日本人の ”戦い”

激動する時代の日本に多大な影響を与えた人物の思索をたどる。

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日米戦争の経緯 東條英機 「宣誓供述書」(全文) その1 「わが經歴」「第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢」

2016-10-24 11:16:10 | 東條英機

                              パル判事の碑文(靖国神社)

               
東條英機 宣誓供述書
 

 

昭和二十二年十二月二十六日提出

 

極東國際軍事裁判所
亞米利加合衆國其他

 


荒木貞夫其他 宣誓供述書
供述者 東條英機

自分儀我國ニ行ハルル方式ニ從ヒ宣誓ヲ爲シタル上次ノ如ク供述致シマス 


     
                   東條英機 ウィキペディア   

 

わが經歴

 

   一

 

私は一八八四年(明治十七年)東京に生れ、一九〇五年(明治三十八年)より一九四四年(昭和十九年)に至る迄陸軍士官となり、其間先任順進級の一般原則に據り進級し、日本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。

私は一九四〇年(昭和十五年)七月二十二日 に、第二次近衞内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(當時陸軍中將)迄は一切政治 には關係しませんでした。私はまた一九四一年(昭和十六年)七月十八日成立の第三次近衞内閣にも陸軍大臣として留任しました。

 

一九四一年十月十八日、私は組閣の大命を 蒙り、謹んで之を拜受し當初は内閣總理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼攝しました。(同日陸軍大將に任ぜらる)。内務大臣の兼攝は一九四二年(昭和十七年)二月十七日に解 かれましたが、其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼攝したことがあります。

一九四四年(昭和十九年)二月には參謀總長に任ぜられました。一九四四年(昭和十 九年)七月二十二日内閣總辭職と共に總ての官職を免ぜられ、豫備役に編入せられ、爾來、 何等公の職務に就いては居りませぬ。

即ち私は一九四〇年(昭和一五年)七月二十二日に 政治上責任の地位に立ち、皮肉にも、偶然四年後の同じ日に責任の地位を去つたのであり ます。

 

   二

 

以下私が政治的責任の地位に立つた期間に於ける出來事中、本件の御審理に關係あり、 且參考となると思はれる事實を供述します。ここ*1に明白に申上げて置きますが私が以下 の供述及檢事聽取書に於て「責任である」とか「責任の地位に在つた」とかいふ語を使用 する場合には其事柄又は行爲が私の職務範圍内である、從つて其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であつて、法律的又は刑事的の責任を承認するの意味はありませぬ。

 

   三

 

但し、ここに唯一つ一九四〇年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事項がありま す。それは外でもない一九三七年六月九日附の電報(法廷證六七二號)のことでありま す。私は關東軍參謀長としてこの電報を陸軍次官並に參謀次長に對して發信したといふ事を否認するものではありませぬ。然し乍ら檢察側文書〇〇〇三號の一〇四頁に引用せられるものは明瞭を缺き且歪曲の甚だしきものであります。

檢察官は私の發した電文は『對「ソ」の 、作 、戰に關し』打電したと言つて居りますが、右電文には實際は『對「ソ」 、 作 、戰 、準 、備 、の 、見 、地より』とあります。又摘要書作成者は右電文が『 、南 、京を攻撃し先づ中國に一撃を加へ云々』と在ることを前提とするも電報本文には『 、南 、京 、政 、權に一撃を加へ』となって居るのであります。(英文にも右と同樣の誤あり、而も電文英譯は檢事側證據提出の譯文に依る)。

 

本電は滿洲に在て對「ソ」防衞及滿洲國の治安確保の任務を有する關東軍の立場より對「ソ」作戰準備の見地より日支國交調整に關する考察に就て意見を參謀長より進達せるものであつて、軍司令官より大臣又は總長に對する意見上申とは其の重大性に就き相違し、下僚間の連絡程度のものであります。

當時支那全土に排日思想風靡し、殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中國共産軍の 脅威、平津地方に於ける中國共産黨及び抗日團體の策動熾烈で北支在留邦人は一觸即發の 危險情態に曝されて居りました。此儘推移したならば濟南事件(一九二八年)南京事件 (一九二八年)上海事件(一九三二年)の如き不祥事件の發生は避くべからずと判斷せられました。而して其の影響は絶えず滿洲の治安に惡影響を及ぼして居り關東軍としては對ソ防衞の重責上、滿洲の背後が斯の如き不安情態に在ることは忍び得ざるものがありました。

 

之を速に改善し平靜なる状態に置いて貰ひたかつたのであります。中國との間の終局的の國交調整の必要は當然であるが、排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、之がためには其の手段として挑撥行爲のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むる か、然らざれば國防の充實に依る沈默の威壓に依るべきで、其の何れにも依らざる、御機 嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの觀察でありました。この關東軍の意見が一般の事務處理規律に從ひ私の名に於いて發信せられたのであります。

 

この具申を採用するや否やは全局の判斷に基く中央の決定することであります。然し本 意見は採用する處とはなりませんでした。蘆溝橋事件(一九三七年七月七日)は本電とは 何等關係はありません。蘆溝橋事件及之に引續く北支事變は頭初常に受け身であつたこと に依ても知られます。

 

第二次近衞内閣の成立とその當時に於ける内外の情勢

 

   四

 

先づ私が初めて政治的責任の地位に立つに至つた第二次近衞内閣の成立に關する事實 中、後に起訴事實に關係を有つて來る事項の陳述を續けます。私は右政變の約一ケ月前よ り陸軍の航空總監として演習のため滿洲に公務出張中でありました。七月十七日陸軍大臣 より歸京の命令を受けましたにつき、同日奉天飛行場を出發、途中平壤に一泊翌十八日午 後九時四十分東京立川着、直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩解の事情、大命が近衞公に下つた事、其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。其時の印象では大命を拜 された近衞公はこの組閣については極めて愼重であることを觀取しました。

 

乃ち近衞公は 我國は今後如何なる國策を取るべきか、殊に當時我國は支那事變遂行の過程に在るから、 陸軍と海軍との一致、統帥と國務との調整等に格別の注意を拂はれつつあるものと了解し ました。

 

   五

 

その夜、近衞首相候補から通知があつたので、翌七月十九日午後三時より東京杉並區荻 窪に在る近衞邸に出頭しました。此時會合した人々は、近衞首相候補と、海軍大臣吉田善吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條四人でありました。

この會談は今後の國政を遂行するに當り國防、外交及内政等に關し在る程度の意見の一致を見るための私的會談でありましたから、會談の記録等は作りません。之が後に世間でいふ荻窪會談なるものであります。

近衞首相は今後の國策は從來の經緯に鑑みて支那事變の完遂に重きを置くべきこと等を提唱せられまして、之には總て來會者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせました。政治に關する具體的のことも話に出ました。内外の情勢の下に國内體制の刷新、 支那事變解決の促進、外交の刷新、國防の充實等がそれであります。

 

其の詳細は今日記憶して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本國策要綱の骨子を爲すものであります。陸軍側も海軍側も共に入閣につき條件をつけたようなことはありませんが、自分は希望として支那事變の解決の促進と國防の充實を望む旨を述べました。此の會合は單に意見の一致を見たといふに止まり、特に國策を決定したといふ性質のものではありません。閣僚の選定については討議せず、之は總て近衞公に一任しましたが、我々はその結果については通報を受けました。

要するに檢事側の謂ふが如きこの場合に於て「權威ある外交國策を決定したり」といふことは(檢察文書〇〇〇三號)事實ではありません。その後近衞公爵に依り閣僚の選定が終り、同月二十二日午後八時親任式がありました。

當時私は陸相として今後に臨む態度として概ね次の三つの方針を定めました。

即ち (一)支那事變の解決に全力を注ぐこと、
(二)軍の統帥を一層確立すること、
(三)政治と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を圖ること、これであります。

 

   六

 

ここに私が陸相の地位につきました當時私が感得しました國家内外の情勢を申上げて置 く必要があります。此の當時は對外問題としては第一に支那事變は既に發生以來三年に相 成つて居りますが、未だ解決の曙光をも見出して居りません。重慶に對する米英の援助は 露骨になつて來て居ります。これが支那事變解決上の重大な癌でありました。

 

我々としてはこれに重大關心を持たざるを得ませんでした。第二に第二次歐洲大戰は開戰以來重大な る變化を世界に與えました。東亞に關係ある歐洲勢力、即ち「フランス」及び和蘭は戰局より脱落し、「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が參戰するといふ氣配が濃厚になって來て居ります。それがため戰禍が東亞に波及する虞がありました。從って帝國としてはこれ等の事態の發生に對處する必要がありました。

第三に米英の日本に對する經濟壓迫は日々重大を加へました。これは支那事變の解決の困難と共に重要なる關心事でありました。 對内問題について言へば第一に近衞公提唱の政治新體制問題が國内を風靡する樣相でありました。之に應じて各黨各派は自發的に解消し又は解消するの形勢に在りました。第二に經濟と思想についても新體制の思想が盛り上がつて來て居りました。第三に米英等諸國 の我國に對する各種の壓迫に伴ひ自由主義より國家主義への轉換といふ與論が盛んになって來て居りました。

 

  〔続〕「二大重要國策」へ続く 


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