日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 『頭山 満と近代日本』(八) 金玉均の暗殺・東学党の乱と日清開戦及び対露開戦方針の確立  

2017-01-31 11:22:31 | 大川周明


大川周明 『頭山 満と近代日本』    

 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 


  
 八

 明治政府は、征韓論以来一貫して対外硬を圧追して来たが、明治22年の山県内閣に至り、明かに国防の急務を力説し、次で松方内閣が積極的に海軍拡張計画を樹立したことは、政府の方針漸く一変せることを示すものであり、頭山翁が松方を助けて其志を成さしめんとしたのは、翁としては当然至極のことである。

 ひとり頭山翁のみならず、多年国威の宣揚を高調し来れる自由党も、理論の上より言へば政府を助くべきであつた。而も政治に於て感情は往々にして理論よりも力強くある。藩閥政府の為すところは、挙げて之に反対せねばならぬとする民党伝統の精神は、民力休養の必要と、政府に対する不信とを理由として、飽くまで政府と相争はんとした。

 松方の後を継げる伊藤博文は、黒田・大山・仁礼・山県・井上・後藤等の薩長.元勲を網羅したる内閣を率ゐて第四議会に臨み、野に在りては大隈・板垣の両人相携へ、自由・改進両党を率ゐて之に対し、官民両党互に其の精鋭を尽して対陣することとなつた。
 議場の過半数を占めたる民党は意気大に昂がり、予算歳出の査定に当りては、渡辺蔵相が『一厘一銭たりとも削減を肯んぜず』 と強調せるに拘らず約一割を減じ、奈く軍艦製造費を削除した。之については下院予算委員長河野廣中の報告中に 『委員会は敢て軍艦建造の必要を認めざるに非ず。
 唯だ海軍部内、弊寳累積し、国防の大方針、浮迂して一定する所なきを以て、今之に造艦の大事を托するは、心の安んぜざるを以てなり。他日海軍にして十分の整理を遂げ、方針を確立するあらば、議会は喜びて相当の協賛を与ふべきなり』と言つて居る。

 かくて政府と議会は、墻壁相対して一歩も移し能はざるに至り、明治26年2月8日、政府弾劾の上奏案は多数を以て衆議院を通過し、議長星亨が参内して之を陛下に奉呈した。然るに一日を越えて2月10日大詔の換発あり、 『顧るに宇内列国の進勢は日一日より急なり、今の時に当り日をむなしく曠(むなし)くし遂に大計を遺し、以て国運進張の機を誤るが如きことあらば、 朕が祖宗の意に奉対するの志に非ず、又立憲の美.果を収むるの道に非ざるなり』 と諭し給ひ、 且 『予算費目は更に審議を加へよ、製艦は一日も之を緩くすべからず、後6年の間、内帑(ないど)30万円を下付し、又文武俸給十分一を納れしめ、以で其の補足と為せ』 と仰せられた。
  即ち佞臣等しく恐惶(きょうこう)し、局面一転して第四議会は無事に終るを得た。此時の製艦計画は、僅か戦艦一隻・巡洋艦二隻に過ぎなかつたが、その実行にさへ是くの如き波瀾重畳を経ねばならなかつた。


 民党は海軍拡張に反対しながらも、此頃より漸く第一期以米の民力休養といふ看板を取下げ、外交問題・国権問題を択んで政府反抗の声を挙げるに至つた。
 伊藤首相は夙(はや)くより国際協調主義者として知られて居たので、第五議会に於て、民党は条約改正の進行中に於ても、現行条約を如法に励行すべしと建議した。
 陸奥外相は『旧条約は今日の事情に適応し難きものあり、彼我ともに之を墨守励行すべきでない、其上に難きを外人に強いることは、向上の条約改正のために不利である』 と陳弁したが、民党は是くの如き態度を以て 『偸安(とうあん)姑息、唯だ外人の歓心を失はんこと是れ畏れ、内外親疎軽重の弁別を転倒するに至る』ものとして一層強硬に反抗したので、議会は亦復解散となつた。

 此の形勢を見たる貴族院議員中には、伊藤内閣の対外政策を軟弱なりとするものあり、公爵近衛篤麿・子爵谷干城等は、連署して書を伊藤に送り、「衆議院は年来予算削減を是れ事としたりしが、今や謀を改め、官紀の不振を悲み、国権の退縮を憂ふ、宜しく彼をして其の所論を尽さしむべし。
  而も内閣諸公は之に顧みず擁塞を是れ力む。或は国民の大反抗を招致せんことを恐る』 と警告したが、伊藤は之に耳を貸さず、外交案件によつて中外の物議を招ぐを畏れ、議会解散と同時に、条約励行を主張する諸結社にも解散を厳命した。明治26年12月のことである。

 

 此の対立は明治27年に人りても愈々激しくなり、5月に召集せられたる第六議会もまた解散を命ぜられ、民間の政府反抗の気勢頓に昂まり、情の激する所、事態容易ならざるものあらんとした。
 然るに此時偶々朝鮮に東学党の乱あり、延いて日清両国兵火の間に相見ゆるに至つたので、昨日の反噬(はんぜい)忽ち忘れ去られたる如く、政府と民党は互に手を握つて臨時議会に臨み、満場一致して戦費を協賛した。
 国家非常の秋に際しては、平日の恩怨を顧みず、挙国一致して外患に当る日本民族伝統の美風が、此時もまた美事に発揮されたのである。

 

 さて東学党蜂起の報道が未だ日本に達せざる前に、頭山翁等が眷顧(けんこ)して来た韓国の志士金玉均の暗殺事件があつた。既に述べたる如く、明治17年甲申韓京の乱に、金玉均・朴永孝孝等は独立自主の政策を声言して兵を挙げたが、閔族及び清兵の撃破する所となりて吾国に亡命した。
 翌年朝鮮政府は彼等の引渡を求めて米た時、政府は国際公法に国事犯人引渡の前例なきことを告げたので、閔族一党は更に暗殺の計画を立て、刺客を送つて金・朴を向はしめた。
 於是日本政府は朝鮮政府と妥協し、刺客の退去を求めると共に、金玉均等等にも日本退去を命じたので、金は一時小等原島に身を潜め、又は北海道に流浪して艱難を嘗めた。
 その小笠原島に滞留中、玄洋社員的野半介と来島恒喜が金を此の南海の島に見看つて居る。

 其後稍々(やや)自由の身となりて東京に住むやうになつてから、頭山翁は最も深切なる金の庇護者として終始した。政治運動に資金の必要なるは言ふまでもないので、金は常に金策に苦心して居た。
 明治23年米価暴騰の時には、金は米相場による一攫千金を夢みて、2万円の調達を翁に頼んだ。翁は之を副島種臣や
三浦梧楼に相談したが、両人とも金には縁が遠かつた。よつて後藤象二郎を訪ね、翁所有の炭坑を100万円で三菱に売却する相談をしたところ、後藤は大に之に賛成し、福沢諭吉をして三菱に説かせたり、種々尽力するところあつたが、是もまた不調に終つた。
 若し此の100万円が出来て居だら、東亜の歴史は恐らく別個の展開をしたことであらう。


 金は亡命以来やがて10年にもならうとするのに、更の前途の光明を認め難く、目的の遂行に対して荐(しき)りに焦慮して居たので、翁は其の胸中を察し、一つは世間を韜晦(とうかい)するため、また一つは鬱を散ずるために、柳暗花明の巷に金を出入させたりした。
 そのうち明治21年正月、李逸植・洪鐘宇といふ二人の刺客が東京に来り、何時の間にか金玉均に取入つた。彼等は金に向つて故国復興の事を語り、上海に渡りて李鴻章と議り、其力を借りて再び韓国政府の要路に立ち、政治的革新を行ふの得策なるを説き、之を曽て駐日公使たりし李鴻章の息李経芳の伝言だとした。時に金は流寓10年、日本援韓の宿望、今に其の実現を見ざるを憾んで居たこととて、意中稍々動き、頭山翁が極力諫止したにも拘らず、遂に洪と共に上海に向ふこととなつた。


 此時金は大阪までの同行を頭山翁に懇願した。翁が旅費の持合せがないので断ると、金は直ちに200円ばかりの金子を持参して一切の準備を整へたので、翁は3月下旬金と共に大阪に向つた。
 其時金は李経芳に贈るために翁の秘蔵の刀を所望した。其刀は三条小鍛冶作の尤物(ゆうぶつ)で、翁は之を拒んだけれど金が益々切願するので、 『与らぬと言つたのに二言はない、それほど欲しければ盗んで往け』 と言つた。金は 『然らば盗んで往く』と言つて、遂に其刀を携へて洪鐘宇と共に上海に行つた。そして上海の旅館で洪のために短銃を以て殺された。

  金の屍体は彼と同行せる和田延次郎が、一旦棺に納めて日本に送付する手続を取つて居る間に、清国官憲の手に奪取され、刺客洪鐘宇と共に軍艦威遠号に搭載して朝鮮に送られた。
  韓国政府は、同年4月14日楊花鎮に於て金玉均の屍体を寸断し、首と四肢とを獄門に彙し、其他は漢江の流に投じて魚腹に葬るなど、惨忍言語に絶する刑に処した。而して此際李鴻章は上海道台に訓令して洪を庇護し、之を義士と称揚し、且朝鮮国王に対して金玉均暗殺の成功を祝する電報を発した。


【関連記事】
時事新報(1885年3月16日)「脱亜論」

 金玉均暗殺の飛報一たび伝はるや、吾国に於ける有志家の憤激と同情とは嵐の如く起つた。金に対する清韓両国の処置は、明かに吾国に対する国際的儀礼を無視せるものなるのみならず、是を以て清国が吾国に対して挑戦の意志を表明せるものとして、清韓同罪論を中心に国論は鼎の如く沸騰した。
 日清戦争は幾多の事清が互に囚となり縁となりて誘起されたものであるが、其の導火線となれるものは実に金玉均の横死である。

 東亜に対する西洋の駐々たる攻勢、資本主義文明の膨濤たる進出の前に、日本は勇敢且賢明に善処して、一応近代国家として自己を再建した。而も之と同時に日本は、大陸に於ける東亜諸民族の全般的なる覚醒・革新・協力なくしては、究極に於て日本自身の存立さへも保障されぬといふ厳粛なる事実に当面せねばならなかつた。かくて日本は否応なしに東亜保衛者・亜細亜復興者としての重任を負はねばならぬこととなつた。
 征韓論によつて示されたる日本の朝鮮に対する激しき関心、之に続く朝鮮開国のための一連の政治的交渉は、表面に如何なる爽雑物を混へたるにせよ、その奥底に流れる動機は、朝鮮を覚醒して東亜保衛の協力者たらしめんとするに在つだ。


 然るに支那は是くの如き日本の意図を歓ばず、朝鮮に対する宗主権を確保せんとして、朝鮮に於ける日本の努力を妨げた。殊に明治17年金圭均・朴永孝の甲申の変失敗し、日本の勢力失墜せるに乗じ、
李鴻章の意を承けたる年少気鋭の衰世凱は、一切の手段を講じて日本の在鮮勢力排斥に努めた。
 朝鮮政府が日本政府に向つて執拗に金玉均・朴永孝の引渡を要求したのも、朝鮮独立党の根絶を期する清国政府の教唆によるものであり、また明治22年威鏡道盟司趙乗式が、防穀令を発して穀物の国外輸出を禁じ、わが商民に多大の損害を与へたのも、また清国側の指金に出でたるものであつた。

 是くの如く支那は驕り、目本は憤りて、半島に於ける両者の対峙が、年々激化し来りつつありし間に、朝鮮をめぐる国際情勢は、欧米列強の登場によつて頓(とみ)に複雑を極めた。蓋し日韓条約の締結が先例となり、明治13年には米国、同16年には英独両国、同17年には、露伊両国、同19年には仏国が、それぞれ朝鮮と修好通商条約を締結した。
 列強のうちには、条約締結交渉に際して清韓両国の宗属関係を顧慮し、清国政府の意向を質したものもあつたが、当時専ら外交の衝に当れる李鴻章は、日本の対鮮進出を阻止するため、以夷制夷の見地より朝鮮開国に同意し、朝鮮政府に対して条約の締結を懲憩した。
 而して欧米列強の外交代表は、亜細亜の他の国々に於けると同じく、朝鮮に於てもまた独占的利権の獲得、及び政治的勢力の扶植を目指して、一切の陰謀を逞しくした。彼等の或者は其の常套手段を用ゐて朝鮮の内政累乱と人民の之に対する反抗とを助長した。
 外国公使館は陰謀の策源地となり、政治犯人の避難処となつた。

 わけても英国は明治18年5月、済州海峡の要路に当る巨文島を無断に占領したる後、朝鮮政府に対して該島の租借を申込んだ。朝鮮政府は固より此の申込を拒絶したが、清国政府は宗主国の立場に於て此の問題に干渉し、駐英清国公使曽紀澤をして、英国外務当局との間に巨文島租借に関する議定書を作らしめた。
 之を知りたる露国は直ちに清国総理衙門に対して、清国政府が英国の巨文島占領を承認する以上、露国もまた朝鮮に於ける其他の島嶼又は適当の土地を占領すると申込んだので、英国は該島不割譲を条件として巨文島を撤退した。
 其間有為なる露国公使ウェーベルは、漸次朝鮮要路者と関係を結び、伏魔殿の称ある朝鮮宮廷に勢力を張り、重大なる密約を結ばんとするに至つた。而も李鴻章は、ウェーベルの策動が次第に成功を収めんとするを見て、朝鮮の事態を憂慮しながらも、一方に露国ある以上、日本は大挙なる手を朝鮮に下すことが出来まいとして、爾来露国を以て日本を制する外交方針を採つた。
 かくして欧米の東亜侵略に対して相結んで共同戦線を、張らねばならぬ日支両国は、清朝政治家の愚かなる政策によつて、互に敵国とならねばならなかった。

 かかる間に朝鮮宮廷の紊乱と政治の腐敗とは、年と共に甚だしきを加へた。悪政の極まるとごろ、両道の各地に乱民蜂起し、東学党の道主崔時亨、之に乗じて全羅道古阜に義旗を掲げ、同道泰仁郡の郷士全琫準之に参加して党軍を指揮するや、所在の民之に呼応して起ち、忽ちにして一個の偉大なる勢力となつた。
 崔時亨の党員を率ゐて起つや、党員は等しく頭に白布を被り、手に黄色旗を携へ、 『一、弗殺人、弗傷物。 二、忠孝双全、済世安民。 三、逐滅夷倭、澄清聖道一。 四、駆兵人京、尽滅権貴、大振綱紀 立名定分、以従聖訓』 といふ綱領の下に与党を糾合し、且次の如き悲愴なる詩を高唱して民衆の感情に訴へた。

  金樽美酒千人血  玉盤佳肴万姓膏
  燭涙落時民涙落  歌声高処怨声高  

 東学党の勢は次第に猖獗を極め、先鋒を京畿道方面に進め、全羅道の首府全州を陥れ、やがて鶏林八道を風靡するの概を示した。討伐に向へる兵800は忽ち撃破せられ、御営訓練の官兵も、武器を投じて党軍に降るに至つた。
 朝鮮政府は自国の軍隊をのみを以てしては東学党軍に抗し難きを見、遂に清国に向つて救援軍の派遣を求め、明治27年6月8日、清兵は牙山に上陸した。

 先是(これよりさき)金玉均横死の報ひとたび伝はるや、金の旧知は各所に相会して其の善後策を講ずると共に、清国の無礼を痛撃して討清の叫びを揚ぐるに至つた。東京に於ける金玉均葬儀の翌日、玄洋社の的野半介は、陸奥外相を訪問して、金に対する清国政府の処置は断じて許し難いと激語して、開戦の急務を強調したが、陸奥は時期尚早として取合はなかつた。
 依つて参謀次長川上操六中将に紹介を求め、直ちに将軍を私邸に訪問して来意を述べると、将軍は 『自分としては貴意に賛成であるが、伊藤首相が非戦論であるから如何ともし難い、但し軍人は火消のやうなもの故、誰か付火をする者があつて火の手が挙がりさへすれば、喜んで火消の任務に服する 』 と答へた。
 的野は将軍の一言に勇躍し、之を頭山翁及び平岡浩太 
 

 [注記。二〇〇字原稿一枚紛失] 

 東亜侵略に対する日本の第一次反撃であり、欧羅巴侵略の手先となりし支那への武力的抗議に外ならなかつた。

 戦争は日本の大勝に終り、李鴻章が講和のために来航したが、其時のことを陸奥宗光は蹇々録(けんけんろく)の中に下の如く述べて居る―― 『既にして李鴻章来航し、馬関春帆楼頭に彼我会見するや、李は開口先づ説いて日く、今日東洋諸国が西洋諸国に対する位置如何を洞知し得るは、天下誰か伊藤伯の右に在るものあらんや、西洋の大潮は日夕我東方に向ひ流注し来る、是れ実に吾人協力同心して之を防制するの策を講じ、黄色人種結合して白晳(はくせき)人種に対抗するの戒備を怠るべからざるの秋に非ずや、今回の戦争は実に両個の好結果を収めたり、其一は日本が欧州流の海陸軍組織を利用し其成功顕著なりしは、以て黄色人種も亦確に白晳人種に対し一歩も譲るなきの実証を示し、
 其二は今回の戦争に依り清国は長夜の睡夢を撹破(こうは)せられたるの僥倖あり、是れ実に日本が清国の自奮を促し、以て清国将来の進歩を助くるものにして、其利益洪大なり、余は実に日本に対し感荷(かんか)する多し云々。其談論を約略すれば、彼は荐に我国の改革進歩を羨慕し、伊藤総理の功績を賛美し、又東西両洋の形勢を論じ、間々好罵冷評を加へて、戦敗者屈辱の地位を掩はんとす。余は之に対し、其老猾(かつ)却て敬愛すべく、流石に清国当世の第一人物なりと感じたり。』 


 日清戦争が欧羅巴の東亜侵略に対する日本の反撃である以上、
三国千渉は当然来るべくして来たのである。而して其の誘引者が 『黄色人種結合して自皙人種に対抗するの戒備』 の必要を伊藤・陸奥に力説し、其舌の根未だ乾かざる李鴻章なりしは、誠に驚くべきことである。
 而も一層驚くべきことは、東洋平和の名によつて露・仏・独三国を日本に干渉せしめながら、日本より奪回せる遼東半島をロシアに与ふる密約の締結者李鴻章・張蔭桓の両人が、ロシア政府の手よりそれぞれ50万金ルーブル及び25万金ルーブルの賄賂を受取つたといふ事実が、後年ウィッテの 『回想録』 によつて暴露されたことである。恐らくロシアは此時初めて支那政治家を買収したのではなからう。

  愛琿条約によつて黒龍江以北の広大なる地域を獲得せる時も、また北京条約によつて烏蘇里江東・黒龍江南、即ち今日の沿海州を獲得した時も、多額の贈賄が行はれたことであらう。
  単りロシアのみならず、其他の列強もロシアと同一手段を用ゐなかつたと誰が保証し得るか。イギリスと緬旬国境条約を結ぶ時も、フランスと南方国境条約を結ぶ時も、恐らく同様の醜悪なる取引が行はれたことであらう。清朝末期の政治家が、欧羅巴列強の贈賄を受けて自国の領土並に権利を売り、欧羅巴勢力を東亜の天地に誘導し来れることは、如何なる弁護をも許さぬ政治的罪悪である。

 三国干渉は是くの如き支那の不純なる動機によつて誘致されたものである。従つて此事は、日本に対してよりも一層大なる禍を支那に与へた。そは日本にとりては一時的退却であつたが、支那にとりてはロシア其他の強国によつて、領土分割の楔を打込まれたに等しかつた。
 日清戦争に於ける敗北によつて、支那の無力と腐敗とを確実に知り得た列強は、最早支那に対して如何なる遠慮をもしなくなつた。
 当時は年少の陸軍大尉、後に西蔵遠征によつて其名を知られたる英国軍人ヤングハズバンドは、支那は土地広く物資豊かに、而も人間の住むに好適なる温帯に位して居る、是くの如き地域を一個の民族の占有に委ねることは神意に背くと公言した。
 而して列強のうちロシアが、最も露骨なる野心を抱き、常に満州に占拠して支那本部への侵攻を意図せるのみならず、朝鮮手島を奪取して直ちに吾が日本を脅威せんとしたので、日露鞭争は必至の勢となつた。 

 当時日本の政界に於ける最有力者は伊藤博文であつた。然るに伊藤は平和主義者であり且親露主義者であつたので、仕野の志土は常に之を憾みとして居た。
 明治33年義和団事件の際に、ロシアは突如日本に向つて重大なる提議をしたが、その内容は朝鮮大同江を境界とし、大同江以南を日本の出兵区域、以北をロシアの出兵区域と定めんとするものし、取りも直さず朝鮮を日露両国で分割し、満州を完全にロンアの手中に収めんとするものであつた。
 此の提議は露国公便ローゼンが、当時勅命によつて外交上の最高顧問であり、その権力は外相の上に在りし伊藤博文に対して、非公式に申込み来りしものである。
 伊藤は内心此の提議に賛意を表し、政府をして之を正式の交渉に移さしめんとしたが、政府部内に反対ありしため外部に洩れた。而して伊藤の意を受けたる一部政界の者は、公然満韓交換論を唱へ、ロシアに満州を与へて吾は朝鮮を手中に収め、以て東亜の安定を図るべしと主張した。

 此の満韓交換論に対して最も激しく反対したのは、近衛篤麿・島尾小弥太・根津一及び頭山翁の一団であり、各自手を別けて要路を訪問し、断乎ロシアの提議を拒絶すべしと進言した。
 伊藤に対しては先づ島尾小弥太が朝鮮分割の不可なる所以を説いたが、更に頭山翁も伊藤に面会して峻烈なる警告を与へた。この猛烈なる運動によつてロシアの提議は遂に拒否せらるるに至つだが、明治三13年9月、山県内閣辞職して伊藤内閣成るや、此の運動を共にせる同志は、政府の対外政策に反対を表明し、清国保全・韓国扶植の二大綱領を掲げて国民同盟会を組織したので、天下翕然(きゅうぜん)として之に応じた。
 明治34年6月、伊藤内閣辞して桂内閣となり、翌25年2月日英同盟の成立あり、ロシアも之に憚りて同年四月に至り満州撤兵条約を発表したので、国民同盟会は一旦解散した。

 然るに国民同盟会解散後幾くもなくして十二箇条より成る露清密約が締結せられたることが知られ、
且 第二撤兵期に至りてもロシアは満州よりの撤兵を実行しなかつたので、国論まだ沸騰したので、明治36年7月、頭山翁を初め、神鞭知常・佐々友房・河野廣中・小川平吉・大竹貫一等が発起者となり、対露同志会を組織して対露国論の喚起に努めることとなつた。
 同志会内には実行委員を設け、 『今後当局者尚断ずる能はず、愈々大事を誤るの恐れありと認むる場合は、実行委員は帝国臣民の権能上、為し得る限りの手段を取り、目的を貫徹するに努むべし』 と定め、猛烈なる開戦促進運動を開始した。

 在野志士の眼に映じたる非戦論の巨頭は伊藤博文であつた。主戦論の急先鋒たる玄洋社の如き、最も伊藤の言動に注目し、社員浦上正孝は身を挺して伊藤を血祭に上げんと覚悟を決めたが、頭山翁の慰撫によつて鑱(わずか)に志を翻したほどであつた。
  かくて有志の間には、桂内閣を倒して近衛篤麿を首班とする露国膺懲内閣を作り、頭山翁・佐々友房・小村寿太郎・神鞭知常等を閣僚とし、対露開戦を決行せしめんと図る者あるに至つた。
  対露同志会の幹部は、在朝の大官を歴訪して開戦の決意を促したが、一日頭山翁・河野廣中・佐々友房・神鞭知常が打連れて枢密院議長官舎に伊藤を訪問した。

 頭山翁の回顧談に曰く 『私は不精者で、40頃まで袴を穿いたことが殆どなかつた。褌もないのだから、居ずまひを悪くすると剣呑なことちやつた。それで大臣だらうが総理だらうが、遠慮なく訪問する。日露戦争の前のことぢや、神鞭其他四五人打揃うて伊藤博文を訪問した時も、矢張り袴なしで出懸けたのちや。
 2度目の訪問の折、神鞭が気にして、伊藤さんへ出る時ばかりは袴を着けた方がよいでせうと言ふので、私は始めて袴を穿いて訪問したのちや。帰る時振返ると、神鞭は窮屈そうに洋服を着てシルクハットを被つて居る。僕は一生そんな物は被らんぞ、と言つて笑つたのちや。
 日露戦争の時は、今日米国に対する以上に、政府の連中が露国を恐れて居つた。私は直覚で露国は恐るるに足らずと感じて居た。それで若し伊藤が戦争を恐れるといふなら、先づ之を斬つて後露国と戦ふつもりであつた。』

 

 此時の訪問に際し、無口を以て知られたる頭山翁が、真先に口を切り、対露開戦の止むべからざる所以を力強く説いた。然るに伊藤は、事は外交の機密に属するを以て、意見を陳べ難いと、答弁を拒絶した。翁は外交の秘密に属することは勿論であるが、対露問題は政府独り私すべぎ問題でない、国民として政府の対露方針を聞きたいといふのは当然であるとして、飽迄伊藤の返答を促した。神鞭は一座の空気が甚だしく緊張せるを見て、温言を以て諄々(じゅんじゅん)と伊藤の考慮を求めたが、神鞭の言終るや、頭山翁は椅子を進めて伊藤に向ひ、 『伊藤さん、あなたは今日本で誰が一番偉いと思ひますか』 と問ふた。此の唐突にして意外なる質問に対し、伊藤は直ちに答へることが出来ず、暫く躊躇して居ると、翁は粛然として 『畏れながらそれは天皇陛下に渡らせられるでせう』 と言つたので、伊藤は再び度胆を抜かれた。

 翁は更に 『次には大臣中で誰が一番偉いと思ひますか』 と質問し、黙して翁の顔を見守る伊藤に 『それはあなたでせう』 と言ひ放ち、辞色厲しく 『そのあなたが此際確かりして下らんと困りますぞ』 と言つた。
 伊藤は翁の気晩に圧され、漸く胸襟を開いて翁等と談じ、遂に 『諸君の意の在るところは、伊藤が確かに引受けた』 と言明した。翁は之を聞いて 『それだけ承れば満足である』 と、一行を促して辞去した。
 此の会見は日露開戦に極めて重大なる意義を有し、政府の対露方針は殆ど之によつて確定したとまで言はれた。
 次で頭山翁は桂首相にも会見したが、桂はロシアに対して満韓交換などは絶対に行はぬといふ意図を明言し、且従来は国家の大方針が定まらぬために苦労したが、今度は確定したと言つたので、翁も大に満足した。
 かくして翌明治37年2月、欧羅巴の東亜侵略に対する日本の第二次反撃たる日露戦争の勃発を見るに至つた。

      (未完)


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