コミュニケルーム通信 米沢豊穂 近況・心境

カウンセリング 、教育、文学、仏教などを中心に講演・執筆活動中の米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

残心余情

2015-12-22 | Weblog
残心余情(ざんしんよじょう)
「余情残心」と言うのが正しいのかも知れないが、私は「残心余情」と読みかえている。声に出してみても、その意味が更に深まるような響きがする。

前回、少し触れたがそれは「一期一会」と深く関わる。
「一期一会」は茶道の世界でよく使われる言葉であるが、井伊宗観(大老・彦根藩主・井伊直弼の茶名)の「茶湯一会集」によって広まったとされる。

JR彦根駅前にある井伊直弼公の像(2015春:近江路の旅にて)

それは、
「そもそも茶の交会は一期一会といいて、たとえば幾たび同じ主客と交会するも、今日の会に再び帰らざることを思えば、実にわれ一世一度の会なり」とある。

一期とは人間の一生である。その一生において、今日のこの出会いはただ一度という思いで大切にするという意味である。
他者(ひと)との出会いの不思議をしみじみと感じさせてやまない。

茶湯一会集は更に「主客とも余情残心を催し、退出の挨拶を終われば、客も露地を出るに、高声に咄さず、静かにあと見かへり出行ば、亭主は猶更のこと、客の見えざるまでも見送るなり。」

客が帰った途端に大きな声で話し始めたり、早々と戸を閉めたり、すぐに内に入ったりなどバタバタと忙しない振る舞いをしてはいけない、という意味である。亭主は客が見えなくなるまで見送りなさいと言っている。

「扨(さて)、中潜り・猿戸、その外、戸障子など、早々〆立などいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決て、客の帰路見えずとも、取かた付、急ぐべからず。いかにも心静に茶席に立もどり、此時、にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有べきに、もはや何方まで可被参哉(まいらるべきや)、今日、一期一会済て、ふたゝびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、是、一会極意の習なり。此時、寂莫として、打語ふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたき境界なり。」

その後、茶室に戻り、ひとり静かに茶を服する。そして今日の一期一会の出会いをしみじみと振り返るのである。それが余情残心、つまりyoーサンのいう「残心余情」である。
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 米沢豊穂 近況・心境 花

2015-12-19 | Weblog


       友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
      花を買ひ来て
      妻としたしむ
     

時々この歌を口遊む。それは、あまり気分爽快では無いときだ。
雑用はあれこれあるのだが、何となくパワーが湧いてこない。
それで、花を眺めている私。

啄木に花の歌は少ないが、どんな花を買って来たのだろうか。
作歌はたしか明治も終りに近い10月頃だったと思うが、その頃には今のような温室育ちの花は無かったかもしれない。
露地で栽培されている花だったのか。それとも啄木らしく、そのような気分になっただけで買わなかったのかも・・・。
などと、花を眺めながら思惟(しゆい)している私。共に親しむ人は無けれども。

花との出会(合)いも一期一会である。
今日、こうして見る花は、昨日と同じではないし、明日とも同じではない。
全てが「今、ここで」なのだ。
一期一会は茶道の心であるが、まさにカウンセリングの精神でもあると思う。

花を見ていると心がやすらぐ。
気付かされることもある。
本当は、野に咲く花が好きなのだが、冬ざれの我が庭には花一輪もない。
春が恋しい、一面の菜の花に会いたい。
冬はまだ始まったばかりなのに・・・。
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米沢豊穂 近況・心境 一期一会

2015-12-15 | Weblog
     送りきし大吟醸の美酒は一期一会とその銘も床し



先日の萌え木会の最後の講義に「一期一会」と板書し、その意味を話した。
数日後、ゆうパックが届いた。
開けて驚いた。越前福井の蔵元・越の磯の銘酒は純米大吟醸「一期一会」が出てきた。
他にもお心遣いのお品が入っていた。送り主は会員のお一人で、長年事務局を担当して下さった方である。
元々苦労人で気配りの出来た方であるが、その心憎いばかりのセンスにウルウルのyoーサン
であった。早速に勿体ない気持ちで頂戴した。まさに美酒(うまざけ)であった。

牧水の歌に
     白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
があるが、歯にしみ通るようなお酒はきっとこのような味だろうと思った。
彼は無類の酒好きであったがために、若くして逝ったと言われている。私は、それほどに飲める方で
はないが、このような極上のお酒はたしかに美味しい。贈り主さんに感謝しながら味わうのであった。
静かに更けていく初冬の夜、ひとり来し方を思いながら・・・。

一期一会について記そうと思いながら、お酒が回ってきたようなので続きはまた。
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カウンセリング研究会 萌え木 の終焉

2015-12-01 | Weblog


二十有余年継続してきたカウンセリングの勉強会の一つ「萌え木」を終わりにした。
と言うか、私はもう出ないことにした。それはミヒャエル・エンデの言う「喜びをもってすることが出来なく」なったからである。
最後の講義の11月例会は気乗りがせず、ドタキャンも視野に入れていた。ところが、その日の午後、福井市のお花屋さんから素敵なお花が届いた。ひとりの会員さんからである。ふと、雨雲の空から光が射し込むような気分になった。



キリスト教の宗教画によく見られるような、そんな感じである。そうだ、このような会員の方々のお心には応えねばならない、と思い直して出かけた。
何故、喜びをもって出来なくなったのかと言えば、私はカウンセリングのスキルやテクニックよりもマインドを大事にしてきた。何もプロカウンセラーを養成する訳ではなく、「日々のくらしの中で温かな人間関係を築いて行く」という目的だからである。
しかしそれは、必ずしも長くやっているからといって身に着くものではないことを痛切に感じたからである。スキルなどはある程度やっていれば習得できるが、マインド、つまり心となるとそうは行かないようである。
学び初めで僅かな期間であってもカウンセリングマインドを会得する人もある。もしかすると、それは学ぶこと以前に、その人の「お人柄」というか人間性に由来するのかもしれないと思う。

最後の学習が「モモに学ぶ」であった。私が「モモ」を知って30年になる。作者のエンデは勿論のこと、その背景にあるルドルフ・シュタイナーを研究している私にとって、それは永遠のテーマでもある。
カウンセラーは自分の口を閉じて、ひたすら相手の話す言葉を傾聴することである。「モモ」に学ぶとは、まず「寡黙」でなければならない。すぐに何か言いたくなる人、おしゃべりな人、そして沈黙に耐えられない人は決して「モモ」にはなれないのである。寡黙とは単なる無口ではない。余計なことや、つまらぬこと、そして心にもないおべんちゃら等は言わないことである。

私が萌え木に期待した女性像とは
齢(よわい)97になる私の母が昔から「ブスは3日も見れば慣れるが、根性ブスはあかんで。一生の不作やから」と言っていた。若い頃は笑って聞き流していたが、今更ながら言い得て妙であると思う。顔かたちは生まれつきだから仕方がないが、根性(こころ)は努力次第で美しくなれる。つまり心美人になることである。ブスで、おまけに心も悪くてはどうしようもないではないか。まあ、蓼食う虫も好き好きではあるが。

これまで、機会を得て俳句や短歌、文学にふれ、そしてまた仏教についても話してきた。それは、私の密かな願い「萌え木の会員は一見ふつうの女性なんだけど何処か違う」、そんな人になって欲しかったからである。(本会の通常会員は女性であった)

黙っていてもウルサイようなおしゃべり人間ではなく、大事なことは静かに話し、他人(ひと)の痛みや喜びを共に分かち合うことの出来る人、そして教養(学歴や単なる知識ではない)が残り香・移り香のように仄(ほの)かに漂うような人を夢見ていた。
でも、まだまだ学びたいと仰って下さる方のために、来春からささやかな講座を始める予定である。それは「新・女性自分学」(仮称)で、カウンセリング、人間関係のみならず、文学、仏典、仏教美術、或いは聖書、人生論等を通して、素敵な自分を目指すものにしたいと思っている。講座と言うよりも「自分学の会」等としてもよいかと思う。
以前、私のオリジナル講座で「子育て自分学」や「女性自分学」(いずれもNPOカウンセリング研究会あのので主催した)があったが、今回はもっと幅広い角度から人間的成長に資するものにしたいと思っている。
心ある方々との出会い・再会を楽しみにしているこの頃である。



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