「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」 (新約聖書 ローマの信徒への手紙12章15節)

光が丘キリスト教会
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権威ある言葉(ルカによる福音書4章31節から37節)

2015年01月01日 | 今週の説教

 

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ルカによる福音書4章31-37節

31イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。32人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。33ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」35イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。36人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」37こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。

 

 

今日の場面の前の場面では、イエス様は故郷のナザレで説教をなさいました。説教を聞いていた人々はその恵み深い言葉に驚きました。けれども、その人々はその言葉を受け入れることができず、結局イエス様を殺そうとしたのです。そこでイエス様はナザレを離れてカファルナウムというところに来ました。

 

今日の場面でも、イエス様は説教をなさいます。そして、人々は驚きます。そこまではナザレでの場面でも同じです。ただ、前の場面では人々は結局イエス様を殺そうとしましたが、今日の場面では、37節を見ると、「イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」とあって、良い評判が立ったことが分かります。ナザレとカファルナウムのこの違いは一体なんなのでしょうか。いずれもイエス様の言葉に驚いたところまでは同じなのに、結果は正反対だったのです。今日はそこのところに注目して、御言葉に聞いていきたいと思います。

 

ただ、今日の場面のどこを読んでも、イエス様の教えの内容については書かれていません。人々の驚きと、不思議な出来事だけが書かれています。けれども、よく見てみると、ナザレでの場面には出てこなかった言葉があることに気づきます。32節にこうあります。「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」。人々はイエス様の言葉の権威に驚いたのでした。この権威という言葉はナザレでの場面には出てきません。人々はイエスの言葉を聞いて驚いたんでしたが、その権威は認めなかったのです。22節にこうあります。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った『この人はヨセフの子ではないか』」。ナザレの人たちは言葉に驚きはしましたが、「どうしてあそこの家のあいつがこんなことを言っているんだ」と考えてしまい、権威を認めなかったのです。それに対して、カファルナウムの人たちはイエス様の言葉に権威を認めたのでした。ここが、ナザレの人たちとカファルナウムの人たちとでは正反対だったのです。

 

では、イエス様の言葉にある権威とはどのようなものなのでしょうか。新約聖書の12ページ、マタイによる福音書の7章28節、29節を読むと、その権威は普通に私たちが権威と言っているものではないことがわかります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。イエス様には権威があるのです。それに対して、律法学者には権威がないのです。しかし、律法学者は聖書の専門家です。普通に考えれば権威ある人です。深い知識に基づいて教えてくれる人を私たちは権威と呼びます。しかし、イエス様の権威はそんなものではないということなのです。今日の場面に戻って、36節で人々は驚いてこう言ったのでした。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」。イエス様の権威とは、汚れた霊に命じると、汚れた霊も出ていく、そういう力です。「権威と力」とここに書かれていますが、教えて知識を与えるだけではなく、実際にその言葉の通りの働きをする力です。その力に、権威があるのです。頭の中のたくさんの知識に権威があるのではありません。これは、説教者に対する戒めにも聞こえます。伝えるべきなのは、知識ではなく、イエス様の言葉の権威と力なのです。

 

ではその力はどのような働きをするのでしょうか。それが分かるのが33節からの不思議な出来事です。会堂の中に、悪霊に取りつかれた男がいました。この悪霊というものがどういうものであるのかは聖書をいくら読んでもはっきりしたことは分かりません。それは仕方のないことかもしれません。私たちは、悪というものの正体をつかむことができていないのではないかと思うのです。何か悪いことが起きた時、それを心の問題だという専門家もいれば、環境の問題だという専門家もいれば、時代の問題だという専門家もいます。私たちは悪というものがどういうものであるのかをはっきりと理解してはいないのです。それは私たちだけでなく、この会堂にいた人たちもそうだっただろうと思います。もし悪霊に取りつかれているということが分かっていたら、この男の人は会堂の中には入れてもらえなかっただろうと思います。もしかしたら、取りつかれていた本人も分かっていなかったのかもしれません。けれども、この人は、安息日に会堂に入ってきたのです。

 

ただ、ここで悪霊は叫びだしました。34節、「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」。この言葉は、この人自身の言葉ではなく悪霊の言葉です。「我々を滅ぼしに来たのか」という言葉があるが、一人の男の人なのに、「我々」と言っています。続けて、「正体は分かっている。神の聖者だ」。こういうことを言うということは、会堂にいた人たちはイエス様がどういう方であるのかがわかっていなかったということでしょう。それをわざわざ言うということは、「自分だけはあなたのことが分かっているから、見逃してください」ということなんだろうと思います。

 

とにかく、悪霊はイエス様を恐れています。どうして恐れるのでしょうか。それは、イエス様がどのような方であるかが分かれば分かります。イエス様の「正体」が分かれば分かります。イエス様はナザレで、ご自分がどのような方であるのかを明らかにしておられました。それが18節、19節です。これは旧約聖書のイザヤ書の言葉です。ここで言われているのは、福音を告げ知らせるために、解放と回復と自由をもたらすために、神様が私を遣わしたということです。そして、これを朗読した後で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃるのですから、これは、この私において神の言葉が実現しているのだ、ということになります。解放と回復と自由が私において実現していくのだ、ということです。神の業が私において行われるのだ、ということです。ここにイエス様の権威があります。神様からの権威です。解放と回復と自由をもたらす権威です。だから悪霊は恐れるのです。悪霊は一人の男の人を支配していますが、その男の人が解放され、回復させられ、自由にされるということは、悪霊にとっては自分が追い出されるということです。悪霊はイエス様の正体が分かっていたから、自分が追い出されることが分かって恐れたのです。何とかして逃れようとイエス様のことを「神の聖者だ」などと言いますが、追い出されてしまいます。「黙れ、この人から出て行け」という言葉によって、追い出されるのです。この言葉だけで追い出されてしまうのです。イエス様の言葉には権威と力があるからです。解放と回復と自由をもたらす力があるからです。

 

私たちが聞いているのはこのような言葉です。神様の権威をもって語られる言葉です。その権威で、解放と回復と自由をもたらす力ある言葉です。イエス様が私たちに語ってくださるのはそのような言葉です。イエス様の言葉に権威を認めるとき、それは実現するのです。

 

悪霊がどのようなものであるのかは分かりませんが、ここで分かるのは、それは、イエス様の言葉が私たちにおいて実現するのを妨げようとする力だということです。悪霊とは、私たちを支配して、イエス様の権威ある言葉を遠ざけようとする力です。そのような力は、私たちの内にも外にも働いているのではないでしょうか。

 

しかし、そのような力はイエス様の言葉の力の前では何もできないのです。たった一言、イエス様が言葉を発しただけで、悪霊は出ていかなければならなかったのです。この男の人をわずかに傷つけることすらできなかったのです。これがイエス様の言葉の権威と力です。

 

私たちが聖書の中に見出すのもこのような言葉です。私たちが聖書の言葉に権威を認めるとき、その言葉は私たちを支配する力を滅ぼして、私たちを神のもとに取り戻してくださるのです。その言葉が私たちにおいて実現しているからこそ、今、私たちはここに集まっているのです。解放と回復と自由が、私たちにおいて実現し始めています。そのように働いてくださるイエス様の言葉の権威を認めましょう。神の言葉の権威を完全に認めるとき、神の言葉は私たちにおいて、完全に実現するのです。


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