「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」 (新約聖書 ローマの信徒への手紙12章15節)

光が丘キリスト教会
東京都練馬区春日町4-37-26
練馬春日町徒歩8分・光が丘駅徒歩10分

人を裁いてはならない理由(ルカによる福音書6章37節から42節)

2015年03月30日 | 今週の説教

教会ホームページ ☛http://hikari4japan.org/ 

 

教会地図 ☛http://hikari4japan.org/access/index.html 

 

音声で聞くお説教 ☛http://www.voiceblog.jp/shininghill/

 

 

ルカによる福音書6章37節から42節

37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」39イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。40弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 

 

 人を裁いてはならない、とイエス様はおっしゃっています。

 この言葉にはドキッとさせられますね。

 私たちが知らず知らずの内に人を裁いていることをイエス様はよくご存知です。

 私たちは皆、罪人です。

 そして、聖書で言う罪とは、自分中心のことです。

 では、自分中心の私たちが人を判断する時には、どのように判断していることになりますでしょうか。

 自分のものさしで相手を図る、ということを、私たちは知らず知らずの内にしているんですね。

 そして、相手が自分と同じなら良い人だ、違っていたら良くない人だと考えるんですね。

 あるいは、相手が自分にとって利益になるなら良い人だ、利益にならないなら良くない人だと考えるんですね。

それが裁く、ということです。

 ですからこの裁くという行いは、珍しいものではありません。

 私たちはいつも無意識に、心の中で周りの人を罪に定めているとも言えます。

 

 けれどもここでイエス様は、「裁くな、罪人だと決めるな、赦しなさい」と立て続けにおっしゃるんですね。

 それはどうしてかというと、そうしているなら、「裁かれない、罪人だと決められることがない、赦される」からですね。

 「裁かれない、罪人だと決められることがない、赦される」。

 誰が私たちを「裁かない、罪人だと決めない、赦す」のかと言えば、神様です。

 「人を裁かない、人を罪人だと決めない、人を赦す」、そういう人を、「神は裁かない、神は罪人だと決めない、神は赦す」ということです。

 

 このことは、この前に読んだ「敵を愛しなさい」のところを思い出していただければ分かると思いますね。

 35節の最後ですが、神様は、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」方なんですね。

 だから私たちは今ここにいるわけです。

 もし神様がそういう方でなかったとしたらこの地上はどうなっているでしょうか。

 人間は一人もいないに違いありません。

 その神様の恩恵の中に私たちは入れられているんだから、私たちも神様と同じようにするべきなんです。

 いえ、するべきというより、そうするのが当たり前になっていくと思うのです。

 どんな人にも情け深い神様を知れば知るほど、私たちは、ますます神様と同じように情け深い者になっていくと思うんですね。

 自分が神様の情け深さによって生かされているわけですから。

 

 その次の38節では、与えなさいということが言われます。

 与えるなら与えられるんですね。

 ここに条件はありません。

 無条件に与えてくださる神様と同じように与えるなら、神様が与えてくださるのです。

 

 そして、最後に、その理由が言われます。

 「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。

 私たちがしたことは、私たちに返ってくるんですね。

 神様はそこまで私たち一人ひとりをよく見ておられるのです。

 

 しかし、そう言われましても、「自分の量る秤で量り返される」、それだったら別に構わないよ、という人もいるかもしれません。

 自分の判断基準では自分は立派なものだから、それだったら別に構わないよ、という人がいるかもしれません。

 というよりも、人間は皆そうではないでしょうか。

 自分は正しいけれども相手は間違っていると思うから、人は人を裁くんですよね。

 だったら、「自分の量る秤で量り返される」、それだったら別に構わないよ、という人はたくさんいると思うのです。

 

 だからイエス様はここでたとえ話をなさるんですね。

 それだったら別に構わないよということはないんですね。

 私たちはそもそも、人を裁く資格のない者なんです。

 私たちはそもそも、何も見えていないんです。

そんな私たちが人の上に立って人を裁くことは、神様の目にはおかしなことなんです。

 

その一つ目のたとえ話が盲人の道案内ですね。

人を裁くとき、親切なふりをして、「そうではなくてこうですよ」と言いながら人を批判することがあります。

裁くのにも色々なパターンがあるんですね。

あの人は人を裁く人だとは誰も思われたくありませんから、こういうやり方をすることがあるわけです。

けれども、それもやっぱり裁いていることに変わりはないんですね。

心の中に人を裁く気持ちがあるからそうするわけですから、神様にとってはストレートに裁いているのと同じことです。

そして、それはまるで、目の見えない人が目の見えない人を案内しているようなものだということですね。

 

もう一つのたとえ話は、おが屑と丸太のたとえですね。

これもやはり、人を裁くときに親切なふりをするという話ですね。

「そこは直しましょうよ」と言いながら人を裁くという話です。

けれどもそれは、目に丸太が入っていて、つまり何も見えない人が、他の人の目の中の小さなゴミを取らせてくださいと言っているようなものなんですね。

 

こういうことというのは、私たちの日常の中で、しばしば起こってくることではないかと思います。

こういうことは、自分自身のこととしても、他の人のこととしても、見聞きしたことがあるのではないでしょうか。

自分は正しいと思っていたけれども、実際のところ間違っていた、あの人は自分が正しいと思っているけれども、実際のところ間違っているということは、時々あることではないかと思います。

そしてこれは、時々あるということではないんですね。

神様の目には、人が人を裁くということはいつも、こんなにおかしなことなんですね。

ですから、私たちが人を裁こうとする気持ちになった時には、気を付けなければなりません。

 

私たちが人を裁くときにはこれらのたとえ話よりももっとストレートに人を裁いてしまうこともありますし、このたとえ話のように表向きのかたちを変えて人の目をごまかすこともあります。

けれども、いずれにせよ、人を裁くとき、私たちは、知らない内に自分を正しい者にしてしまっているんですね。

しかし、私たちは皆、神の目に罪人です。

罪人であるということは、自分中心にしか物事を考えられないということです。

そんな私たちが、親切なふりをして人の目をごまかして人を裁くなら、そんなおかしなことはありません。

ですから最後の42節で、イエス様は、「偽善者よ」と呼びかけておられるんですね。

親切なふりをして人の目をごまかしても、神様の目はごまかせません。

 

しかも、イエス様はこの言葉を誰に対しておっしゃったのか。

これはご自分の弟子たちに対しておっしゃっているんですね。

私たちに対して言われているんです。

私たちも偽善者なんです。

 

では一体、私たちはどうすればいいんでしょうか。

そのことが、最後の42節で言われています。

「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるあが屑を取り除くことができる」。

私たちの目の中には丸太があるのです。

それを取り除かなくてはならないのです。

 

そのために教えられているのが、今日の最初の37節、38節の内容ですね。

「裁くな、罪人だと決めるな、赦しなさい」ということです。

神様が私たちに対してしてくださったようにしなさいということです。

神様は、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」方ですね。

それと同じようにしなさいということです。

そうするときには、私たちの目には丸太はないのです。

そうするときには、私たちは神の目に正しい者なんですね。

 

ですから、最後の42節で、自分の目から丸太を取り除くと「はっきり見えるようになる」と言われていますけれども、その眼差しというのは神様の眼差しのことなんですね。

神様がその人を情け深い、憐れみ深い目で見ておられる。

その眼差しで、私たちも人を見るのです。

 

 簡単にそんなふうにはなれないかもしれません。

 しかし、40節でイエス様は、こんなふうに私たちを励ましてくださっています。

 「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。

 師というのは人を教え導く人です。

 私たちはすぐにはそうはなれないでしょう。

 今はまだ、盲人の道案内の段階かもしれません。

 けれども、私たちは盲人ですから、目が見える人に手を引いてもらう必要があるのです。

そして、修行を積んでよく見えるようになれば、私たちも、人を教え導くことができるようになるのです。

 師であるイエス様が手を引いて訓練してくださるのですから、私たちは、イエス様のようにもなれるのです。

 ここで「修行を積めば」と言われていますが、恐れることはありません。

 この言葉は、漁師が網の手入れをするようなときに遣われる言葉です。

 そして、この言葉は、受身の形で書かれているんです。

 ですから、「手入れをされる」ということです。

 イエス様が私たちに手入れをしてくださるんです。

 師であるイエス様が、弟子である私たちを整えてくださるんですね。

 それも、ここでは、「だれでも」そうなると言われています。

 「だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」と言われています。

 ですから、自分には無理だと思わなくていいんです。

 イエス様がそうしてくださるんですから。

 私たちの努力や才能の問題ではないのです。

 だれでも、そうなるのです。

 イエス様がそうしてくださるから。

 

 この言葉を喜びたいと思います。

 イエス様は、何も見えていないのに自分中心に人を裁いている私たちに、漁師が網を手入れするように、細かい手入れをしてくださるんですね。

 だから私たちはもう偽善者ではないんですね。

 見えていないのに見えているふりをして人を裁くような生き方は、私たちの生き方ではありません。

 今日の御言葉を聞いた私たちには、神様がどれくらい私たちを情け深い目でご覧になっているか、よくわかるじゃないですか。

 神様は私たち罪人がイエス様のようになれるように手入れしてくださるんですね。

 これからも、その手入れを受け続けたいと思います。

 そして、私たちみんな、「だれでも」、一人残らず、イエス様のようにしていただきたいと思います。

 

 


お読みいただき、ありがとうございました。説教の音声も、教会のホーム・ページからボイス・ブログに入って、聞くことができます。

教会は誰にでも開かれた場所ですので、いつでも気兼ねなくいらしてください。

個別のご質問やご相談にも対応いたしております。ホームページに記載の電話番号・メールアドレスに、ぜひご連絡をいただければと思います。

礼拝だけでなく、「ゴスペル・スクール」や「コンディショニング・ストレッチ」や各種の「聖書の学び会」もいたしておりますので、ご自由にご参加ください。

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« ぶどう棚再建 | トップ | 無言の苦しみ(マタイによる... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。