノリティの意見を拾い上げるメディアと云われていた。ま、その当時はパソコンをネットに繋いでいる・・・マイノリティの中の更にマイノリティの意見を拾い上げていたに過ぎないが、現在の様に携帯電話でSNSを利用できる様になれば話は別だ。ネットは、既にマイノリティのモノでは無い。それでこそ、ソーシャル・ネットワーク・サービス(社会的ネットワーク・サービス)としての「社会」は、人類全体が属する現代社会全体に肉薄しているのカモ知れない。

当初は同じ言語で記述する同じ趣味や嗜好、居住地域、出身校、「友人の友人」と云った「自分自身と直接関係のない他人」との繋がりを通じて新たな人間関係を構築する場を提供する目的で使われていたのだ・・・と思うが、IT技術の進歩が「同じ言語」と云うハードルを取り去った。全地球人類の半分以上の人が、自らが望めば全地球上を対象に情報発信を為す事が可能となった。そして、自らが望んでもネットで情報発信できない人々も、政府等の所属する国家に依る公式発表以外の見解を知る機会を得た・・・と思う。言い換えれば・・・、現代の「バベルの塔」なのカモ知れない。

バベルの塔が造られたとされるのは、ノアの洪水(神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げ家族8人と動物達と共に箱船で難を逃れた)以降の事、神はノアの息子たちに世界の各地を与え各地に分散して住むよう命じていたにも関わらず・・・シンアルの野に集まったノアの子孫達は煉瓦とアスファルトを用いて天まで届く高い塔を造って世界各地に散るのを免れようと考えた。「もし神が再び地を洪水で滅ぼそうと望むなら,神に闘いを挑もう。水が達しないような高い塔を建てて,我らの父祖たちが滅ぼされた事に対する復讐をしよう。知恵を持ち自らで自らを統治できるまでに進化した人間が、理不尽な神に服するのは奴隷になることだ」とノアの孫ニムロドがプロパガンダを開始し、そして彼らは塔の建設に着手した。このバベルの塔のおとぎ話は、神が人々に違う言語を話させるようにした為、彼らは互いに疑心暗鬼に陥り混乱し、同じ言語を話す者達同士で世界各地へ散っていった・・・で終わる。

この逸話は・・・人間の技術の限界を示したモノだろうか?勿論、そう云った意味合いが大部分なのかも知れないが、私は背信者ニムロドの甘言に操られた人々への戒めを説く「おとぎ話」だとも思う。「正義」に反する行いをする体制を滅ぼすべきだ・・・と云う人々の願いを否定する気は毛頭無い。「ネット上の正義」が、「現代を支配する悪としての政権」と云う権力への対抗と、服従との二者択一を迫るなら・・・、それは「正義」では無いカモ知れない可能性を疑うべき・・・では無いだろうか?その耳に大きく響く声は、ニムロドの声では無いのか?

過去記事に於いて・・・「正義とは、『道理に適った正しい事』を意味する。だから、法を犯しても正義を貫く事が可能となる。西洋のソレは、【社会的な】『公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ』の色合いが濃く、日本や東洋では『人間の欲望を追求する【利】と対立する概念として【個人として】正しい行いを守る』と云う意味合いが強い。だから、日本語では社会正義(社会的な正義)と表現するのだろう。騎士道と武士道の違いも、そうカモ知れない。」と書いた。言葉足らずだと思うので書き加えるが、西洋の正義(ジャスティス)には「【社会的な】『公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ』」の意味合いが強く・・・「公正さ」が重要なファクターになると思う。そもそも日本語の「正義」とは『荀子』の「正名」編に「正利にして為す、之を事と謂い、正義にして為す、之を行と謂ふ」と書かれていて儒教の概念であったのだと思う。儒教的な意味では、倫理的な意味あいが強く、西洋的な「ジャスティス」の内包する「公正さ(フェアネス)」という意味合いが薄い・・・と思う。

別に西洋かぶれしているツモリは無いが「ネット上の正義」とは西洋的正義「社会的な公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ」の方が相応しいと思っている。「正義」という概念を考える時には、人々の中でどのようにしてフェアな在り方が生まれるのか、何故あるものがフェアであると考えられ、あるものがフェアでないと考えられるかを追求する事が大切だと思う。「公正さ(フェアネス)」という概念は、重要な概念だ。そして、正義が語られる時には、公正な在り方が問題にされると同時に、その公正さが踏み躙られているという憤慨の念が伴う。人が正義を声高に要求するとき、その人にとって我慢の出来ない様な公正でない事態が発生しているのであり、その事態を公正さの原理に遵って是正する事を要求している・・・のだろう。

その重要な概念である「公正さ」は、何を基準にすべきだろうか?ネット上で叫ばれる正義を為すべきだとの声が「ニムロドの声」なのか、そうではないのか、確認する必要は無いのだろうか?昨今、この世の中では「正義に反する行い」に対して「ネット上の正義」が牙をむく事例が特に増えている様に私には思える。尖閣諸島沖海保船衝突事件も然り、警察庁公安部テロ情報流出も然り、そして、某ネット予約サイトでの「スカスカおせち事件」、某有名ホテル従業員(女子学生)に依る暴露事件(?)等々も在る。その対象は政府組織と云う巨大なモノから女子学生個人という小さなモノまで多岐に亘る。私の地元では、犯罪者の父が経営する企業として根も葉もない噂がネット上から発生し非常にお困りになっている事例が報道されていた。悪を懲らしめるのなら良いが誤爆は駄目だよ・・・と云う意味ではない。「ネット上の正義」が為す正義は、法治国家たる我が国の正義と合致するのだろうか?と云う問い掛けのツモリだ。

Facebookでは、リアルな社会のつながり、実生活に基づいたつながりを、ネットワーク上で行うことであり、実名登録を必須としている。今月初旬頃から日本で非実名登録のFacebookアカウント抹消が発生しているのだそうだが、日本ではインターネットでの実名公開に抵抗が在る。お隣の韓国では2007年に「情報通信網利用促進および情報保護などに関する法律」へ「制限的本人確認制(実名登録制)」が導入されている。但し、個人に対しては大きな拘束力は持たないがサラッとネット・サーフィンすると本名・省略のない住所・電話番号がキチンと書かれたホームページも少なからず存在している様だ。「制限的本人確認制」導入のキッカケは、Webに於ける文責と、掲示板等での誹謗中傷への国家的対応だろう。だが、「スカスカおせち事件」「某有名ホテル従業員に依る暴露事件」の顛末を見ると・・・実名登録のネガティブな面が目立ってしまう。これらの「悪」に対する「正義の鉄拳」のバランスに些か疑問を感じてしまう。

ネット上のエチケットがネチケットを呼ばれていた頃なら、マイノリティの中のマイノリティが自説を垂れ流す場として、社会全体へ及ぼす影響も大きくはなかったと思うが、今や日本国民の大部分が高度なインターネット端末を持ち歩く様になっている。

暴力や権力に屈さず自由に意見や批判ができる環境を維持する事がネットを健全に保ち続けている・・・と云う主張をなさる方が多い。確かに、自由な意見や批判が出来ないネットと言うのは「言論の自由」と云う基本的な人権が抑圧された怖い社会なのだろう。だが、自らを匿名の彼岸に置いたままで、ネット上で「悪」を正義の名において糾弾する事が、「社会的な公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ」なのだろうか?「法を犯しても正義を貫く事が可能」な正義が、女子学生の個人情報をネット上に晒す事なのだろうか?こうした危険性を孕む・・・Facebookが日本で受け入れられるのは少し遠い未来なのかも知れない。

ネット上で喧伝される事実は、真実ではなく人工的な事実である・・・これは洋の東西を問わない筈・・・と思っている。

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