「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」 (新約聖書 ローマの信徒への手紙12章15節)

光が丘キリスト教会
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裁くのは主(コリントの信徒への手紙一、4章1節から5節)

2015年06月23日 | 今週の説教

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コリントの信徒への手紙一、4章1節から5節

1こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。2この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。3わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。4自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。5ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

 

 

先週、大会役員修養会に出席して、いろいろなことを語り合ってきました。

いろいろなテーマの講演を聞いて、グループに分かれての懇談もして、食事の交わりも与えられて、部屋に帰ってからも、相部屋の方々との交わりがありました。

いろいろな言葉を語り、いろいろな言葉を聞きました。

その中で、私が聞いて一番嬉しかった言葉は、どういう言葉だったとお思いになりますでしょうか。

それが、「自分の好きなようにやればいいよ」という言葉です。

70歳手前の牧師先生が私にかけてくださった言葉なんですが、この言葉には本当に心が安らぎました。

「自分の好きなようにやればいいよ」。

もちろんこれは、自分勝手にやればいいということではありませんよね。

信仰に照らして、祈りながら考えて、その上で、これだと思うことを思い切ってやればいいということでしょう。

思いやりのある言葉をいただいたと思います。

この先生は、もしかすると、私のことを祈ってくださっているんじゃないだろうかと思うくらい、この言葉をいただいて心が安らぎました。

 

けれども、思います。

この言葉に感動した、ということは、私は普段、このような言葉の中には身を置いていなかった、ということではないでしょうか。

考えてみると、普段、私たちは、このような言葉とは正反対の言葉の中に置かれているのではないかと思うのです。

「自分の好きなようにやればいいよ」。

そういう、私たちを自由にしてくれる言葉の中には私たちは置かれていないのではないでしょうか。

世に溢れている言葉は、私たちを自由にする言葉ではなく、私たちを裁く言葉ではないでしょうか。

 

「こんなことはしてはいけない」、「こうしなさい」と言われて育てられて、今もそのような言葉の中に置かれているのが私たちではないでしょうか。

そして、時には、そのような言葉を先回りして受け取って、自分で自分を不自由にしてしまっているのが私たちではないでしょうか。

人の目を気にして、先回りをしてしまう。

そうして、まるで自分で自分を裁くようにしてしまう。

そういう中に私たちは身を置いて生きているのではないでしょうか。

 

私たちは時には、ストレートに人から裁かれるということがあります。

世にあって生きている限り、人から裁かれずに済むということはないでしょう。

もしかすると、私たちは、毎日のように人から裁かれているのかもしれません。

裁かれるという言葉ほど強い表現ではなくても、人から、「ああ、この人はこういう人だな」と判断されるということは日常的に起こってきます。

そして、そういう時、私たちは、その見方というのを気にしないわけにはいかない。

そして、自分で自分を裁いてしまう。

先回りして自分を縛ったり、落ち込んだりしてしまう。

そういう、人からの裁きの言葉に捕らえられてしまっているのが私たちではないかと思うのです。

 

けれども、パウロは、私たちとは在りようが違ったようです。

3節でこんな力強いことを言っていますね。

「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」。

パウロはこんなことを言えるんですね。

誰からどう裁かれようと、問題ではない。

実に堂々としているんですね。

それはパウロが、本当の裁き主である神様に目を向けているからです。

神様の裁きだけを見つめているから、人の裁きは気にならない。

人の裁きは本当の裁きではない。

だから、パウロは、人からの裁きの言葉に捕らえられてしまうことがないのです。

 

こういうことを言うということは、パウロは、人から裁かれていたのです。

コリントの教会の人たちから、「あんな人間は使徒ではない」と裁かれていたのです。

それでも、パウロはひるみません。

本当の裁きをなさる神様を見上げているからです。

 

逆に言って、コリントの人たちは、神様こそが裁き主であることを認めていないから、パウロ・グループやアポロ・グループを作って、互いに裁き合うんですね。

自分を裁き主にしてしまうんです。

だから、パウロは5節でこう言っているじゃないですか。

「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」。

本当の裁きは、神様だけがなさることなんです。

 

パウロはそのことを知っていますから、1節2節にあるように、「キリストに仕える者、神の秘められた計画の管理者」として生きることができるんですね。

天におられるキリストに仕え、神様の救いの計画を任されている管理人として、地上で生きるのです。

地上にあって、神様の御心のもとに置かれているのです。

ですから、人の裁きにうろたえたりはしないのです。

 

パウロは知っています。

5節の最後ですが、自分たちが「神からおほめにあずか」るということを知っているんですね。

「神の秘められた計画」、この言葉は今までにも出てきましたが、人を救う神の計画です。

キリストの十字架のことです。

それによって、私たちも義とされたのです。

神の前に正しい者とされたのです。

だから、4節でパウロはこう言っていますね。

「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」。

そうです。

パウロは、キリストの十字架によって義とされたんです。

神の前に正しい者とされたんです。

これ以上に何か求めるものがあるでしょうか。

神の子が、私たちに代わって、罪人であるはずの私たちを救うために、十字架にかかってくださった。

このことを信じるなら、神は、その人を正しい者であると見なしてくださるのです。

「わたしを裁くのは主なのです」とパウロは言いますが、この裁きは厳しい裁きではありません。

私たちは、正しい者として、おほめにあずかるのです。

これ以上に何か求めるものがあるでしょうか。

 

人から裁かれようと、自分で自分を裁こうと、私たちが神の前に正しい者であるということは変わりません。

私たちがおほめにあずかることにも変わりはありません。

だから、私たちは、「キリストに仕える者」として、神の秘められた計画をゆだねられた管理者として、「自分の好きなようにやればいい」んだと思うのです。

信仰に照らして、祈りながら考えて、その上で、これだと思うことを思い切ってやればいいと思うのです。

人の裁きを気にすることはありません。

本当の裁きをなさる神様が、私たちをほめてくださるんですから。

その神様の前に、これからも生きていきましょう。

 


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