コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

つくべき縁 離るべき縁②

2011-06-03 | Weblog

            (もうすぐ香り高い美味しいコーヒーが入ります。)


ゲシュタルトの祈り

ゲシュタルトといえばゲシュタルト心理学、或いはゲシュタルトセラピーをいうが、その創始者パールズの詩に
「ゲシュタルトの祈り」がある。
この詩はゲシュタルト心理学の真骨頂と思うが、サイコセラピーやカウンセリングに関わる者にとってもその
スピリッツだと思う。
 
私は、自分の人生も、かくありたいとずっと思ってきた。
まずは、その詩を紹介しよう。

  我は我がことを為さん
  汝は汝のことを為せ
  我が生くるは 汝の期待に添わんが為に非ず
  汝もまた 我の期待に添わんとて生くるに非ず
  汝は汝 我は我なり
  されど 我らの心
  偶々ふれ合うことあらば
  それにこしたことはなし
  もし 心通わざれば
  それもせんかたなし


私はこの國分康孝氏の文語調の訳が好きだが
ネット検索してみると分かりやすくて、いいものがあった。
ごくふつうの方が訳して掲載されたものである。
下記に転載してみよう。

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけではない。
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけではない。
ICH BIN ich und DU BIST du -
私は私。あなたはあなた。
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
wenn nicht, dann ist auch das gut so.
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。


私はドイツ語は全くダメだが、堪能な方がおられましたら、また違う訳を頂けるかもしれない。
歎異抄はわが国中世の仏教者の言葉。ゲシュタルトの祈りは近代欧米の心理学者のもの。
それぞれに宗教者らしく、セラピストらしい言葉ではあるが共通点が感じられて面白い。
  
私はカウンセラーであるがセラピストではない。また、仏教者の端くれでもある。
現在はカウンセリングのスーパーバイズが主であるが、ゲシュタルト療法家ではない。
ロジャーズを基本にしているが、ロジェリアンと言えるほどではない。また、それのみに固執することもない。
ゲシュタルトであれ、ユングであれ、クライエントに対してよいと思うものは利用している。

しかし、非力で凡夫極まりない自分をよく知っている。 


                   (ふと、信濃路を思い出しました。本文とは無関係ですが。)


パールズのなき後を弟子筋のタブスが「パールズを超えて」を書いているから面白い。
下記に紹介してみる。色々な訳により若干のニュアンスの差があるが、前記「ゲシュタルトの祈り」のように
その2つを。

   パールズを超えて

曰く我は我がことをなし 汝は汝のことをなすと
されど それのみならば 我らの絆失わるること明白なり

我が生くるは 汝の期待にそわんがために非ず
されど,我 かけがえなき汝の存在に脱帽せんとするものなり

そしてまた 我も汝に脱帽の礼をうけんと欲す
我ら相互に 心とこころふれあいしときのみ
我らここに在り,と宣言すべきなり
汝との絆失わば 我すでにおのれを喪失したも同然なり

我らの心ふれあいしは 偶然にあらず
心を尽くし思いをこめて 求めあいしがゆえに
心通うに至りしなり
いたずらに,事の流れに おのれをまかしたるに非ず
内に期するところありしが故に 心ふれあうに至りしなり
然り,事の起こりは 我が発心なり
されど 我が発心のみにて 足れりとするに非ず
真理のきざしあるは 我と汝と 共にあるときなり

  
こんな訳も

  パールズを超えて

私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。
もしそれだけならば、お互いの絆も私たち自身も失うことになる。
私がこの世に存在するのは、あなたの期待に応えるためではない。
しかし、私がこの世に存在するのは、 あなたがかけがえのない存在であることを認めるためであり、
そして私も、あなたからかけがえのない存在として認めてもらうためである。
お互いの心がふれあった時にはじめて、私たちは本当の自分になれる。
私たちの心のふれあいが失われてしまえば、私たちは自分を完全に見失ってしまう。
私があなたとの出会いは偶然ではない。
積極的に求めるから、あなたと出会い 心がふれあう。
心のふれあいは、成り行きまかせではない自分から求めていったところにある。
全ての始まりは私に委ねられていて、そして一人では完結しない。
本当のことは全て、私とあなたとのふれあいの中にあるものだから。


まあ、師・パールズの個人主義的なものから、より相互的なものへの強調(私の独断です。偏見じゃないよ)
のように思うのだが。
皆さんはどちらがいいと思われるだろうか?
私はやはり弟子よりも本家の方が好きだ。
「パールズを超えて」は何だか未練がましい。

親鸞の境地にはほど遠い私だが、
「ゲシュタルトの祈り」も、孟子の「去る者は追わず 来たる者は拒まず」と言うことになるのであろう。
娑婆のことなぞ、それでよいではないか。

されど、阿弥陀様は有り難い。観無量寿経には「摂取不捨」とあるではないか。
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つくべき縁 離るべき縁 ①

2011-06-01 | Weblog
【近況・心境】
 
親鸞は弟子一人持たずそうろう

長年幾つかのカウンセリング研究会の常任講師を務めている。
カウンセリング研究会と言ってもカウンセリングのみを講じている訳ではない。コミュニケーションあり、仏教あり、そして聖書にまで話は及ぶ。まあ、生き方を学び合う会と言うところだろうか。

会員はある期間を学び退会して行く人、或いは長年会員として学び続けている人も多い。概して熱心で心根のよい人たちだ。

先般、人権に関わる相談員さんたちの研修会に講師として呼ばれた。
講演が終わった後、一人の方が控え室に見えた。
その方は行政の総合的な相談機関の責任者の方であった。その相談機関に、嘗てカウンセリング研究会の会員として在籍された方が相談員を務めていると言われた。

その責任者の方は私に「さすが米沢先生のお弟子さんは素晴らしいですね。彼をご指名の相談が引っ切り無しです。今日のお話をお聞きして頷けます。」と言われた。

私は思わず「えっ?」と。
私の話なんて、年がら年中何処かで色々なことを話している訳であり、大したことはないのだが、「お弟子さん」と言われて驚いた。どうもピンとこない。私に弟子などある訳がない。もともとその人が素晴らしい人であるだけのことである。

研究会で講義やスーパーバイズをしても、師匠や弟子だなんて夢にも思って来なかった。
私は「カウンセリングはアートだ」と言って憚らない。その人の持って生まれたものや、感性、或いは人柄の然らしめるところだと思っている。
知識や理論は決して無用のものではないが、人間としての躍動の原点にはなり得ないものだ。

閑話休題
歎異抄の中に出てくる親鸞の言葉に、

  専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、
  もってのほかの子細なり。 親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わ 
  はからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、 弟子にてもそうらわめ。
  ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子と
  もうすこと、きわめたる荒涼のことなり。
  つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師を
  そむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、
  不可説なり。・・・

というのがある。拙い意訳をすれば、

ひたすら念仏に生きる人達の中で、「この人は自分の弟子だ、あの人は他人の弟子だ」という争いのあることは、もってのほかのことです。私・親鸞は弟子は一人も持っていません。
それは、私の力で念仏をさせた人なら、その人は私の弟子と言ってもよいでしょう。阿弥陀如来の本願によって念仏する身になった人を、私の弟子などと言うことは実に寂しいことです。
お互いご縁があれば共に生き、離れていく縁であれば離れることもあるのです。
師に背いて、別の人について念仏すれば、浄土往生することが出来ないなどということは、いうべきことではありません。

ということになろうか。

実は親鸞のこの言葉の背景にはある出来事があった。
親鸞が関東での布教の頃に弟子入りした信楽房が、親鸞の教えに異議を唱えて彼の元を去った。その時、周囲から嘗て親鸞が彼に与えた本尊(南無阿弥陀仏の名号)や、経典を取り返すべきだという声が起こった。
勿論、親鸞はそれを取り返したりはしなかった。
その時の言葉が、この「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。」である。

カウンセリング研究会の公開講座などで何度か歎異抄を講じたが、この辺りに来ると親鸞の口吻が伝わって来るようで何だかぞくぞくする私である。

親鸞は彼の元で念仏する人たちを「御同朋御同行」(おんどうぼう おんどうぎょう)と呼んでいる。それは志や行いを共にする仲間であり、師匠や弟子の間柄ではないと言っているのだ。親鸞という人はそのような人なのだ。
しかし、弟子の方では「親鸞は師匠であり、自分はその弟子だ。」と思っていたであろう。それは当然のことでもあるのだが。

私は若い頃、ある流派の茶道を習っていたが、この世界は一際師匠だの弟子だのというところであった。正に家元制度そのものである。つくづく嫌になって止めてしまったが、今までやっていればそれなりの「お師匠様」になっていたかもしれない。(可々)

あるカウンセリング研究会である時、一人の会員が退会した。
大勢の人間がいれば、色々な人があって当然である。ひとり一人は皆よい人なのだが、グループや集団になると問題が起きやすくなる。
その人が事務局宛にハガキを1枚寄越して退会を届け出た。会員の間ではその人に対する叱声も聞こえたが、人間、一旦気まずくなるとなかなか出席しにくいものである。
それはそれで仕方の無いことである。
「つくべき縁」がなかっただけのことである。そう思うことが一番なのである。


長々と記してます。ちょっとコーヒーブレイクにしましょうか。つづきはお近いうちに。                     

        (画像は先日見付けた加賀路のサテンです。今度ご一緒にお茶しませんか。)