日本人の ”戦い”

激動する時代の日本に多大な影響を与えた人物の思索をたどる。

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大川周明 『頭山 満と近代日本』(七) 国民的精神の覚醒、地租改正反対と軍備拡充

2017-01-30 19:35:34 | 大川周明

 

大川周明 『頭山 満と近代日本』   

 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 


 

    

 条約改正無期延期・黒田内閣辞職によりて、民間の反政府運動は一応勝利を以て段落を告げ、各地の政治団体は衆議院議員選挙の準備に力を注ぐこととなった。玄洋社では頭山翁に向つて熱心に立候補を求めたが、翁は決して承知しなかつた。玄洋社では翁が大阪に赴いて留守の間に、飽迄も翁を議員に推すことに決し、玄洋社所有の土地を悉く翁の名義とし、之によつて議員候補者の資格として公民権を獲得し、翁が帰福の後に此事を告げて承諾を求めた。併し乍ら翁は、玄洋社には議員として自分よりも適任の者が幾らでもあると言つて、断乎之を拒み、右地所は大原義剛の名義とすることにした。佐々友房の如きも、初期の代議士に是非翁を出馬させたいと極力勧誘したが、翁は君に議員になるなと言はないから、自分にも議員になれと奨めるなと言つて、耳を貸そうとしなかつた。

 

 さて明治初年以来、幾多の志士が業を棄て産を亡ぼし、若しくは血を流してまで要望し熱求し来れる帝国議会は、明治二十三年十二月二十五日を以て召集され、二十九日を以て開院された。多年藩閥政府と抗争して幾多の艱難辛苦を嘗めたる政党員は、言論・集会・出版・結社等の自由を拘束されたる桎梏(しっこく)を脱し、公然立法機関に拠って政府と対陣することとなつた。代議士の脈管には、武士道に養はれ、徳教に訓育されたる血の尚ほ流れて存するものあり、政府に反抗する者も追随する者も、概ね国士を以て自ら任じ、正義正道と信じたる所に従つて行動せんとした。

第一回帝国議会開会当初に於ては、未だ後年に見る如き醜随なる言動や不真面目なる態度は、議場に漂ふことなかつた。加ふるに後年ほど選挙に莫大の運動費を要しなかつたので、解散を恐れる議員気質なるものもなく、偏へに主張に忠ならんとした。

 

 初め後藤象二郎が同家危急を叫んで大同の急を呼号するに当り、各種異様の流派と人物と網羅し、忽焉(こつえん)として彪大なる団結を出現せしめて、恰も自由党・改進党の小異をさへ此時を以て棄却せしめたるの観があつた。而も大隈が条約改正を断行せんとするに及び、保守党及び国権主義者、先づ起つて之を妨げ、改進党を目して売国の賊と罵るに至り、大同団結もまた之に和し、激烈なる大隈反対を表示したので、改進党は早くもまた此時に自由党と絶つた。而して大同団結の首領たる後藤は、之を跳躍台として一躍身を薩長の藩籠(はんろう)に投じたので、大同団結は後藤の入閣を喜ばざる大同協和会と、大同倶楽部との両派に分裂した。
 協和会は板垣を起して自由党を再興せんと欲したが、板垣は後藤との衝突を避けるため、別に愛国公党を組織して両派を調停せんと欲し、三十二年十二月海南より出でて大阪に大会を催した。此の計画は大同団結を維持せんとする後藤の直参派にも、また自由党再興論者にも喜ばれなかつたので、幾くもなく立消となつた。議員選挙は政党界が是くの如く紛糾せる時に行はれたので、競争は往々に同主義間に行はれ、従来政党に関係なかりし者で当選したものが頗る多かつた。彼等は後に相集まりて大成会といふ一倶楽部を組織した。在野の諸派は、合同して政府に対するに非ざれば、多数を議会に制することが出来ないので、在野党合同の議が起つたが、其議は改進党中に異見ありて行はれず、やがて改進党を除きたる諸派の一致となり、立憲自由党の名称の下に百三十の員数を得た。而して改進党の四十名を之に加ふれば百七十名となり、総員三百の過半数となる。

 

 第一議会に臨める山縣内閣は、超然主義を標榜して表面は政党と何等の関係をも有せざる如く見せかけたけれど、自由党・改進党が連合し、民力休養を唱へて政府提出予算に削減を加へんとしたので、民間党の一部を切崩し、辛うじて議場に多数を制して予算を成立させることが出来た。議会がとにかく無事に終つたのは、一に山県首相が隠忍譲歩して民党の鋭鋒を避けしに由るものであるが、民党は此によつて意気傲り、官僚は之を視て憤慨し、山県もまた衷心安からざるものあり、遂に病に託して辞職し、薩人松方正義が之に代つた。

 

 さて明治二十二年黒田内閣の出現は、国政の一転機であつた。伊藤内閣は制度の上に於て成すべき事は殆ど成し遂げたが、細目に忙しくして大綱に気が付かなかつた。明治政府の外柔内硬は伊藤・井上の欧化主義を以て其の頂点に達し、其為に国民的自覚を喚起し、国粋保存・国体擁護・国権伸張の声が随処に挙がるに至つた。茲に注意すべきことは、明治十四五年の交に起りし保守的反動は、具体的に言へば漢学の復興に過ぎなかつたが、明治二十年以後に起りし反動は、国民的自覚の現象なりしことである。素より此の場合に於ても窮経(きゅうけい)を抱ける儒生、山寺の和尚、古神主等にして喜んで之に投じたる者ありしとは言へ、此の運動の中心となりし人々は、決して西欧の文明に対して無智でなかつた。

 彼等は明治四年のドイツ統一を中心として、その前後に起りたる欧羅巴諸国の国民運動の精神を呼吸した。彼等は明治初年以来幾たびか日本政府によりて企てられ、幾たびか失敗を繰返せる条約改正の事業を見て、深く日本国民の意気地なきを憤つた。彼等は日本が思想と風俗とに於て欧羅巴の属領たらんとする傾向あるを見て、最も危険なる現象とした。彼等は欧羅巴諸国が、其の国語に於て、文学に於て、風習に於て、努めて各自の民族的特質を護持せんと努めつつあるを知つて居た。於是彼等は明かに国民に向つて、国粋を保存せよ、模倣を止めよ、国民の特質たる忠君愛国の精神を長養せよと宣言した。実に彼等の努力によつて、国民的精神は覚醒し初めた。

 明治二十一年四月を以て創刊せられたる雑誌『日本人』は、三宅雄二郎・志賀重昴・杉浦重剛・井上円了等を同人とし、最初に且最も有力に国民の自覚と反省とを促した。杉浦・三宅の両人は、大隈の条約改正.反対の時に初めて頭山翁と相識り、爾来身を終ふるまで親交を続けた。

 

 是くの如き国民的自覚は、伊藤内閣をも反省せしめ、従来の非を悟り、外柔内硬は事の当を得たるものに非ず、国家として自ら重んぜねばならぬことに思ひ及んだけれど、内外の反対猛烈を極めたるが故に、一旦退いて黒田内閣をして事に当らしめることとした。黒田内閣は、民間政党の領袖大隈・後藤を援きて官に就かしめ、以て官民の疎通を図り、外国に対しても井上の屈従的態度を改め、対等の立場に於て条約改正に着手したが、案の内容が愛国者の激しき反対に遭ひ、遂に辞職の止むなきに至り、長人山県有朋が其後を継いで第一議会に臨んだのである。

 

 山県は第一議会に於て下の如ぎ注意すべき演説を行つた。曰く『国家独立自衛の道は、一に主権線を守禦し、二に利益線を防護するに在り。何をか主権線と謂ふ、国境是なり。何をか利益線と謂ふ、我が主権線の安全と堅く相関係するの区域是なり。凡そ国として主権線を守らざるなく、又等しく其の利益線を保たざるはなし。方今列国の問に立ち、国家の独立を維持せんと欲せば、独り主権線を守禦するを以て足れりとせず、又利益線を防護せざるべからず』と。これは従来政府が専ら内治を主とし、軍隊は国内の不穏に備ふるを第一とし、外に向つては無事を事として来たのに対し、明白に国防を安全にし、国威を宣揚し、一個の国家として世界に立たんことを声明せるものである。山県に代りて松方が首相となりても、此の立場に変りはなく、力を軍備拡張に注いだ。

 

 先是(これよりさき)政府反対党は、自由党と改進党との同盟を図り、板垣退助は大隈重信を早稲田に訪ひて密かに一致の運動を議し、遂に積年反目の旧怨を解いた。最も熱心に此為に努力せるは中江篤介である。此事は政界に甚大の衝動を与へ、自由改進の両党と、楠本正隆・中村弥六等の中立議員より成る独立倶楽部、及び無所属の四団体を併せて民党と称し、凡そ政府に反対の主義を抱く者は皆其の旗幟(きし)の下に集まり、之に対立する者を吏党と称し、民吏両党の部署全く定まつた。政府は大隈が枢密顧問官であり乍ら板垣と会見して政治を議したることを以て、官紀を紊乱するものとし、旨を諭して其官を免じたが、此事は民党を激昂せしめて政府反抗の気焔を煽揚したに過ぎなかつた。

 

 既にして明治二十四年十一月二十六日、第二期帝国議会が開かれ、政府は軍艦製造・砲台建築・製鋼所設置等の新計画を立てて議会に臨んだ。予算案の説明に当り、陸相高島靹之助は『陸軍現時の編制は、国防上欠くる所なきを以て之に満足すべきも、海岸防禦・兵器製造・陸地測量等の事業は、未だ整備の域に達せざるを以て、漸次之が完成を期する』と述べただけであつたが、海相樺山資紀は海軍大拡張の必要を説き一如今帝国をして攻守両つながら優勢を占め、また遺憾なからしめんと欲せば、勢ひ軍艦七十五隻、凡そ二十万噸の海軍力を必要とする。但し是れ民力の堪えざる所なるを以て、暫く其の実現を他日に譲るといへども、少くも十二万噸の海軍力を具ふるに非ずば、国家を維持する上に於て甚だ危険を感ずるが故に、着々其の計画を進め、向後六七年の問に計画の完成を期する』と述べ、議場の紛擾を紛擾(粉状)を睥睨(へいげい)して『現政府は、国家内外の艱難を切抜けて今日に及んだ。世人は薩長政府と称して之を攻撃する者あるも、今日国家の治安を保ち、四千万生霊の安寧を致したるは誰の力』と呼号した。

 蓋し第二議会は、政府と民党と初めより極力決戦の意を以て之を迎へたるものにして、樺山が薩長の功業を高調して故らに議会の反感を激成したのは、初めより解散を断行せんとする政府の意向を表示せるものである。

 かくて議会は政府提出の予算案に八百万円の削減を加へたので、政府は之を以て国事を『破壊』するものとなし、十二月二十五日断然議会の解散を命じた。

 

 かくて総選挙は明治二十五年二月十五日を以て行はれることとなつた。時に政府部内に硬軟の二派あり、硬派は飽くまで選挙に干渉し、政府に賛成する議員を当選せしむべきを主張し、軟派は干渉を不可として之に反対した。当時硬派の首領は内相品川弥二郎で、高島陸相・樺山海相之を助け、軟派として之に反対し穴のは農相陸奥宗光であつた。而も硬派が選挙に干渉する決心は、議会解散の日に既に定まり、次期には必ず政府党議員を以て議会に多数を占めんと欲したるものである。

 

 時に松方首相は頭山翁に会見を求め、海軍拡張の必要を説き、政府を援助して選挙に勝利を得せしめられたしと懇請した。翁は予てより翁は国会開設のために運動したが、初期議会以来民党の主張なりし地租軽減には絶対に反対して居た。翁は外国に対して国家の体面を維持し、進んで国威を宣揚するためには、軍備の拡張を以て当面の急務なりとし、地租軽減の主張は時務を知らぬ俗論であるとした。現に玄洋社に於てさへ、地租軽減は天下の輿論なるが故に、之に反対するは不可なりとする者あつたけれど、翁は『一人の賛成者もない事を行ふこそ、真に民の耳目たる者の為すべき事である』と言つて居た。

 而して初期の議会には翁は自己の炭坑を抵当として調達せる選挙費を以て同志を当選せしめ、自ら議員とならぬ代りに、福岡からは一人も民党議員を出さなかつた。此の圧倒的勝利には敵味方とも驚いた。福岡県知事安場保和の如きは、翁の手を取りて歓天喜地した。此時の議員香月恕経は耳の遠い学者であつたが、翁は香月に向ひ、耳の遠いのは幸ひ、他人の言を聞く必要はないから、一人で地租軽減反対論をやれと言つて演壇に立たせた。

 是くの如く翁は軍備拡張論者であつたから、松方首相から相談を受けだ時、万難を排して飽くまでも所信を遂行するかと訊ねた。松方は翁に念を押されて、仮令四千万人を相手にしても断行すると誓つたので、翁は松方の懇請を容れた。

 

 さて松方内閣は民党征伐の目的を以て議会を解散し疫のであるから、民党は前に倍する議員を選出して解散の無意義を大下に明示せんとし、自由・改進両党は成るべく同志打を避ける方針を立てて府県の運動を指導し、板垣・大隈の両党首、互に往来して画策する所あつた。而して品川内相・白根次官は、地方官に内訓を与へ、民党議員の当選を妨げるためには、高圧手段を執るも亦止むなき旨を諷示(ふうじ)したので、地方の警察官は公然郡市を巡りて選挙に干渉し、或は甘言を以て誘ひ、或は威嚇を以て脅し、甚だしきは選挙人に刃傷をさへ加へた。官憲の行動既に是くの如くなるが故に、不逞の暴徒取在に横行し、剣を抜き銃を放ち、家を焼き人を殺して憚らざるに至つた。政府は各地に予戒令なるものを布き、保安条例を施し、憲兵を派遣し、選挙取締の名目の下に民党を弾圧した。実に此の選挙に際し、全国の死傷者数は、死者二十五人・負傷者三百八十八人に達した。頭山翁が指揮せる福岡県に於ては死者三人、負傷者六十五人を出だして居り、定員九名のうち八人は吏党で、自由党の当選者は僅に一名に過ぎなかつた。而して選挙の結果は民党百三十三名、吏党九十三名、中立七十四であつた。

 

 この選挙干渉の大惨劇は、当然政府の動揺を招んだ。伊藤枢密院議長は、先づ選挙干渉の不法を痛斥し、かかる閣員と同じく政府に居るを欲せずとして辞表を奉呈したが、明治天皇の宸翰(しんかん)を賜はりて留任し、品川内相・陸奥農相が辞職し、副島種臣及び河野敏鎌が之に代つた。副島種臣は肥前の老儒、民選議院の建白以来久しく朝に立たなかつたが、入りて内相となるや、其の持論たる王道蕩々・無偏無党を旨とし、官民軋礫の間に立ち、全誠を以て調停の任に当り、衆議院議長星亨以下の民党議員に説いて、互に譲歩の談判を約するに至つた。然るに吏党議員の一派は閣僚中の硬派を動かし、此の和衷協同に反対させたので、副島は其の約束を行ふこと能はず、遂に職を辞するに至つた。

 河野敏鎌は曽て大隈と共に改進党を組織して其の副総理たる経歴を有する土佐人にして、民間に信用篤かりしが、副島の辞職するや、農柑より転じて内相となつた。河野は転任に当り、閣外元老の掣を受けず、選挙に干渉せる地方官を交迭することを条件としたので、長人白根次官は是くの如き土佐人の下に服従するを欲せずとして辞表を提出した。河野は白根の去るに任せた上、安場福岡県知事以下五六の地方長官に転任非職を命じた。於是安場知事は、急に他の不平知事と相携へて上京し、謂はゆる躍起運動を開始し、逆に高島陸相・樺山海相を説得して辞表を提出せしむるに至つた。此の両人を失ふことは、松方に取りて手足を奪はれたるに等しく、遂に闕下に伏して骸骨を乞はねばならなかつた。

 松方の辞表を提出するや、頭山翁は直ちに松方を訪ひて其の柔弱を責めた。翁は声を励まして言つた――『予にあれだけの言質を与へて置きながら、途中で挫折するとは何事ぞ。君恩を添うし、君国の負託を受けながら、難関に逢着して面を背け、伊藤・井上・大隈などに国を任せて別荘にでも逃避する心組か。果して然らば彼等にもまさる不忠不義のものとなる。予は断じて黙視せぬぞ』と。此の一言は松方をして椅子から飛び上がり、長大息して嘆声を発せしめた。翁は当時を追想して下の如く語る――『大きな男であつたが、余程驚いたと見える。向ふが余り恐怖したものだから、張合が抜けてそれ以上罵倒も出来なかつた。やつつける位はやり兼ねない僕だと思つて居たらうから、直ぐ其場でやられるとでも思つたんぢやらう。かういふ次第で、松方は最早駄目だと思つたから、今度は松方の後を継ぐ伊藤どもが悪いことをせぬやう、打殺すにも及ばぬが、生胆(いきぎも)を引抜いてやらうと思ひ、遠藤秀景と共に伊藤を訪ねたが、病気で会へぬと玄関番が取次がない。病床でも差支ない、急用だからお目にかかりたいと言はせたが、どうしても会へないと言ふ。病気とは嘘だらうと、翌朝また行つたら、今度は不在だと言ふ。取次を叱り飛ばして帰り、手紙をやつて伊藤を叱つて置いた。 

 

すると二三日して松方が自分に会つて『伊藤さんの取次の者が、あなたに大変な御無礼をしましだそうで、どうか宜しくとくれぐも頼まれました』とのこと、更に三四日して、当時僕の居た浜の家の女将を通じて、伊東巳代治が是非僕に会ひたいと言ふ。おれは伊東に用はないと断つたが、女将が『あれほどにお頼みですから一寸でも』と、しきりに頼むので、それではと言って訪ねて来た伊東に会つて見ると、果して伊藤のことで『あれは全く取次の心得違ひで、伊藤さんはさういふ詰らぬ人ではありません、私がお供しますから、どうぞお会ひ下さるまいか』と言ふ。自分は「此間は急用があつたが、今は時機が去つてしまつた。用の無いのに会ふのは双方無駄なことだから会はん。併し御心配の事は、其事の去つたあとで何とも思つて居らんから御安心なさるやうに言つて下さい』と言ふと、伊東は重ねて『それぢや私の宅に伊藤さんを呼んで置きますから、私の宅でお会ひ下さるまいか』と言ふ。僕は「また何時かお会ひすることもあらう』と言つて、遂に会はなかつた。

 

 当時議会に於て官民両党の対峙するや、民党は常に一致して行動するが故に、部署甚だ整然たるものあつたので、吏党は其為に往々失敗した。品川弥二郎が選挙干渉の責を引いて内相を辞するや、渡辺洪基・曽根荒助・古荘嘉門等をして一政党を組織せしめ、之を国民協会と名づけ、西郷従道を説得して総裁となし、自分は副総裁となつた。組織の発表と共に両人は枢密顧問官の職を辞し、協会を率ゐて民党と戦はんとした。議員の協会に加はるもの七十人、その結党の迅速なる、朝野ともに一驚を喫した。時に西郷・品川は、民間の代表的勢力たる頭山翁を羅致(らち)して協会の勢威を張らんとし、西郷が使者をやりて翁を招かしめた。翁は浜の家に流連(りゅうれん)中で、承知したと返答はしたが往かうとしない。翌日西郷が再び招んだけれど、また返事ばかりで往かない。そこで西郷は更に使者をやり、待つこと久しけれど来駕を得ないのは、想ふに美人の傍を離れ難いためか、果して然らば予自身が推参して盛宴に侍したいと言はしめたので、翁も三顧豈(あに)出でざるべけんやと、青山の西郷邸に俥(くるま)を駆つた。そこには主人を初め品川・高島・樺山が待構へて居て、先づ西郷から協会創立の趣意を述べ、切に翁の助力を求めた。翁は徐(おもむろ)に西郷の言を聞き終り、『世の中には為さんと欲して為さざる者がある。為しても為し得ざる者がある。為さずして為さざる者もある。自分は為して為さざるよりも、為さずして為さざるを取る。公等はいま国家のために大に為さんとして居られるが、自分は謹んで其の為すところを拝見したい』 と答へた。四人は唖然として再び強いることが出来なかつた。想ふに頭山翁は国民協会の意に為すなきを洞察したのであらう。

 事実国民協会は竜頭蛇尾に終り、何の為すところなくして解散した。後日西郷は人に語つて、予は頭山に慚(は)ぢると言つたそうである。翁は松方に失望して以来、志を政界に絶ち、爾来国家問題に非ずば決して動かうとしなかつた。  

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