「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」 (新約聖書 ローマの信徒への手紙12章15節)

光が丘キリスト教会
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神の知恵とは(コリントの信徒への手紙一2章6節から9節)

2015年02月25日 | 今週の説教

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コリントの信徒への手紙一2章6節から9節

6しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。8この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。9しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。

 

 

 パウロはここまで、自分は知恵によらずに語るのだと繰り返し言ってきました。

 十字架の救いは人間には愚かに見えるものです。

 神の子が人間の罪を背負って十字架につけられるということ、それによって人間の罪が赦されるということは、人間には思いもつかないことです。

 ですので、パウロは知恵を用いずに十字架の救いをのべ伝えたのです。

 2章5節には、「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるためでした」と書かれています。

 パウロは、神の力が働くことを信じていました。

 だからこそ、知恵を用いなかったのです。

 

 ところがここでパウロは、「わたしたちは(……)知恵を語ります」と宣言します。

 パウロは知恵を捨てたわけではありません。

 十字架の救いは、人間には思いもつかない神の知恵です。

 人の知恵を超える、神の知恵です。

 それを、パウロは、「信仰に成熟した人たちに」語るのだ、と言います。

 

 信仰には成熟の度合いがあります。

 キリストを信じてはいても、具体的な出来事を前にしたときに、どのように判断するのが御心に適うのかが分からずに、結局人間の知恵に頼ってしまうことがあります。

 けれども、キリストを深く知り、何が御心に適うのかをいつでも考えるようになると、人間の知恵に頼ることが少なくなってきます。

 パウロがここで言っている「信仰の成熟」というのはそういうことだと思います。

 

 ただ、「成熟」と言う時に遣われている言葉は、「完全」とか「大人」という意味で遣われる言葉なんですね。

 そうなりますと、「信仰の成熟」というのは並大抵のことではなさそうです。

 完全な大人の信仰、と聞きますと、どういうものを想像しますでしょうか。

 

 ただこれは、私たちが努力して信仰を成熟させていかなければならないという話ではありません。

 「信仰の成熟」というのは、先程も申し上げたとおり、人間の知恵に頼らずに、御心に従うことです。

 完全な方である神の御心に従うということです。

 そうできるようになった人が成熟した、完全な、大人だということですね。

 

 こういう話を聞いたことがあるんですが、ベテランの飛行機のパイロットというのは、どんな状況でも自分の感覚を信用せずに、メーターに従って飛ぶのだそうです。

 そうすると、事故を起こすことがないのだそうです。

 それに対して、ベテランでないパイロットは、メーターを信用せずに自分の感覚を信用してしまって、結局は事故を起こすんだそうです。

 それと同じように、人間の知恵に頼らずに、神の知恵に頼る人が、「信仰の成熟した人」なんですね。

 

 イエス様は「幼子のように信じなさい」とおっしゃいましたが、それは、ベテランのパイロットが自分の感覚ではなくメーターを信頼するように、何の疑いも持たずに神様に信頼しなさいということですね。

そうすることができた人が、パウロの言葉では、成熟した、完全な、大人なんですね。

 

そういう人たちに対しては、パウロは知恵を語ります。

人の知恵ではなく、神の知恵ですね。

7節の言葉で言いますと、「隠されていた、神秘としての神の知恵」です。

ですから、この知恵は、神様が私たちに示してくださらない限り、私たちが知ることはできないものなのです。

この世の知恵には、私たちは努力で到達することができます。

けれども、神の知恵は受け取ることしかできないのです。

 

だからこそ、私たちはその知恵によって生かされることができます。

自分には神の知恵は計り知れないけれども、すべてを知っておられる神様が自分のために生きて働いてくださっている。

その恵みに喜んで、神の知恵に自分を委ねることができます。

これがもし私たちにも思いつく知恵だったとしたら、私たちは、幼子のように自分を委ねることはできないはずです。

いつまで経っても自分の知恵に頼ろうとする傾向を、私たちは捨てることはできないでしょう。

そうなりますと、「信仰の成熟」もないということになります。

 

けれども、私たちがそのような者であることを分かっておられて、「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」というのが9節ですね。

神の知恵は、神様が愛する人たちに準備してくださったものなのです。

だから私たちは、意識的に神様に心を向けて、日常生活を信仰生活にして生きていくのです。

神様に委ねて、何が御心かを第一に考えて、信仰を成熟させていくんですね。

 

私たちの経験や知識も素晴らしいものには違いありません。

けれども私たちは、それによって神様に近づくことはできません。

コリントの人たちが誤っていたのはそこでした。

彼らは、自分の知恵で神に近づくことができると考えていたのです。

そんなことはできません。

神の知恵は、「人の心に思い浮かびもしなかったこと」なのです。

ですから大事なのは、神に近づこうとすることではなく、神の知恵に自分を委ねようとする意識です。

信仰を成熟させようという意識です。

そうしようとするとき、神様は、ますます大きな恵みで私たちを満たしてくださるに違いありません。

何しろ、神様は私たちを愛してくださり、そのために知恵を絞ってくださるような方だからです。

 


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