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隣人になろう(ルカによる福音書10章25節から37節)

2015年09月25日 | 今週の説教

 

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ルカによる福音書10章25節から37節

25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

 

今日、イエス様は律法の専門家と論争をなさいます。

これは、律法の専門家の方から、論争をふっかけてきたんですね。

律法というのは平たく言うと旧約聖書ということです。

旧約聖書の専門家、ユダヤ教の指導者がイエス様に挑戦する、そういう場面です。

まあ、聖書の中でよくある場面ですね。

 

この時、律法の専門家は、イエス様に質問しました。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。

何かいきなり大胆なことを質問してくる人だな、という感じですが、この質問は、この時代のユダヤ教にとって一番大事な問いでした。

これが一番大事なことだというのは分かります。

「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」。

永遠の命というのは神の国でのものですから、この質問は、「どうすれば天国に入れますか」という質問でもあるわけですね。

天国に行けるか、行けないか。

これ以上大事な問いはないくらい大事な問いです。

 

けれども、少し考えてみると、この質問、どうでしょうか。

この人は、本当の意味で信仰的な質問の仕方をしているでしょうか。

「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。

こういうふうに聞くということは、この人は、自分が何かをしたら永遠の命をいただける、と思っているんですよね。

自分が何かをしたら、神様は自動的に与えてくださる。

これは、自分の行いで神様をコントロールしてやろうという感覚ですよね。

自動販売機にお金を入れて、ジュースを手に入れる、というのと同じ感覚です。

ですから、この質問は、一見、信仰のことを真剣に質問しているようでいて、実は本当の意味では信仰的ではないんですね。

聖書はそれを罪であると言っているんですが、この人はものすごく自分中心の考え方をしているんです。

永遠の命は神様がくださるものです。

人間がつかみ取るものではないんです。

この人は、そういう自分中心の考え方を変えなければいけないんです。

 

ところが、面白いことに、イエス様はこの人に対してそういうふうにはおっしゃいませんでした。

「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。

質問に対して、質問を返したんですね。

このイエス様の質問は、律法の専門家たちが良く使った言い方なんですね。

旧約聖書の専門家たちは、質問された時に、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」、というふうに返したんですね。

つまりここでイエス様は、律法の専門家の質問に対して、律法の専門家の言葉遣いで質問を返したのです。

おそらくイエス様は、この人が自分を試そうとして質問をしてきたのだということを見抜いておられたんだと思うんですね。

だから、受けた質問に対して、相手の言い方で返事をした。

分かっていますよ、という感じですね。

 

この人は、イエス様の質問に答えました。

それが27節ですが、神への愛と隣人愛ですね。

律法に書かれていること、旧約聖書に書かれていることは結局このことなのだ、神への愛と隣人愛だ、とこの人は答えました。

これも珍しい答えではありません。

神への愛と隣人愛が聖書で一番大切なことだということは、当時の人たちがみんな知っていたことでした。

イエス様も、聖書とは結局この二つだということを認めています。

この人は、正しい答えを返したわけです。

そうするとイエス様は、こう言いました。

「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。

こんなふうに言われてしまって、律法の専門家は悔しかったのではないかと思います。

自分の方が相手をテストしてやろうと思っていたのに、逆に、イエス様からテストされたような感じになってしまったんですね。

それも、「それを実行しなさい」と言われてしまった。

つまり、この人は正しいことを知っているのに実行していないということを見抜かれてしまった。

確かにそうだったでしょう。

神への愛と隣人愛を実行している人なら、こんなやり方で人をテストしようとはしないでしょうね。

 

ここで思い出すことがあります。

これはアメリカの有名な説教者が言っていたことなんですが、「異端には二通りの異端がある」ということなんですね。

ひとつは、私たちもよく知っている異端です。

「間違ったことを一生懸命やる異端」です。

では、もうひとつの異端とは、どんなものでしょうか。

「正しいことを知っているのに、それを行わない異端」です。

これは私たちも気をつけたいところですね。

イエス様をテストしようとしたこの人は、言ってみたら、そういう異端だったんです。

「正しいことを知っているのに、それを行わない異端」。

この人はそのことを、イエス様に指摘されてしまったんです。

 

けれども、この人は、イエス様をテストしに来るような人ですから、簡単には引き下がりません。

何とかして、実行していない自分を正当化しようとします。

そして、このように質問します。

「では、わたしの隣人とはだれですか」。

この質問は、ユダヤ人にとっては簡単な質問です。

隣人とは、ユダヤ人にとっては、ユダヤ人のことです。

自分と同じユダヤ人が、隣人なんです。

こんな分かりきった質問をするということは、この人の考えは分かりますね。

この人は、イエス様に、「隣人とはユダヤ人だ」と答えさせたいんですね。

そして、「それだったら私は実行できています」と答えたいんですね。

やられたままでは引き下がれないので、やり返したいんです。

 

けれども、ここでイエス様は、誰も想像していなかったような話をなさいました。

なんと、サマリア人がユダヤ人を助けたという話ですね。

サマリア人というのはユダヤ人の敵です。

サマリア人もユダヤ人も、聖書を読むんですが、お互いがお互いに、自分たちの信仰の方が正しいんだ、こちらが本物だと言い合ってケンカをしていたんですね。

そのサマリア人が、ユダヤ人を助けた。

ユダヤ人がサマリア人を助けたんじゃないんですね。

サマリア人がユダヤ人を助けたんです。

ユダヤ人の祭司やレビ人は、見て見ぬふりをした。

隣人愛を実行しなかった。

話を聞いている律法の専門家はユダヤ人ですから、これは皮肉なたとえ話ですよね。

 

そして、一番大事なのが最後の36節です。

ここでイエス様が質問します。

「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。

これが大事なところです。

イエス様は、「隣人になる」ということを求めておられるんです。

このサマリア人は、敵であるユダヤ人の隣人に「なった」んです。

でもこの律法の専門家はどうですか。

この人は、イエス様にこう質問しました。

「わたしの隣人とはだれですか」。

この人は、隣人の範囲が最初から決まっていると思っているんですよね。

そして、その範囲の中だけで愛すればいいと思っているんです。

でも、イエス様が言ったことはそうではなかった。

このたとえ話は、「隣人の範囲を定めるな」っていう話ですよね。

相手が誰であれ、助けを必要としている人の隣人になりなさいっていう話ですよね。

大事なのはそこです。

「隣人になる」っていうことなんですね。

そういう心構えがないから、自分と同じユダヤ人だけが隣人で、他の人たちは隣人じゃない、というふうに考えてしまうんですね。

 

でもそれっておかしいです。

聖書に書かれていることは、神への愛と隣人愛なんですよね。

隣人愛だけじゃないんです。

神への愛と隣人愛です。

この二つは、コインの裏表なんです。

まず、神様が、私たちを愛してくださっている。

人間みんなを愛してくださっている。

私も愛されているし、あの人も、どの人も、みんな愛されている。

だから、神様に愛されていて、神様を愛している者として、私たちは、自分と同じように愛されているすべての人を隣人として愛するんですね。

神様の愛にはこの人は愛するけれどもこの人は愛さないというような線引きはありません。

だから私たちも人と接する時に気をつけたいですね。

隣人かそうでないかを線引きするような意識で人と接するのではなくて、出会う人と隣人になるつもりで生きていきたいんですね。

イエス様は私たちに、そうおっしゃっておられるんですね。

 

だいたいこのサマリア人は、自分が助けている相手の名前すら知らないんですよね。

でも、隣人になった。

相手のために何かをする。

そんな相手が隣人なんです。

隣人だから何かをしてあげるのではないんですね。

何かをしてあげた相手が、隣人なんです。

隣人になるとは、そういうことです。

 

ただ、そうしようとするときには、障害になる事柄がどなたにでもあると思います。

それは、今日のたとえ話で言いますと、自分の都合を優先してしまうということです。

祭司とレビ人はそうでした。

祭司は神殿で神に仕える人で、レビ人はその手伝いをする人です。

つまり、この人たちこそ、神の愛を知っているんだから、より良く隣人に仕えることができるはずの人たちです。

でも、できなかった。

この人たちは、もう死んでしまっているかもしれないこの人に触るのを恐れたんですね。

ユダヤ教では、自分の影が死体にかぶさっただけでも汚れると考えられていましたから、近づくこともできません。

汚れてしまえば、もう、神殿での奉仕はできなくなります。

けれども、この祭司はこの道をエルサレムから下ってきたわけですから、神殿での奉仕はもう終わっているわけです。

それなのに、自分が汚れることを嫌がって、影も触れることがないように、道の向こう側を通っていくんですね。

この人たちは言ってみれば律法の専門家であるはずなのに、何もできなかった。

自分の都合を優先することしかできない。

自分の都合を乗り越えることはできない。

律法は、実行する力を与えてはくれないのです。

律法を読んでいるだけでは、そこで言われていることを実行できないということです。

だからイエス様は律法の専門家に対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言うんですね。

そして、一番最後にも、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言うんですね。

 

大事なのは、正しいことを行うことです。

けれども、考えてみれば、この律法の専門家も、正しいことをするつもりはありました。

この人は一番最初に、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しているじゃないですか。

「何をすればいいか」と聞いているんです。

行うつもりはあるんですね。

そしてこれは、ユダヤ教の一番大事な問いです。

祭司もレビ人も、行うつもりはあるんです。

でも、できない。

問いの立て方に問題があるのです。

「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」。

この問いが、だいたい、自己都合なんです。

永遠の命という神様からいただくものを、自分で勝ち取るものだと勘違いしている。

自分中心の考え方をしているんです。

だから、自分の都合が悪くなると、身を引いてしまう。

 

これについて、アメリカで黒人の公民権のために戦ったキング牧師の説教を読んでみますと、こういうことが書いてありました。

祭司とレビ人は、「自分がこの人を助けるために立ち止まったら、自分に何が起こるだろう」と考えた。

サマリア人は、「もし自分がこの人を助けるために立ち止まらなかったら、この人にどういうことが起こるだろう」と考えた。

祭司とレビ人は自己都合を考えたんです。

サマリア人は、相手のことを考えたんです。

では、このサマリア人は、どこから力を得て、自己都合を乗り越えることができたんでしょうか。

それが、33節です。

サマリア人は、その人を見て、憐れに思ったと書かれています。

憐れに思った、それは単に、かわいそうだなと思ったということではありません。

この言葉は、内臓という言葉がもとになっている言葉です。

つまり、この人は、死にそうになっている人を見て、自分もお腹が痛くなるくらい、その人のことがかわいそうで仕方がなかったんです。

相手のことを自分のことのように考えた。

だから、自己都合を考えなかった。

人を線引きしたりもしなかった。

敵を、隣人にした。

 

考えてみれば、この、敵を隣人にするというのは、まさにイエス様が私たちのためにしてくださったことですよね。

私たちはみんな、多かれ少なかれ、神に背く神の敵です。

その私たちのために、イエス様は、私たちに代わって十字架で罰を受けてくださった。

私たちが永遠の命を受け継ぐことができるようにしてくださった。

私たちにとって、このサマリア人はイエス様のことです。

このサマリア人がした以上のことを、私たちは、すでに、していただいたんです。

「憐れに思う」という言葉がつかわれていますけれども、この言葉は、神様の憐れみを表す言葉です。

神様は私たちを憐れんでくださって、イエス様を遣わしてくださって、永遠の命を約束してくださったんですね。

私たちは、神様から、この上ない憐れみを受けている。

この上ない愛と恵みをいただいている。

そのことを感じましょう。

今、神様の憐れみを感じてください。

感じることができるはずです。

神様が憐れんでくださったから、私たちは、この日曜の朝、ここに居るんですから。

 

そして、イエス様の言葉を聞きましょう。

「行って、あなたも同じようにしなさい」。

 


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