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RVでの小旅行。

グレーゾーンの容認

2012-02-20 19:52:25 | 独り言
相変わらず「まとまりがない」「長い」「何を言いたいのかわからない」と御指摘を頂いてしまう。確かに文章は情報伝達の道具であるから、情報が上手く伝達されない文章は出来の悪い文章だ。こうしたお叱りには、何度となく書いてきた通り下手な悪文を書く事を愉しんでいるのだから仕方がないと御容赦願うしかない。

個人ブログの文章にまで「明瞭さ」「効率」「果断さ」「クイックネス」「簡潔さ」「一貫性」「合理性」等々の最近流行の御世間的欲求を突き付けるのは如何かと思う。文章がダラダラと長いのも、何を書きたいか判らない文章である事も・・・自分がハッキリと主張したい事があると云う動機が文章を書く理由であれば困った事だが、理解されにくいカモ知れないが・・・自分の考えがハッキリしない事こそが文章を書く動機となる場合もあるのだ。それに私は、一本道の論理だけが正しいとは思っていない。そうして、私自身が私自身のモヤモヤとしたハッキリしない違和感の中から、私自身が何を言いたいのかを知る為に、当ブログを書いている・・・事が多い。

そもそも私は、「明瞭さ」「効率」「果断さ」「クイックネス」「簡潔さ」「一貫性」「合理性」を求める現在の日本社会の有り様には、危機感を懐いている。小学校の作文の授業で習った様に、5W1Hで端的に表現できる程に我々の社会は単純ではない筈なのに、マスコミ報道は小学生新聞の理想像を目指している様だ。

日本社会の日本的な、「なぁなぁ」で「不文律的な慣習」に基づいた「曖昧」な社会に住んでいる我々には、「明瞭さ」「効率」「果断さ」「クイックネス」「簡潔さ」「一貫性」「合理性」に裏打ちされ白と黒に二値化された世界を語る事こそ本当は難しい筈なのに、社会の有り様とは違う解釈を加える事が求められるのは何故だろうか?

マスコミが報道する小学生新聞的な5W1Hと、社説やコラム欄で表明されるマスコミの考え・・・で、世の中の諸問題が解決する方向に向かうなら何も苦労は要らないだろう。政治家に代わって社会の公器足るマスコミが政治を行えば良いのだから・・・。

今日の日本の政治課題も、白と黒で二値化出来る問題は殆ど無い筈だ。原発問題然り、TPP問題然り、東日本大震災からの復興問題然り、国家財政の問題然り、自転車の車道通行問題然り、オリンパス問題に代表される企業の各種コンプライアンス関連事案然り、少子高齢化問題然り、地球温暖化問題然り、デフレ問題然り・・・である。

日本が日本的な「グレーゾーン」を許容する社会から、白と黒に二値化される社会へ産まれ替わる事を国民全員が希求しているのならば話は別だが、自らが恩恵を受ける「なぁなぁ」で「不文律的な慣習」に基づいた「曖昧」さは既得権益として認め、自らが恩恵を受けない「なぁなぁ」で「不文律的な慣習」に基づいた「曖昧」さが許してきた他者の既得権益には厳しい鉄拳を下そうとするのだから
小学生新聞的な結論では問題は解決しないのだ。恐らく、我々自身では「なぁなぁ」で「不文律的な慣習」に基づいた「曖昧」な「グレーゾーン」を取り払う事は出来ないと思う。それなのに、我々の社会が持つ「なぁなぁ」で「不文律的な慣習」に基づいた「曖昧」さを、「不明瞭さ」「非効率」「優柔不断さ」「ルーズさ」「複雑さ」「御都合主義」「非合理性」を容認する余裕を失っているのだろう。

だから、政権選択は「旧弊な秩序に対する新秩序側の反発」や「既得権益を享受する層としてのバーチャルな敵役を設定し、その仮想敵への怒り」を「集票に利用する」方法で勝利したのだ。私に「維新政治塾」への応募を勧めて下さった方も居たが、その大阪維新の会にしても、民主党への歴史的な政権選択の構図と何も変わってはいない。

「維新」「改革」「新自由主義」「市場原理」「官僚支配からの卒業」「効率化」と云うキーワードで、「明瞭さ」「効率」「果断さ」「クイックネス」「簡潔さ」「一貫性」「合理性」を求める選挙民がお手軽に選択した結果だと思う。実際に大阪維新の会の「維新」や「改革」が大阪府政・大阪市政に真価が判明するのは数年先の事となる筈で、もはや党を問わず「既得権益を享受する層としてのバーチャルな敵役」と認識されつつある国会議員先生方も「大阪維新の会」の主張へ急速に迎合してしまいそうだ。こうして真価が判明する前に中央政権までが急速な進路変更を余儀なくされる事態となっている。

「大阪維新の会」が主張する「独裁と言えるような強い実行力」としての「強力なリーダーシップ」に基づく「スピーディーな意思決定」が実行されると・・・、それは、もはや民主主義では無い。民主主義とは、意思決定のプロセスに多様な民意を反映しつつ徐々に転進をする「非効率」な「ルーズさ」を宿命として内包しているのだ。これをマスコミ主催の世論調査の様な性急な方法で民意と仮定して市政・府政・国政の舵取りを任せるのは、ヒトラーを国家元首に選出したドイツ国民と同じ途を歩む。但し、「明瞭さ」「効率」「果断さ」「クイックネス」「簡潔さ」「一貫性」「合理性」を求める有権者を造り上げたマスコミに依って、その「独裁と言えるような強い実行力」としての「強力なリーダーシップ」に基づく「スピーディーな意思決定」を行う首長の人間性に総てが委ねられる事になる。民主主義の政体に「果断さ」や「効率」を求めては、民主主義自体の破壊を意味する。

「民主主義」と「市場原理」は、本来は似て非なるモノだ。多数決原理に基づく「民主主義」は、「市場原理」に於ける淘汰と似ている様に見えるが、「民主主義」は少数意見を淘汰するシステムではなく、少数意見を反映する機構を内部に持っていないと機能しないので「効率」とは無縁なのだ。

私の持論では、官のサービスにも市場原理を導入しろ・・・である。だが、政治に市場原理を導入してはならない・・・と思っている。市場は競争を促し、競争は携わる者に効率と生産性を分かち与える。その結果、市場原理競争を経て商品や労働力は、尚一層の効率化と生産性と品質向上を果たし、かくして市民は市場を通じて豊かな果実を手に入れる・・・だろうと云う市場原理の功徳は、文字通りに自由な市場競争に晒され、粗悪な商品や、割高な商品や、優れては居ても流通量の少ない商品は、淘汰されてしまう。淘汰される事で、商品は尚一層の競争力を得て、従業員は尚一層の生産性を得るのだ。生産性の高い従業員は引き上げられ、生産性の低い従業員は生産現場から排除される・・・事を不道徳だとすれば資本主義経済は成り立たない。だが、政治に市場原理を導入すると・・・非効率な少数意見は合理的に淘汰されてしまう。商品としての政治の効率は、偏に、少数意見の淘汰に依って容易く成し遂げられてしまう事が在るだろう。

橋下市長は「民意を無視する職員は大阪市役所から去ってもらう」と告げる一方、「民意に基づいて市政をしっかりやろうと考える職員とは必死にやる」とも述べ、職員に立場を鮮明にするよう迫った・・・のだそうだ。大阪市職員を「既得権益者」と敵視し「民意」を糾合するやり方は、民主党が官僚を敵視することを選挙民が支持しているかに見えた先の政権選択選挙の二番煎じだ。韓国や中国と云った近隣国が日本を仮想敵として好戦的な世論を醸成し支持を集める手法と似ている。

排除されるべきは、不公平感である筈だ。「既得権益者」と云うバーチャルな集団を仮想敵に仕立て上げるのではなく、個々の不正受給者や怠慢な役人こそが排除されるべき悪なのだ。なのに、「明瞭さ」「効率」「果断さ」「クイックネス」「簡潔さ」「一貫性」「合理性」を好む世論は、十把一絡げに「政治家」や「役人」や「官僚」は不正な「既得権益者」と決め付け様としている。それに・・・生活保護費の不正受給の実例を暴き、ともすれば「生活保護」自体を不当な「既得権益」と決め付けそうな勢いである。

怠慢な「政治家」や「役人」や「官僚」を放逐するのも、不当な「既得権益」を受給する犯罪者への法の裁きを下すのも、本来は政治の役割である筈だ。その神聖な役割を放棄し、十把一絡げの数値的削減論に終始するのは、政治の怠慢である。

第二次世界大戦後の経済秩序に支えられた我が国経済も、同後の世界秩序に支えられた我が国の政治形態も、既に時代には合わないモノとなっている。これを民主主義的に、今日的にアップデートし続ける不断の努力を怠っていることこそが「政治家」や「役人」や「官僚」の怠慢である。これを打破する為に、旧来の政党政治に準えて数を頼みに「民意」「民意」を振りかざすのでは、本来果たすべき「政治」や「行政」のアップデート作業は覚束ないだろう。

ヒトラーは「大衆は小さな嘘より大きな嘘の犠牲になりやすい。とりわけそれが何度も繰り返されたならば。」と、そして、「人をよりよくするのではなくそれらの弱点を利用するために、私はこの世界に入った。」と語ったのだそうだ。当に、どこかの国のマスコミの様である。良き批判者が、良き為政者に成れない事は既に明らかだが、批判者は「基本的帰属錯誤」を叫んでいるだけカモ知れない。怠慢な政治家は願い下げだが、マスコミの御用聞きとしてバリバリ仕事をする政治家にも御遠慮願いたい・・・モノだ。



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