源太郎のブログ

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「幌尻岳」

2014年08月15日 | エッセイ
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台風の直後、北海道の「幌尻岳」登って来ました。

以前、2回ほど沢のルートでは増水の為行けず、今回は

確実性を期して林道ルートで行くことにしました。沢ルート

は増水すると危険な為天候に状況に左右され易いのが

難点です。一方、林道ルートは林道歩きが片道19キロと

長いのが難点です。今回は林道ルートでしたが台風の直後

と言う事もあって歩き始める地点(林道ゲート)の手前約11キロ

地点で土砂の為進めず下車、結果林道歩きは30キロになり

無人小屋に着いたのが夜の7時前になってしまいました。徒歩歩。

翌日は山頂の単純往復でしたが朝は出だしからドシャブリの雨で

した。途中やみましたが上部は風強く凍える思いでした。北海道

の2000m級の山は侮れません。



ご挨拶

2014年01月01日 | エッセイ
新年あけましておめでとうございます

今年もよろしくお願い致します


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ブログ開設以来今年で8年目になりますが今年も

面白可笑しい、変な、ビックリする写真を中心にブログを

展開していきたいと思っておりますので引き続きご贔屓の程

宜しくお願い申し上げます。

源太郎



「船窪小屋」

2012年08月24日 | エッセイ
  寿子さんが船窪小屋の経営を引き継いだのは18歳の時だったと言う。小屋を建てた翌年、父親が雪崩で亡くなって突然の引き継ぎだった。戦後の登山ブームの始まった昭和30年の事。ブームが始まったとは言え18歳の若い女性にとって「山小屋」の経営は楽な事ではなかっただろう。営業的に小屋の立地はお世辞にも良いとは言えない。最短の七倉尾根を登っても標高差1400m、6時間の急登。北からは針の木の雪渓を登り蓮華岳から「蓮華の大下り」を下るルート、西からは殆ど歩く人の無かった針の木谷を辿るルート、そして南からは不動岳、船窪岳を辿る難路。どれをとっても一筋縄では行かない道だ。だから、寿子さんが「うちの山小屋は不利な立地でしょう。労多くして利なし」と嘆いたと言うのも頷ける。しかし、その事が逆に幸いし寿子さんを「身の丈に合った営み」に導いた。ハンディを意識し克服する努力が小屋の今に繋がっているのだ。だから、小屋は今でも定員50人の北アルプスでは一二を争う小さな小屋でもあり、最初から「女性」の視点で営まれた小屋だとも言えるのだ。


 立山や槍・穂高を一望できる七倉岳(2509m)の尾根筋に建つ小屋は、長年の創意工夫の甲斐あって今では多くの「船窪小屋」ファンがいる。利益に直接つながらない登山道の整備や手の込んだ料理に力を注ぐ事に「自分が手伝わなければと言う気になる」と言うファンもいると聞く。だから、宿泊客が多いと常連客が手伝う事も多いとか。そんな常連客は小屋に滞在する事目的に山を登って来ると言う。


 小屋の「売り」は何と言っても、今では「山の上のお母さん」と呼ばれる寿子さんが60年近く工夫を重ねた品数の多い手の込んだ料理だろう。食材も山で採れる山菜を瓶詰にして保存したり中華等多種に渡る。普通の山小屋の食事に慣れた登山者にとって、それは新鮮な驚きに違いない。そんな手間暇掛った料理でも「昔から日本の主婦がやっていた事。不便さは感じない」と言うのだから、長い間ずっと続けられたのだろう。


 「数」を求めるより「いかにもてなすか」に努力した結果、立派に「小屋」のブランドを確立した「小屋の方針」はユニークだ。私も嫌いな、どの小屋にもある「発電機」の騒音は此の小屋には無い。今でも昔ながらのランプが二つ、囲炉裏の上に灯る。多くの小屋で男女共用のトイレは多い。此の小屋は明確。女性は小屋の中、男性は外。これ程、はっきり分かれている小屋も珍しいだろう。私が一番びっくりして感心したのがトイレットペーパーだ。普通はロール状のトイレットペーパーだが、ここは20cm四方の和紙が束ねて杉の箱に入れられている。それもただの和紙ではない。「皺紙(しぼがみ)」と言われる縮緬のようにしぼ(皺)が入った和紙だ。これが実に「お尻」に優しく使い心地が良いのだ。小屋の「配慮」はこの「紙」に象徴されていると言っても過言ではないだろう。普通の小屋では「分別」する使用済みの紙もここでは違う。「自然に返る」紙を使っているからだと寿子さんから聞かされた。


 登山者が小屋に着くと鐘が鳴らされる。そして発つときもまた。その鐘の音は苦労して登った登山者をねぎらい、発つ者を勇気づける。「カーン」、澄んだ鐘の音は今日もまた鳴っている、のかな?




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「山小屋」

2012年08月04日 | エッセイ
 鳳凰三山の薬師岳から観音岳を過ぎて地蔵岳へ向かう分岐が赤抜沢ノ頭。ここまでは多くの登山者で賑う。ここから先は急にひっそりとして正面に見える甲斐駒ヶ岳が歩くに従ってどんどん大きくなって迫ってくる。最初の峠、白鳳峠を越えると次は広河原峠。その先に続くのが早川尾根だ。その尾根の途中に地味な山小屋がある。早川尾根小屋だ。山小屋は常々「独立王国」だと私は思っている。小屋の決めた「法律」が支配する「独立国」と言っても良いかもしれない。「法律」と言って大袈裟なら「ルール」だろう。そのルールが見事なほどに小屋毎に違うのだ。それは、靴やザックの置き方、朝夕食の時間、トイレの作法、寝具の取り扱い、食器の片付け方、消灯時間等々事細かに決められている。我々は色々な小屋を泊り歩くから、その違いを意識するが、小屋の方は、他の小屋のあり様は余り気にならないのではないか。だから山小屋一軒一軒が「独立王国」だと思うのだ。


 広河原峠から一登りでピークを越えると、この辺りでは珍しいなだらかで快適な樹林の道が標高2400mの小屋まで続いている。定員は30人と言うから、小ぶりの質素な小屋だ。到着を告げるとノートに住所・氏名・電話・翌日の行き先を書く様求められた。二行で!ときっぱりとした口調。これも、此の小屋のルールなのだろう。小屋代は一泊二食付で5千円。安い!小屋が汚いとか、古いだとか、狭いだとか、そんな事より、5千円で何が出てくるのか、一抹の不安を覚えた。夕食・朝食共、4時半だと告げられた。お~、早い。でも「法律」には従うしかない。そして、すぐにサービスされたのが「冷たい麦茶」。どうしたらここで、そんなに冷たく出来るの?と思う位、冷えて美味しい麦茶。9時間も炎天下歩いてきた身にはこの上ないおもてなしだった。


 入口の些か建てつけの悪い引き戸をガラリと引いてなかに入ると、すぐ土間を隔てて左右に寝床が広がる、昔ながらのシンプルな構造。土間に靴を脱いで、寝場所を確保すれば、あとはもうする事が無い。


 夕食の時間になると、と言っても夏の太陽はまだまだ高い時間、小屋の人がテーブルをセット。本日のお仲間は私を含めて一人旅の4人と4人組のグループが一つ、全部で8人。小屋の人が今晩は「親子丼」なんですが、大盛が良いか普通で良いか、聞いて回る。へ~「親子丼」なんだ~。珍しい。「山小屋」で親子丼の夕食、と言うのは初めて。でも、旨ければ良い。そして、告げられる。「お箸は夕食・朝食兼用です」。はは~、これが此の小屋の「法律」だ。これも珍しい。でも、合理的。そして、「親子丼」とみそ汁が運ばれた。「親」が殆ど見当たらず、「子」ばかり、おやおや、と言う感じ。でも、空きっ腹にはどうでも良い。味もまずまずで完食。後はお箸を箸袋に戻して仕舞うだけ。食後、単身4人組みで「山談義」が始まる。主役は南アルプスの一人旅9泊目、と言いう40歳の学校の先生。畑薙ダムから光岳、聖岳、赤石岳、荒川岳、塩見岳、仙丈ヶ岳、甲斐駒ケ岳と縦走して、10日目の明日、地蔵岳から御座石鉱泉に下る、と言うスケジュール。どひゃ~。凄い!


 翌朝、起床は3時50分、寒くまだ暗い。寝具を片づけてテーブルをセットすると、そこは「ダイニングルーム」に変身。今朝は、何が出てくるのか? じゃ~ん、「おでん」だ。意外な展開。大きなどんぶりに一通りのおでんの具がたっぷりおつゆの中に沈んでいる。ご飯とおでん。これもシンプル。食べて見ると以外に美味しい。おつゆの味も良い。「親子丼」の夕食と「おでん」の朝食、山小屋のメニューとしては実に斬新だ。


 今回の旅、ずっと前から歩きたかったルート。韮崎から行く甘利山から千頭星山を経由して苺平、南御室小屋に泊って鳳凰三山を巡り早川尾根からアサヨ峰、栗沢山を経て北沢峠までと言う行程。3日間の行動時間は、景色を見ながらのゆっくり歩きで24時間5分の久し振りに山の醍醐味を味わう事の出来た山旅だった。


写真① 初代の「早川尾根小屋」
写真② 一泊二食で五千円
写真③ 注意書き
写真④ 夕食
写真⑤ 9泊10日の先生
写真⑥ 朝食
写真⑦ 甲斐駒ケ岳と八ヶ岳連峰全景


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「一人旅」

2012年02月08日 | エッセイ
 奈良・明日香村、甘樫の丘と石舞台古墳のほぼ中間。役場のある通りを東に向かい、T字で右折すると、岡の集落の古い屋並みが続く通りに出る。古びた黒い瓦屋根の家々は古からの時間に洗われ古風な佇まいを見せている。通りを抜けると石舞台古墳は近い。古墳への入口をやり過ごして上居へ向かう道に入る。年も押し迫ったこの日、曇りがちで風も冷たい。舗装の道はうねりながら標高を上げる。上居の集会所を過ぎて間もなく、二手に分かれた道に、「ん?」となった。左の道はなだらかに下り、道の先は左にカーブして見えない。右の道は登りで真直ぐに舗装道は続く。はて、どちらに行ったものか?考える間もなく、私の足は左の道に向かっていた。ほんの20m程で高台の広い敷地に建つ建物が見えた。おや、民家か?このままでは人の家の庭に出てしまう。間違えた。踵を返すと、もと来た道を戻った。先程の分岐が見えた時、人が下りてきた。民家の住人だと判った。2人は目を合わせると、一瞬動きを止めた。明らかに、不審の目で私の事を見ている。私もこれはまずい、と思った。自分の家に帰ろうとしたら、自分の家の方から見知らぬ男が現れたのだ。逆のシーンなら問題はない、が実際はそうではなかった。まずいと思いながらも、咄嗟に「道」を聞く事にした。事実、道が判らくなっていたからだ。「談山神社」に行く道はどっちですか?」。長い髪の、いかにも陶芸家然としたその人は私が思っていた以上に親切に道を教えてくれた。そして最後に、頭の先からつま先まで私を「品定め」すると、こう付け加えた。「貴方の足なら1時間、いや1時間半位で行けますよ」。彼が言い直したのが気になったが礼を言うと歩き始めた。暫く舗装道が続いた後、「陶芸家氏」が教えてくれた通り、土道が始まった。沢沿いの湿った道だ。20分程登ると石の道標の建つ分岐に出た。「万葉展望台」へはそこから一登りで行ける。生憎の曇り空だったが「展望台」からの景色は素晴らしかった。西に「金剛山」、目の前には「大和三山」、そして北に目をやると遠くに奈良の市街も見えた。先程の分岐に戻ると「談山神社」へ向かう山路を東へ向かった。それにしても「空気」が冷たい。20分程歩くと舗装された林道に合流した。引き続き東へ道を取る。20分程歩くと、大きく「増賀上人墓(そうがしょうにん)、念誦崛(ねずき)」と書かれた「案内板」が目に入った。増賀上人は平安時代の僧、西暦1003年、87歳で没し、その入滅の様子は「今昔物語」にも記されていると言う。山路を登り、石段の先にある「念誦崛」は増賀上人が念仏三昧のまま入滅したと言う石を組み合わせた円墳だ。「念誦崛」を後にして更に東へ向かう。暫くすると人家が現れ金剛山も遠望できる。間もなく「西大門跡」だ。大きな石柱に「女人禁制」とある。ここから「談山神社」まではゆっくり歩いても15分程だ。飛鳥・法興寺の蹴鞠の会で出会った「中大兄皇子(後の天智天皇)」と「中臣鎌子(後の藤原鎌足)」が、藤の盛りの頃、神社裏山で秘密の談合をした、と言う。この談合により西暦645年、飛鳥板蓋宮で曽我入鹿を討ち中央統一国家・文治政治と言う歴史的偉業と言う、所謂「大化の改新」が成った。この地は「大化の改新談合の地」として伝承され「談山神社」の社号となったと言う。神社の境内にある十三重の塔は、678年に鎌足の長男により鎌足公の供養の為建てられたものである。


 谷あいの神社には日は差さず「冷気」が集まり、小雪もチラチラとし、寒さが一層増してきた。神社を出ると急な坂道を東大門へ向かう。途中、鎌倉時代の作と言う重文の「摩尼輪塔」がどっしりと、土中に突き刺さる様に建っている。花崗岩で造られた3m余の寺院などの聖域の入口に立てられている物だ。程なく、東大門が現れる。谷合の門は日陰で薄暗く寂しげに建っていた。


 さて、もう3時近い、戻ろう。石の道標のある分岐まで1時間ほどで戻ると、もう一度、古の都を見渡せる「万葉展望台」に行く事にした。幾分か回復した天気の下、雲間から差す光が大地を照らし神々しい。暫くベンチに座り、孤独と静寂と景色を楽しんだ後、分岐を東山に下った。


分岐から20分も歩けば人家が現れる。冬の夕方、日が落ちるのは早く辺りは少し薄暗くなりかけている頃、ブドウ畑で作業をしてる人が目に入って立ち話が始まった。展望台の事、ブドウ畑の事、横浜来た事等話し終えると聞かれた「今日はどこへ泊るんですか?」、「はい、岡のYさんの所ですよ」「ああ、Yさんの所ね」、この辺りは皆、知り合いの様だ。先を急ごう。日暮との競争だ。飛鳥神社から飛鳥寺。「水落遺跡」の前を通って「飛鳥板葺宮」近くのYさんの所まで来ると、もう夕闇が私を追い越していた。


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「甘酒」

2011年12月16日 | エッセイ
大川(隅田川)に掛る永代橋のたもとで味噌を商う「乳熊屋(ちくまや)」の主人、竹口作兵衛は、その朝の出来事に「驚愕」したに違いない。驚いたのは、血飛沫(ちしぶき)に染まった火事装束の武士の一団の中に居た、共に俳人「其角」門下で旧知の「大高源吾」から手短に事の次第を聞かされたからだ。


江戸開府から90年ほど経った元禄の初め、伊勢国乳熊(ちくま)郷から作兵衛は出て江戸で「味噌屋」を始めた。それが「乳熊屋」の始まりであった。元禄14年12月15日の朝は、繁盛していた店の増築の為の棟上げ式の日であったと言う。朝から、その準備に追われていた。事の次第を聞いた作兵衛は「四十七士」を招じ入れると棟上げ式の為に準備していた「甘酒」を振る舞い労をねぎらった。打ち入りで本懐をとげた浪士達は吉良邸近くの回向院に断られ、ならばと、浅野家の菩提寺、泉岳寺に向かう事にした。途中、船で大川を下ろうとしたが船宿にも断られてしまったと言う。見ず知らずの、血飛沫を浴びた、異様な風体の一団を見れば、船宿が「断る」のも道理だろう。寒かったと言うその日、作兵衛からふるまわれた「甘酒」は、殊更「暖く」浪士達の腹にしみ「本懐」を遂げた喜びが湧いた瞬間だったのかもしれない。


 12月14日、その「赤穂浪士」の辿った道を「吉良邸跡」から「泉岳寺」まで歩こう、と言う、些か「浮世」離れの企画が行われた。両国駅に集合した我々は、早速そこから10分程の距離にある「吉良邸跡」に向かった。「本所松坂町」と言えば「吉良邸」の代名詞の様な地名だ。「吉良家」は事件の後御取り潰しとなり屋敷も明け渡しとなった。そんな忌まわしい後地に住む「武士」はいない。2500坪の広さの土地は「町家」に変えられ、町人の住む町、「松坂町」となったのであろう。今は10坪ほどの狭い空間だが「本所松坂町公園」として昔のよすがを偲ぶ場所となっている。我々がその場所に着くと、地元の人達が、多分、毎年の恒例の行事なのだろう、椅子等を並べ準備をしている所だった。ここが、まさしく、その日の我々の出発点になるべき場所であった。


 雨模様だった空も、我々が歩きだす頃には雨も上がり傘の必要も無くなった。8時過ぎ、「吉良邸跡」から回向院の前を通って永代橋を渡り霊岸島、八丁堀、鉄砲洲、築地、新橋を経由して泉岳寺に着いたのは午後2時を少し回った頃の事であった。泉岳寺が近付くと急に人通りが多くなり、5万人とも言われる、参拝客は門前から溢れていた。元禄15年12月15日の当日、「浪士」が泉岳寺に着いた事が知れ渡ると、門前は、その姿を一目見ようと多くの江戸市民で埋まった、と言う。当時の川柳にも「昨日まで誰も知らない寺だった」と言われた位、一躍、江戸で一番名の知れた寺になり、そのにぎわいは300年後の今日まで続いているのだ。毎年、恒例の行事「義士祭」が今年も行われた。「四十七士」に扮した面々がお定まりの「装束」に身を固め泉岳寺までの道を練り歩くのだ。「浪士達」の行動は江戸庶民には「美談」「義挙」と称えられたが「忠義」とは何か、「武士道」「法」とは何か、江戸時代を通し、今でもその論争は続いている。


 「甘酒を飲んで行きなさい」、と我々一行が永代橋に差し掛かる、丁度その時、声が掛った。そこは事件の309年後の今でも同じ場所で17代目「作兵衛」が「味噌屋」を営む「ちくま味噌」の店の前であった。殊更寒かったその日の朝、ふるまわれた「甘酒」は冷え切った我々の体と心を温めた事は言うまでもない。


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「ガウディ」

2011年07月18日 | エッセイ
こっそりと、ベッドに横になってみる。ふわぁ~と、一瞬無重力になって、体がスーッとどこまでも沈みこむ、そんな感じがした。体の重みがなくなり静かに、そして無限に沈んで行くようだった。


 そのベッド、ガウディの寝ていたベッドだ。スペイン・バルセロナの中心から少しはずれた丘の上のグエル公園の一角、サグラダ・ファミリア教会等で有名なアントニ・ガウディ(1852年~1926年)住んでいた邸宅が建っている。その内部を博物館として公開しているのだ。大分以前の事だから、告白しても、もう「時効」だろう。邸宅2階の寝室のベッドに禁を犯し、誰も居ないのを幸いにロープをまたいで、寝て見たのだ。その、無重力でどこまでも沈んで行くような感覚が、そのベッドの素晴らしい、ガウディらしい意匠と共に今でも深く私の記憶に残っている。


 世界遺産にもなっている「グエル公園」は20世紀初頭、自然と芸術に囲まれて暮らせる60棟の邸宅「団地」を作ろうと、ガウディとグエル伯爵が意気投合して始まった。だが、理想と現実は別物。何と、誰も買い手が居なかった。売れなかった訳は、多分、余りの斬新さと辺鄙だった当時のロケーションだったのかもしれない。仕方なく2人は一軒づつ自ら購入して、終りとなった。ガウディの自ら買った家は今では、博物館として公開され、もう一軒は現在でも人が住んでいる。観光客の多く集まる世界遺産の大公園に聳え立つその一軒家は壮観で、世界でもっとも「豪華」な邸宅と一つ、と言えるのかもしれない。


 バルセロナは人口170万人、周りの衛星都市を含めれば400万人と言われるスペイン第二の大都市だ。1992年にはオリンピックも開催されカタロニア人の町でもある。カタロニア語とスペイン語が公用語でカタロニア語はポルトガル語とスペイン語の中間位の言葉との事。フランス語等と同様にカタロニア語やスペイン語もラテン語をルーツに持ち、同じ系統の言葉だ。イベリア半島ではバスク語だけが異質の系統に属し独立した言語だと言う。スペイン語ではスペインの事を「エスパーニャ」と言うが、これは「日の沈む国」と言う意味で、日本とは対照的な国名だ。スペインでは公務員の勤務時間は8:30~14:00までだそうだ。一日が二日に使える、夢の様な勤務体制だ。これでは「日の沈む国」ではなく「国沈む国」なのも「納得」と言う感じだ。尤も、朝から夜まで働いても「沈む国」もあるのだから、同じ「沈む」なら、どちらが良いか、ちょっと考えさせられる。


 バルセロナには世界遺産に指定されている建物が多い。その、殆どがモデルニスモと呼ばれ、バルセロナを中心とするカタロニア地方に19世紀末から20世紀初めにかけて起った新たな表現の建築様式を求めたものだ。その一つに、ガウディの先生であったドメネク・モンタネールの作ったサンパウ病院やカタルーニャ音楽堂がある。今や「世界遺産」の音楽堂、と聞けば、さぞかし「いかめしい」と言う感じがするかもしれない。実の所、この音楽堂はオルフェ・カタランと言うアマチュア合唱団が1908年に寄付を集めて作った。つまり、市民が自ら作った音楽堂なのだ。だから、場所も、狭い道に面した旧市街地の生活の場に造られた。収容人員2千人、フラメンコからヘビメタまで何でも来い、の庶民的な会場で年間300回も演奏会開かれると言う。


 ガウディ関連の世界遺産の建物は、グエル公園、グエル邸、カサ・ミラ、カサ・ヴィセインス、カサ・バトリョ、そしてサグラダ・ファミリア教会と計六つを数える。何れも、世界遺産に相応しい斬新・奇抜な建物だ。現代人の私が今見ても、「斬新・奇抜」だと感じるのだから100年以上前は「衝撃的」だったに違いない。モンタネールやガウディを始めとするモデルニスモの旗手たちの発想がユニークであった事は勿論だが、建物はそれだけでは建たない。その発想を「勇気」を持って受け入れ大枚の「お金」を出す建築主抜きでは生まれなかった建物群である。ペレ・ミラが建築主となって建てられたカサ・ミラは完成当時、「飛行船の発着場」と地元市民からは揶揄されたと言う。お金の掛る建物の資金は18世紀終わりから20世紀にかけカリブ海貿易によってバルセロナにもたらされた富とその後、織物に投資して財をなした人々が支えていたと言う。建築家(芸術家)と建て主が相まって今に偉大な「遺産」を残したのだ。


 バルセロナは「先進的」な土地だ。バルセロナに関係した「前衛芸術家」を挙げれば、ミロ・ピカソ・ダリ・ガウディ等多士済々である。スペインでは「国技」とも言われる「闘牛」もバルセロナでは今年限りで終り、だと言う。バルセロナのスペイン広場近くの大きな「闘牛場」も既に大きなショッピング・センターに変っている。


 バルセロナの世界遺産に触れる時、ガウディの構想した「ダグラダ・ファミリア教会(聖家族教会)」に触れない訳にはいかない。20年ほど前、私が初めてバルセロナを訪れた時ですら協会の建築は建て始めから約100年を経過し、完成まで、後、数百年とも言われていた。まだ、屋根すら無かった時代だ。それが今や、アルファンブラ宮殿やピカソ美術館を凌ぎ、年間250万人を集めるスペイン一の「観光地」に変身していた。人が多く集まり始めたのは15年程前からだと言う。それまでは、日本人観光客が多く、バルセロナ市民からは訝しげに見られていた事もあると言う。教会の世界遺産指定は意外な事に遅い。指定されたのは2005年になってからである。理由は簡単だ、建築中の建物は世界遺産には指定されないのが通例だったからだ。だから指定されたのは「誕生のファサード」と言われる部分だけであり、全体が世界遺産に指定された訳ではない。昨年にはローマ法王によりミサが行われ、初めて正式なバシリカになったばかりだ。


 年間250万人の訪問者と言えば1日平均約7000人。今や、何時行っても「凄い人の数」だ。だから入場は勿論予約制で一人10ユーロ(約1200円)。尖塔へ登るエレベーターは時間指定で勿論別料金だ。教会の敷地内にあるショップも人で溢れ入場制限をしていて溢れた人が外に列をなし入場を待っている有様だ。教会は主に寄付と入場料収入で造られているから、最近の盛況ぶりで一時はあと、何百年と言われていた完成も、豊富な資金を背景に、ガウディ没後100年に当たる2026年を目指すまでになっている。バルセロナにとって、「救世主」とはキリストの事ではなく、これだけの人を集めるガウディの事ではないかと思ってしまう程だ。しかしながら、皮肉な事に殊更信心深かったガウディは神が作ったと信じるモンジュイックの丘の高さ170mを超えない様、教会の高さを決めたと言う。その建物の素晴らしさは比類を見ないから、日本から飛行機に乗ってその建物だけをわざわざ見にゆく価値は充分にある、と私は思っている。


(フランスとスペインの旅の写真をまとめ、このブログ内にフォトーアルバムとして掲載致しましたので併せて御覧頂ければ幸いです。)



「三角点」

2011年06月10日 | エッセイ
 人には何かを「収集する」と言う性癖がある。切手・ミニカー・コイン・骨董等々だ。「性癖」と言ったら語弊があるが所謂、物を集める「趣味」だ。その「趣味」が高じると「征服慾」になることがある。微に入り細に渡り徹底的に集めまくり他を凌駕しその収集分野の頂点に立ち「征服」したい、と言う欲だ。関わりの無い人間からすれば、その様は時として「狂気」と映らない事も無い。

 「物」を集める、と言うのとはちょっと違うが、ひたすら「三角点」を集めた人が居た。生態学者・人類学者として名高い今西錦司氏(1902-1992)だ。13歳で京都の愛宕山に登ったのを皮切りに83歳で1500座、都合77年間で1552の三角点を極めたと言う。その今西錦司氏の足跡を辿る「今西錦司 三角点を巡る 1550山登頂記録」展が茨城県・筑波市の国土地理院で過日開催され足を運んでみた。

 日本山岳会の会長も務めた今西錦司氏が1992年亡くなると赤線が引かれた1281枚の地図が国土地理院に寄贈された。今回の展示は、その地図を元に開かれたものだ。会場に入るとまず驚かされたのが壁一面に描かれた巨大な日本地図。氏が登った三角点のある全ての山が日本地図に描かれていた。文字通り北から南まで、数々の離島も加えて隅々の山を登った事が一目瞭然だ。日本百名山を全て登ることすら大変なのだから、その15倍の数の山に登る労苦は想像に難くない。だが、氏にとっては、むしろ「労苦」と言うよりは「収集癖」が高じた「歓喜」だったかもしれない、と言ったら言い過ぎだろうか。登った山のルートを赤線で地図に入れる、と言うのは山に登る人々の共通の「喜び」かもしれないが、氏はこう言っている「これで満足がいく、と言う赤線が全部入った時、その地図を見るのがうれしゅうてな。その地図には俺の精神がこもっているのや」と顔をほころばせたと言う。展示の中には普段は中々目にする事の無い行動記録が記載された地図等があった。地図を如何に整理・保管するかは人夫々個性がある。氏はその「整理法」についてこうも書いている「私も地図をもちだすときには八ッ折にして、私の図のうの中へ入れて歩くが、かえるや否や、このたたんだ地図を開いて、まず歩いてきた道に赤鉛筆で太く赤線を入れる(略)私の場合はひろげた地図をふたたび畳まないで、念入りにしわをのばしたうえ、これを箪笥式になった引きだしにしまいこむのである(略)なにしろ右書き時代の地図を、おおかた揃えていたところへ、あらたに左書き時代の地図がはっこうされたのだから、地図がおおすぎるのである。(略)その他に台帳というか台地図というか、山には絶対にもってゆかない、そのうえに各山行の赤線を集積した地図がある。これほど紛失のおそれのない地図はないであろう」日本山岳会「山」1977年6月。つまり、氏は山で使った地図に赤線を入れ広げたまま入れる事の出来る小さな箪笥のようなマップケースに保管、それに加えて山には絶対に持って行かない同じもう一枚の地図にも赤線を入れて「台帳」として保管していたのである。だから失くす心配は無い、と言っているのだ。我々が地形図を買いに行くと店では大きな引出しのついたキャビネットに収納されている。氏はそのキャビネットを、多分特注し、「箪笥」と称して自宅に持っていたのだ。「収集家」の面目躍如で「お見事」と言う外ない。

 因みに、私の「性癖」と言えば、「行動記録」を残す事、だろうか。仕事柄、「記録」には特に拘りを持っている。山を歩く人なら「行動記録」を書いている人は多い。私の場合は朝起きてから帰宅するまで、何処で何をしていたか、何処に何があったのかをひたすら記録する。多い時は1時間に20回も記録する事もある。溜めてしまったら後から整理するのは不可能だから、記録の整理は翌朝、必ず数時間かけてやることにしている。私の唯一の「財産」とも言っても良い「行動記録」はA4のファイルで現在74冊になってしまった。

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「気散じ」

2011年03月21日 | エッセイ
 「今日はすいているみたいで、嬉しい」と鎌倉駅の改札口の外で、「鎌倉見物」に来たらしい女の人がつぶやいていた。なぜ「すいている」のか、訳を考えれば喜んでばかりいられないのではと、私は思った。

 「大震災」から一週間程たって、私の生活リズムはすっかり狂ってしまった。なぜか集中力がわかないのだ。もっぱらテレビに見入り、パソコン画面に見入る時間が多くなった。月内の殆どの予定をキャンセルし、家に引きこもった状態になってしまったのだ。突然降ってわいた「長期休暇」も喜んではいられない。何も心配する事がなければ、近場の海外にでもぶらっと、出て見たい所だがそうは行かない。鬱々とした気分を散じる為、1人、山を歩いてみよう、と思った。体力の低下も防止できるし、常々調べたいと思っていた鎌倉アルプスの枝道や踏み跡をしらみつぶしに歩こう、と思ったのだ。それに、こんな時、山に人は出ているのだろうか、と言う興味もあった。晴れてそれ程寒さも感じない、連休初日と言うお日柄の鎌倉、普通だったら人で溢れているはずなのだ。

 最寄りの駅から電車に乗ると、お墓参りにでも行くのだろうか、何事もなかったように、沢山の人が乗っている。それでも、普段のより多いのか、少ないのかは判らない。とにかく、皆、何事も無かったような風情だ。普段なら、三日にあげず歩いている我が身にとって、一週間も歩かないと、もう体がなまった感じがする。体力も、わずかだが落ちているのだろう。やはり、山の体力は山で維持する以外ない。

 鎌倉の駅前、やはり普段の「喧噪」とは違う。人は沢山いるが、普段はこんなものではない。でも、「霊園」に向かう私の乗ったバスは墓参に行くらしい人々で満員だった。目的のバス停で降りるとすぐに歩き始める。予め、解明したい枝道や踏み跡は決めてある。それにしても、普段、余り一人で歩く事は少ない。同行者がいる時、未知の枝道や踏み跡を見つけると、そこに入って見たい衝動にかられる。獲物を前にした「猟犬」の気持だ。そんな時は、踏み跡の状況を「記録」して、後日再訪する事もある。何故、それほどの衝動にかられるのか、自分にも判らないが、その道が何処に通じているのかを、知りたいと言う大いなる「好奇心」に違いない。出掛けたのが遅かったので、登山口から歩き始めて15分程、最初の分岐で、もうお昼にした。その間、目の前を通る人を観察していたら10人程の人が通過した。ほんの10数分の間だから多いな~と、その時は感じた。昼食の後、お目当ての枝道に着いて躊躇なくそこに入る。初めて歩く道は、私をわくわくさせる。早く歩けばそれだけ沢山見られる、と思っている為か、とても速足だ。だが、全ての分岐では必ず状況を記録し写真を撮ると言う作業を繰り返す。程なくしてT字分岐に着いた。大体の方向感覚で右へ行く。3分程で又T字。ここも右に行く。数分歩いてすぐに既知の分岐になったので戻る事にする。今度は最初のT字分岐に戻り左の踏み跡を下る。すぐ小さな尾根が二手に分かれる。左手の尾根を下り、すぐ右の尾根に乗換える。急な下りの後踏み跡はトラバース道となり進む。踏み跡はやがて沢に下り水流に沿って行く。最初の分岐からここまで約30分、やがて沢は本流に合流し過去に歩いた事のある一般道に出た。私が下水の様な所を歩いているのを一般道を歩いている人が見たらびっくりするに違いない。そこから、又、天園へ向け登り返した。自分にとって未知の道の発見は大きな喜びだ。今日は大きな収穫があった。

 私の「枝道探検」は何時もこんな具合だ。が、殆どは徒労に終わる。今回のような「発見」はまれなのだ。天園に戻ると、行きつけの茶屋のおばさんにインタビュー。人出は、「お日柄」にしては、ちょっと少なめ、との事だった。それでも、茶店には10人程のお客さんが居た。北鎌倉に着くまで何人ものハイカーとすれ違ったが、ちょっと驚いたのはこんな時でもトレイル・ランナーが沢山走っている事だった。

 帰り、私は「屋台」を引いてはいなかったが横浜駅に隣接した「デパ地下」に寄った。ものすごい数の人出で溢れていた。入口を入ってすぐにあるケーキ売り場には黒山の人だかりだ。地震の被災地の窮状と比べ、何と言うコントラストかと思い、私は愕然としてしまった。



「その時、山が、左右に、ユラユラと、ゆれた」

2011年03月12日 | エッセイ
芦ノ湖の西岸。地図では「好展望」と書かれた所に「箒ヶ鼻」と呼ばれる小さな岬が湖に突き出ている。その岬を過ぎて暫く行くと、かつてあった地震災害の慰霊碑がある。昭和5年(1930年)11月26日早朝、丹那盆地を震源としたマグニチュード7.3の内陸直下型地震が発生し土砂崩れ・陥没・地割れ等を引き起こした。「慰霊碑」のあった所には御料局の造林作業に従事する人達の宿舎があり地震で芦ノ湖に押し流され8名の人達が亡くなったと言う。へ~、そんな事があったんだ~、と思う我々が、数時間後、もっと大きな地震に襲われるとは、その時夢にも思わなかったのは言うまでもない。

 芦ノ湖の西岸を半周する、と言う企画は数日前に降った雪の影響で11日に延期となっていた。当日は、ちょっと風が冷たかったものの朝から願ってもない青空快晴の日和。箱根湯本に集合してバスで関所に向かう。箱根の坂を登り、バスが高度を上げるに従い道路脇に寄せられた残雪が顔を出し始める。そして、バスが湖畔に下ると、雪の跡も所々に散在する程度になっていた。準備体操もそこそこに歩き始めたのが11時前。暫く歩いた旧街道に別れを告げて進むと「畑引山」のある「やすらぎの森」へ続く山道の分岐が現れる。今回は、「畑引山」を歩くのも目的の一つだから指導標のある山道に入る。暫く、数センチの残雪が所々に現れる。「畑引山」は標高776mの山だが登山口からの標高差は約40mだけ。あっと言う間に通過して残雪を踏みながら下山。西岸周遊路に出る手前で早々と昼休みをとる。

 昼食後、所々薄っすらと雪の残った林道風の道を行く。間もなく車止めのあるゲートを過ぎると「白浜」と言われる所を通過。そこから30分程で、くだんの慰霊碑のある場所に着く。周遊道は湖岸に沿い造られ、遠望する雪を頂いた駒ケ岳が美しい。道は「百貫ノ鼻」へと続き「真田浜」では湖岸の小さなビーチに降りて小さな波の打ち寄せる音を耳にし、対岸に見える権現神社の大きな赤鳥居などの景色を楽しんだ。

深浦水門から「立岩」と呼ばれる所を過ぎ「小杉の鼻」と呼ばれる岬を過ぎた辺りでやや道が狭くなり、残雪が圧雪され、やや滑りやすい下りがあった。道の右斜面は湖面に向かって急角度で落ちている。雪が無ければ何と言う事もない所だが安全策を取ってロープを張る事にした。ロープを張りながら現場を行きつ、戻りつしていると、突然誰かが叫ぶ。「先生、地震ですよ!」ふと見上げると山が右に左にゆっくりと大きく揺れているのが見えた。私には何も音が聞こえず、ただ景色が揺れている事だけが判った。だが、我々に出来る事はその危険地帯を一刻も早く立ち去る事だけだ。揺れが収まると短い距離だが、ロープと木に掴まりながら下山を開始した。ネットで地震情報を見ながら湖尻水門を通過した後、5時前、桃源台に着くと丁度小田原行きのバスが出る所だった。

 最初はスムーズに流れていた道路も宮城野を過ぎる辺りから交通渋滞で遅々として進まなくなってしまった。地震で皆一斉に帰路を急ぐ人が増えたのに加え、高速道路の閉鎖で一般道路がパンク状態になってしまったのだ。登山鉄道が動いている事を知って、我々は急遽宮の下でバスを下車。その時既に運行が止まっていた新幹線・東海道線・小田急線が再開する事を期待して登山電車で湯本から小田原へ出る事にした。午後7時半、桃源台を出てから2時間、ようやく小田原駅に到着。改札口の外は人で溢れかえっていた。東海道線だけが問題ならその日の内に復旧する可能性はあるが、JR東日本全体の問題なので、東に向かう電車の運転再開は無さそうだ、との判断で、小田原で一夜を明かす事にした。駅で小田原市が避難所を提供している事を知り、全員そこへ向かう事にした。ぞろぞろと、人の群れに従い、10分程歩いた所にある中学校に到着。外も中も人で溢れていた。登山靴を脱ぐとすぐ毛布を配る列に並ぶ。市役所の職員とボランティアの青年が箱から毛布を取りだし配っている。毛布を受け取ると、既に満杯の一階から2階の体育館に誘導され毛布を敷いて寝場所を確保。我々の後からも続々と毛布を手にした「帰宅困難者」が続く。後で聞いたら、中学校の避難所には約1000人が一夜を明かした、と言う。でも、我々は、取敢えず今晩の寝場所を確保して一安心した。随時、ネットで情報を収集、携帯で連絡が必要な人に電話で安否を知らせる。ひと段落するとお腹の事がようやく気になり始める。全員の食料を出して「夕食」をとった。同時に、小田原市の職員が「乾パン」の夕食を配り、暫時新幹線・東海道線・小田急線の運行状況が連絡される。9時過ぎからぼつぼつ寝始めるが照明の明るさと「騒音」で寝るどころではない。深夜、12時少し前、小田急線が12時頃から復旧するとの情報が入る。12時過ぎに電車に乗っても町田・新宿は午前1時・2時の話だしその先の交通手段も不明では行く事は出来ない。

 殆ど眠れぬまま朝を迎えて5時過ぎに起床。7時過ぎには東海道線も動き出すとの情報が入っている。市役所の人が、カップラーメンのサービスがあると知らせている。早速、列に並びカップラーメンを貰う。戸外の大鍋でお湯を沸かしラーメンを作っている。寒い一夜を過ごした後の暖かい食べ物が嬉しい。親切で行き届いた市役所の職員の活動には頭が下がる思いだ。朝、7時過ぎ、小田原駅での運行状況確認の為避難所を出る。JRの改札内外には人が溢れしきりに職員がマイクで状況を説明している。7時から運行する筈の電車が出ないのだ。何の事か判らなかったが「番線の確認」の為との事。ただ待つよりはと改札口に戻って喫茶店でコーヒーを飲みながら待つ事にした。小一時間後、JRの改札口に戻ると状況に変化は無かった。即座に、東海道線を諦めて既に通常通り運行中の小田急線に変更。8時半頃、小田原を後にして長い「一日」を終り我々は帰路に就いた。

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