JEC狭山福音教会(大阪狭山市)の聖書・キリスト教・例話コラム

大阪狭山市にあるJEC狭山福音教会(プロテスタントキリスト教会)の牧会スタッフによる聖書・キリスト教・例話コラム。

メッセージレジメ@2011年4月24日(川崎 豊信)

2011-04-26 10:33:30 | キリスト教
日時:2011年4月24日
場所:狭山福音教会(第4主日)
聖書:マルコ16:6
題:「勝利者」

無神論者だったリー・ストロベル氏は妻がクリスチャンになるとキリスト教が真実ではないことを検証しようとした。エール大学大学院で法学修士号を取得したストロベル氏は司法関係専門のジャーナリストとしての経験を生かして、キリスト教が偽物でないかと調査した。

 ところが、調べれば調べるほど、キリストの死と復活に関する数々の状況証拠が明らかとなる。
例えば、イエスは実際には死んでおらず、気を失っただけで、三日後に意識を回復したのだと主張する者がいる。しかし、ローマ政府の死刑執行においては、被処刑者が十字架で死ななかった場合には、執行者が刑に処せられる。執行者たちは念に念を入れて死亡を確認したのだ。

また、一世紀の人々の誰もが、空の墓のことを認めていた。しかし、イエスの遺体がどうなったのか、どのようにして墓が空になったか、その出来事を十分に説明できる者はいなかった。逃げた弟子たちがわざわざイエスの遺体を取りに来るはずがない。ローマ政府がイエスの遺体を隠すはずもない。そして、逃げ去った弟子たちが、後に殉教するまでイエスの福音を喜べ伝えたのは、復活のイエスと出会ったからである。「これでは、無神論者でいるには、ナザレのイエスを信じるよりももっと大きな信仰を持つことが必要だなあ…」と氏は感じ、1981年、自らイエス様を救い主として受け入れた。

 信仰の道を、ストロベル氏のように理詰めで理解しようとすることも有益な方法なのである。クリスチャンとなったストロベル氏の生活は、全てが変わった。かつては、酒におぼれ、不道徳な人生を送り、自分の利益のために同僚を裏切ったり、新聞記者として事件を追う中で法的・倫理的な決まりを破ることも朝飯前であった。聖なる神と自分とを引き離しているのはこうした罪である、と聖書を読むことで知った彼は、聖なる神と自分との間にある溝を埋めるためには、イエスという橋を渡る必要があることに気づいたのだ。

「このお方はよみがえられた。」という叫びは、全ての人に新しい希望を与えるものである。本日の聖書の箇所はキリストの復活である。この箇所を3つに分けると以下のようになる。
                                     
本日の箇所を3つに分類すると次のようになる。

~~~~~~~~~~~~なぜイースターは祝われるのか?~~~~~~~~~~~
A イエス・キリストは十字架で罪の代価を払ってくださったから(1コリ15:3~)
  
B イエス・キリストは死を克服された勝利者であるから(マコ16:6、使徒2:23~)
  
C 主を信じる者も勝利者となるから(1ヨハネ5:4~、2コリント2:14~)
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A イエス・キリストは十字架で罪の代価を払ってくださったから(1コリ15:3~)

参照聖句→1コリ15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。

* 4節「葬られたこと」→キリストが実際に死んだことの確実な証拠。ローマ政府の死刑執行においては、被処刑者が十字架で死ななかった場合には、執行者が刑に処せられる。執行者たちは念に念を入れて死亡を確認したのだ。わき腹から血と水が出た(ヨハネ19)とは、水は「心外膜液」と「胸水」を意味するという。これはどちらも血液量減少に伴うショック状態によって、前者は心臓に、後者は肺に集まります。医学的には「出血多量によるショック状態。この後に心停止が予見」を指すといわれる。
* 4節「よみがえられたこと」→完了時制が用いられているので今なおキリストは生きているとのこと。
* 7節「ヤコブ」→主の兄弟のヤコブ。ヤコブの緒論著者。彼は最初イエスを信じなかったが、復活のイエスに会ったことでイエスを信じるようになった。

(中心的メッセージA)
3節を中心としてこの箇所で学ぶべき点は次である。「聖書の示すとおりに私たちの罪のために死なれた」とはイザヤ53章にある「人の咎、罪のために罰を受けた」のである。これゆえに人の罪は赦され、罰は代わりに受けられ、信じる者は無罪放免となったのである。イエスへの懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエスの内傷によって私たちは癒されるのである。
イースターが喜びの祭典であるのは、復活の前の十字架上において罪の完全な赦しが行われたからである。イエスこそまことの救い主である。

(例話A)
 かつて中国人のクリスチャンが、自分がキリストを救い主と信じたわけをこうあかしした。
 「私はかつて浮世の旅路にさまよって罪とがと悩みとの深い井戸におちいり、苦しみにもだえていた者です。
 ぐずぐずしていれば死んでしまう恐れがあるから、大声をあげて『助けてくれ、助けてくれ』と叫んでいました。
 ちょうどそのとき通りかかったのが釈迦で、上からちょっと井戸をのぞいて、
『おまえはかわいそうだが、前世の因縁でそういうことになったのだからしょうがない。よくその道理を考え、あきらめて往生するがよい』
 こういうとたち去っていきました。
 再び大声をあげて『助けてくれ、助けてくれ』と必死になって叫んでいると、今度は孔子がきて井戸をのぞいてくれた。
『おまえ、人間というものはうかうかしていると、いつでもそういう所にはまりこむのだ。よく反省して、二度と井戸などに落ちるようなことをしてはならないよ』
 孔子もこれだけ説教するとたち去っていった。
 私の叫びを聞きつけてこんどはイエスが足をとめた。
 イエスは私を発見するとすばやくハシゴをもってきて、井戸のなかに下りると、疲れきった私をひきおこし、うしろから尻をおしあげ、かつぎあげ、ようやくのこと井戸からひきあげてくれました。
 傷口には薬をつけてくれいろいろと介抱してくれました。
 そのおかげで私が元気になると、私の心得ちがいをさとしてくださり、これからの歩み方の注意を助言してくれました。
 こうして私は、そのときから天国への幸福な旅路を歩みはじめたのでした。」

 イエスは道であり真理であり命である(ヨハネ14)と言われたことは真理である。聖書と、罪からの救いのシステムがこれを証明するのである。

B イエス・キリストは死を克服された勝利者であるから(マコ16:6、使徒2:23~)

参照聖句→マコ16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

* 6節「よみがえられました」→ギリシャ語では受動態。キリストの復活が神の業であることを示す。

参照聖句→使徒2:23~「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。2:24 しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。2:28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』」

* 25節「私はいつも」→私とはイエスのこと。ダビデは詩篇の中でキリストの予見を表したのである。ダビデはキリスト生誕の約千年前の王である。「私の右」→右とは守る者の位置である。
* 27節「ハデス」→死後の世界のこと。あるいは墓のこと。ダビデは墓にいるので、実はキリストのことである。

(中心的メッセージB)
マルコ16:6「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」を中心として学ぶべき点は次である。
キリストは死を克服された唯一のお方である。そして今も生きておられる。人にとって、死とは呪いであり、死とは罪の刑罰の場所であり、死とは滅びを意味していた。この死に勝利したキリストは他に例を見ない勝利者である。
 だからイースターは喜ばれるのである。

(例話B-1)
米国の大衆伝道者ムーディ(1837ー99)は、葬式の説教を準備しようとしていた。
 イエスはそれについてどんな模範を残していただろうかと、聖書を調べて驚いた。
「イエスが葬式に来たときには、いつも死人をよみがえらせているではないか。
 だからイエスは、一度も葬式の説教をしていない」
 イエスはいわれた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」ヨハネ11:25

(例話B-2)
聖書の中の復活は10の記事がある。
1 ヤイロの娘:マタイ9:18,25 (マルコ5:23,41-42)(ルカ8:41-42,54-55)
2 ラザロ:ヨハネ11:43-44
3 やもめの息子:ルカ7:12,14-15
4 イエスの十字架刑直後、聖徒たちが復活した:マタイ27:52-53
5 イエスのご自身の復活:マタイ28:9
6 ペテロを通したタビタの復活:使徒9:40
7 パウロを通したユテコの復活:使徒20:9-12
8 エリヤを通したツァレファテに住むやもめの息子の復活:1列王17:21-22
9 エリシャを通したシュネムに住む女の息子の復活:2列王4:34-35
10 エリシャの骨にふれた人の復活:2列王13:21

聖書では人の死と復活を十分に取り上げており、中でもキリストの復活は、今なお生きておられるところの唯一の復活である。

C 主を信じる者も勝利者となるから(1ヨハネ5:4~、2コリント2:14~)

参照聖句→1ヨハネ5:4~「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

* 4節「世に勝つからです」→3節では、神を愛するゆえに神の命令は重荷とはならないとある。これが世に勝つ秘訣である。神からの十字架を担うが重荷とはならない。そして自分と周囲は変えられてゆくのである。EG→必要以上の重荷を負ってはいけない。主に聴くことである。主はあなたにふさわしい十字架・重荷をその時に示してくださる。その十字架を負って従うことだ。

参照聖句→2コリント2:14~「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」

* 14節「私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え」→当時の征服者は捕虜を連れ勝利の行列をして帰ってきた。その例を取り上げ自分がキリストに捉えられて使徒となり、至る所でキリストの福音の宣教者となることを述べている。ここでも自分の努力ではない。主が率いてくださる。また香りは自分で出すのではない。自然と出るものだ。

(中心的メッセージC)
1ヨハネ5:4「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です」を中心として学べる点は次である。信仰を持っていることがまず大切だ。勝利者となるからだ。キリストが勝利者としてくださるからだ。勝利の凱旋に加えてくださるからだ。
そして大切なのは、主の与えてくださる重荷(十字架)を担って主とともに歩むことだ。ますます勝利を体験する者となるからだ。

(例話C)
 ストロベル氏はクリスチャンになると、積極的に伝道するようになる。

あるイースターが近づいた頃、当時、新聞の編集長だった彼は、無神論者である部下を教会に誘うべきだと聖霊の導きを感じた。

「教会に行かないか?」と尋ねると、「なんでつまらない教会なんか行かなきゃならないんだ」と答えが返ってきた。「イースターはイエスの復活を祝う時だ。復活に関しては歴史的な証拠がある‥・」と何とか理性にも訴えようとするが、「そんなことは信じない」と相手は言う。「神について何か知りたいことはないのか」と尋ねても、「何もない!」と全てを否定された。ストロベル氏は、すっかり打ち砕かれ、確かに聖霊の導きを感じて伝道に行ったのに、勘違いだったのかと、その後、何年もこの出来事が気になっていた。

 それから数年たち、ストロベル氏が牧師となってからのある礼拝後の出来事である。
1人の信者が、「あなたの霊的なお導きを感謝しています」と握手を求めてきた。この男性が誰だか分からないストロベル師に、彼はこう語った。

「数年前、私は突然、職場でクビになりました。貯金もなく、家も車もローンが残っており、当惑しました。新聞社を経営する友人に電話し、何でもいいから仕事をくれ、と頼むと、床のタイルを修復する仕事をくれました。イースターが近づいた頃のことです。新聞社のオフィスの隅で床の修復をしていました。机の陰になっていたので、あなたには私が部屋にいると気づきもしなかったでしょう。あなたが部下に、神のこと、復活のこと、イエスのこと、教会のことを話し、彼をイースター礼拝に誘っていました。あなたの部下は何の関心も示しませんでしたが、私は机の陰で四つん這いになりながら、『私には神への信仰が必要だ。教会に行かなければならない』と思っていたのです。

あなたが去った後、私は即座に妻に電話し、今度のイースターに教会に行くから、と伝えました。今や私も妻も、そして十代の息子もクリスチャンとなりました」と。

 キリストヘの信仰は、魂にも知性にも訴えるものである。それゆえ、ストロベル氏のように知的活動から信仰に到達することもあるし、知性をもって伝道することもできる。そして、結果は神が祝してくださるのだ。
(「御翼」より)

(結)
 イースターは祝われる理由は、主が罪の贖いをなしてくださったからだ。また主が死を克服し勝利者となってくださったからだ。そして主を信じる者は主と同じ勝利者となるからだ。しっかりと主につながろうではないか。