コミュニケルーム通信 米沢豊穂 近況心境 NPO・Anono Chiefdirector Yonezawa o・w・s

カウンセリング 、教育、文学、仏教などを中心に講演・執筆活動中の米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

啄木のふるさとへ 2

2016-08-06 | Weblog
<1よりのつづき>

啄木の教え子であった秋濱三郎という方が、「啄木がある時夢枕に立って、姫神山の歌がないので作ってほしい」と頼まれて詠んだ歌がある。それは、  
  さわやかな小春日和の 
  姫神山 
  薄霞していともやさしく

である。啄木の歌とはやや趣を異にするが、創作の所以がユーモア的であり、またペーソスも漂ってくる。氏について調べてみると、明治四十二年一月五日の啄木の日記の末尾に「今日渋民の駒井善吉、秋濱三郎の二人から賀状が来た。うれしかつた。」とある。また、私の持っている「文芸」別冊「啄木読本」(昭和三十年三月発行)に秋濱氏の「啄木の思い出」と題した短文があり、その中に「啄木は渋民小学校尋常科2年の受け持・・・」とある。
啄木記念館近くの旧渋民尋常小学校(左後方)の前にある、啄木と子供達の像。右側は代用教員時代に 間借りしていた斉藤家
 
「ふるさとの川」
 


やはらかに柳あをめる
北上の 岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

  渋民公園 歌碑「やはらかに・・・」の前にて  後方には岩手山を仰ぐ


望郷の念やるかたなき一首であるが、啄木にとっての「ふるさとの川」は紛れもなく北上川である。この歌の碑は渋民公園にあり、碑の裏側からなだらかな坂を下ると、北上川にかかる鶴飼橋に出る。啄木は汽車に乗る時にはこの橋を渡って、最寄りの好摩駅まで歩いたとのことである。当時は今の渋民駅はなかったそうで、好摩駅は一つ北寄りで、私は車でも七、八分ほど走ったので数キロはあったと思う。彼は四季折々にこの北上川の流れを眺め心に焼き付いていたのだろう。
鶴飼橋の袂に佇むとき、少年の頃の啄木と、またあまりにも若きその晩年に感情移入し、目頭が熱くなった。

    鶴飼橋の袂にて


「初めに返って」  
 
  
   石をもて追はるるごとく
   ふるさとを出でしかなしみ
   消ゆる時なし


啄木短歌に見る「ふるさとへ」の思いは、「故郷忘じ難し」ではあるが、それはいつも(ふるさと)の山と川である。その変わらぬ姿、或いは包容力とでも言おうか。それはまた、父なるものであり、母なるものでもある。
しかし、啄木は再び「ふるさと」渋民へ帰ることはなかった。それはやはり「石をもて追わるるごとく」ふるさとを離れたからである。その理由については啄木の父一禎は渋民村の宝徳寺の住職であったが、宗費滞納などにより罷免されたのである。それは先先々代住職の頃に焼失した本堂の再建のために、財政的にも苦しい状況であった上に、一部の村人との対立もあったようである。いつの時代も宗教はこの世のものであるようだ。このことはまた別の機会に話したいと思う。
 啄木は渋民の山や川・自然こそが「ありがたき ふるさとで」あった。そこに住む人々ではなかった。いみじくも明治三十九年歳末の日記に、「故郷の自然は常に我が親友である。しかし故郷の人間は予の敵である。豫言者郷に容れられざるものであろう。」と記していることで明白であると思う。


<ふと、犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を思い出した。>
   
   ふるさとは遠きにありて思ふもの
   そして悲しくうたふもの
   よしや
   うらぶれて異土の乞食となるとても
   帰るところにあるまじや


この詩も、啄木の短歌同様に「ふるさと」を思う詩として人口に膾炙されている。犀星が失意で故郷・金沢へ帰ったものの、周囲の冷ややかな態度に「帰るところにあるまじや」と「うたふ」のであった。犀星についてはまた別の機会にしたいと思う。

「というわけで」
故郷が「ふるさと」であるためには、そこ・故郷から出なければならないものである。
そして、それがぬくぬくとした人との思い出だけでは、このような作品は生まれないのではなかろうか。今度の啄木講座でこのようなことを話したいと思っている。


  ふるさとの寺の畔の
   ひばの木の
   いただきに来て啼きし閑古鳥


今頃は彼が幼少期を過ごした宝徳寺の境内は蝉しぐれに包まれていることだろう。
機会を得て今一度渋民を訪ねたいと思うことしきりである。
  
             啄木の歌碑を巡りて
             渋民を行けば会う人
             皆やさしくて   
  (筆者拙詠)

渋民駅切符売り場

渋民駅待合室 ストーブは年中設置なのかな



* 今回の渋民行きに当たり、事前に盛岡商工会議所玉山支所さんより、啄木歌碑等の資料をお送り頂いた。
心より感謝している。
             


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石川啄木 のふるさとへ  1

2016-08-01 | Weblog
先般「啄木慕情」と題して、ちょっぴりupしたが、少しまとめて同人誌へ出稿した。やや長いので2回に分けてみる。写真は適当なものがあれば今後挿入するかも知れない。各位のご批評、ご教示を頂ければ幸甚である。

啄木のふるさとを訪ねて                 
【啄木講座から】
平成二十四年の秋に、NPO法人カウンセリング研究会とユー・アイふくい(福井県生活学習館)共催にて、石川啄木没後百年記念公開講座「啄木の歌と人生」を開催した。当初は一回のみの予定であったが、好評で「パート2」もやり、研究会以外でも短歌会や読書サークル等から招かれることもあり回を重ねてきた。
講座の主題は「啄木の歌と人生」であるが、啄木について私の思いつくまま気ままに話し、短歌の実作や出席者同士のお喋りをも楽しむという感じである。言わば私の専門領域であるカウンセリングのワークショップスタイルである。
元より私は啄木研究の専門家ではなく歌人でもない。カウンセリング研究会やその講義・講演などで、「文学にふれずしてカウンセリングを語るなかれ」と言ってきた。そして、啄木や鉄幹・晶子等の話をした。それで、「一度、啄木講座を」と言われたのが始まりであった。
2回目からは講座の副題を付けている。それは「啄木の交友」であったり、「啄木を巡る女性たち」等である。そのようなことも出席者の興味を誘ったようである。
今年の副題は「啄木のふるさと」と決めた。啄木の歌の中に、ふるさとを詠んだものが幾つもあり、いずれも心に響くものばかりである。昨年、ある読書サークルに招かれた時、出席者の方から「啄木の短歌に見られる故郷への思いの強さは何処から来るのでしょうか」との質問があった。
その時私は、誰しも生まれ育ったところ・ふるさとは懐かしく、正に「故郷忘じ難し」である。けれども啄木は「石をもて追われるごとく」ふるさとを離れている。更には異郷で病を得て二十七歳と言う若さで世を去った。だから人一倍ふるさとを思うのだろうなどと答えた。


【渋民へ】
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

しかし、私自身、啄木に親しんで半世紀を超えるが、未だ啄木のふるさとを訪ねたことはなかった。何事も自分で足を運び、自らの目で見なければと思い、六月の末に啄木のふるさとであり、啄木作品の原点とも言うべき渋民(盛岡市)へ行ってきた。
何分、日々あれこれと慌ただしく暮らしているので、なかなか日程が組めなかったが、小松~仙台は空路、仙台~盛岡は新幹線利用で何とか三日間を捻出した。と言っても初日は小松空港を夕方のフライトで、この日は盛岡泊。朝一で予約していたレンタカーを駆って一路渋民へと向かった。
以下、思いつくままに啄木の「ふるさと」を詠んだ歌などを口遊みながら、講座の雰囲気のような感じで記してみたい。


【ふるさとの山とは、川とは】
ふるさとの山に向かひて言ふことなし
ふるさとの
山はありがたきかな

汽車の窓 
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも

啄木のふるさとの山と言えば、一般的には岩手山のように言われているが、私は岩手山と同様に姫神山も彼の忘れがたき「ふるさと」の山だと思う。
国道4号を北上すると西に岩手山、東に姫神山が美しいシルエットを見せる。岩手山は岩手県のシンボルでもあり、富士山に似ていることから「南部片富士」とも呼ばれている。
岩手山と姫神山を見比べると、岩手山は大きく男性的であるのに対して、姫神山は岩手山よりも小さく女性的に見える。古来、姫とは小さいとか、可愛いという意味もあるので頷ける。こちらの伝説と言うか民話と言おうか、岩手山を夫に、姫神山を妻に見立てたものがある。二山が北上川を挟んで向かい合うのも見事だ。
姫神山の裾野は長く緩やかに渋民へと引いている。渋民は姫神山麓の村なのである。
啄木の歌に「岩手山」については
岩手山
秋はふもとの三方の
野に満つる虫を何と聴くらむ

神無月
岩手の山の初雪の
眉に迫りし朝を思ひぬ

などがあるが、姫神山を詠ったものは見当たらないので、「ふるさとの山」は岩手山となったのかも知れない。
啄木にとって姫神山は渋民そのもので、「山」と言えばそれでよかったのだろう。
<つづく>


今回の渋民行きに当たり、事前に盛岡商工会議所玉山支所さんより、啄木歌碑等の資料をお送り頂いた。
心より感謝している。
コメント (1)
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