日本人の ”戦い”

激動する時代の日本に多大な影響を与えた人物の思索をたどる。

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日米戦争の経緯 東條英樹 「宣誓供述書」(全文) その15 十一月五日の御前會議  

2016-12-24 15:19:54 | 東條英機

              パル判事の碑文 (靖国神社)

十一月五日の御前會議  
 

 

九二

 

 以上は千九百四十一年(昭和十六年)十一月五日の御前会議に至る迄の間に於て開かれたる政府と統帥部との連絡会議及軍事参議官会議で為された協議の経過並に結果であります。十一月五日には右の案を議題として御前会議が開かれました。ここで申上げますが、私が千九百四十六年(昭和二十一年)三月十二日検事より質問を受けた際答へましたことは、(法廷証第一一五八号に於て)此の御前会議と十二月一日の御前会議とを混同して答へて居ります。それは記憶の錯覚でありまして、此の答は本日の供述に抵触する限度に於ては訂正を要します。

 

九三

 

 元来この種の御前会議は政府と統帥部の調整を図ることを目的として居るのであります。日本の制度に於ては、政府と統帥部は全然独立して居りますから、斯の如き調整方策が必要となつて来るものであります。此の会議には予め議長と言ふものはありません。その都度陛下の御許しを得て首相が議事を主宰するを例と致します。此の会議で決定したことは、その国務に関する限りは更に之を閣議にかけて決定いたします。
 又統帥に関することは統帥部に持ち帰り、必要な手続きをとるのであります。斯くの如くして後、政府並びに統帥部は別々に天皇陛下の御允裁を乞府のであります。従って憲法上の責任の所在は国務に関することは内閣、統帥に関することは統帥部が各々別々に責任を負ひ其の実行に当るのであります。又幹事として局長なり書記官長が出席しますが、之は責任者ではありません。

 御前会議及び連絡会議の性質は及び内容は右の如くでありまして政府及び統帥部の任務遂行上必要なる当然の会議であり検事側の観測しあるが如き共同謀議の機関とみるは、誣言(注、フゲン、無いことをあるように言うこと)であります。

 

 

九四

 

 十一月五日の御前会議に於ては陛下の御許しを得て慣例により私が会議の進行の任に当たりました。此の会議に於ては私より此の会議を必要とするに至った理由を説明し、外務大臣より日米交渉を中心とする外交問題を説明し、大蔵大臣よりは戦争に伴ふ日本の財政に関し企画院総裁より戦争に伴ふ国内物資の見通しに関し、又参謀総長及軍令部総長よりは作戦に関する説明がありそれから質疑応答に入り、原枢密院議長より若干の質問が有り、之に対し、政府及び統帥部の関係者より夫々答を致しましたが、詳細は今、記憶に存しません。結局、連絡会議で取纏めました第三案と之に引用せれた対米交渉要領とを採用可決したのであります。

  

九五

 

 ただ、ここに陳述しておかねばならぬことは、当時の連絡会議並に御前会議に於て斯くの如く決議を必要なりと判断するに至った原因たる事由であります(弁護側証第二九二三)

(一)当時国外より齎された情報(これらの情報は当時大本営、外務省等より得たるものを記憶を喚起し蒐録したものであります)に依れば米英蘭支の我国に対する軍事的経済的圧迫は益々緊迫の度を加ふるのみならず、此等の勢力の間の協力関係は益々緊密となる傾きが極めて顕著に観取せられました。例へば千九百四十一年(昭和十六年)八月下旬より「ルーズヴェルト」大統領の東亜経済使節として「マニラ」に滞在した「グレーディ」氏は九月初に空路「バタビヤ」に飛び蘭印経済相「ファンモーク」氏と会談、更に「シンガポール」に飛び九月半頃には「カルカッタ」に着、更に十月初には「ラングーン」に引き返し、それより重慶に入り香港を経て「マニラ」に着し、十月半頃本国への帰途について居ります。

 それとは別に英の「ダフ・クーパー」氏は九月初頃「マニラ」に着し、「バタビヤ」を経て「シンガポール」に至りここにて九月二十一日「カー」英国大使と会見しました。
 九月二十九日には、「シンガポール」にて「イギリス」極東会議が開かれ右「ダフ・クーパー」氏は「ブルックボッパム」、「レイトン」、「クロスビー」、「カー」、「ページ」、「トーマス」マレイ総督等と会見しました。
「ダフ・クーパー」氏は十月初には「シンガポール」を経ち空路印度への途上バンコクにて「ピブン」首相と会見し更に「ラングーン」に至り「カルカッタ」に到着して居ります。


千九百四十一年(昭和十六年)八月下旬には「ルーズヴェルト」大統領は「マグルーダ」准将を団長とする軍事使節を重慶に派遣する旨言明しましたが、此の使節団は十月初「マニラ」に着、そこにて所要の打合を為し、香港に至り同地に開かれた香港会議に出席したる後、その一行は十月九日香港より重慶に乗込み「我等来支の目的は」重慶を援けて抗戦を継続せしむるにある。
 今後重慶を本拠として各地に歴訪し任務遂行の実現を急ぐつもりである。勿論「ラングーン」をも訪問、「ビルマルート」による武器軍需品の輸送能率増大に大いに力を注ぐ」旨豪語したとの情報に接しております。

千九百四十一年(昭和十六年)十月初米英の軍事首脳者は「マニラ」に会合しました。その当時の情報に依れば此の会議では世界的関連を有する太平洋の諸問題につき専門的なる意見の交換を為し、且つ其の戦略態勢を検討したものとされて居りました。会合した者は英の東亜軍指揮官「ボッパム」代将、米の東亜軍総司令官「マックアーサー」将軍などであり、

(1)「ビルマルート」を通じて行われる米英共同の蒋介石援助問題 

(2)西南支那の重慶軍と「ビルマ」方面に増派されつつある英軍との共同作戦計画

(3)太平洋に於る米英共同作戦の強化、殊に空軍作戦計画などを協議したと報ぜられました。

 千九百四十一年(昭和十六年)九月下旬「レートン」英東亜艦隊司令官は「シンガポール」軍港を「アメリカ」の要求あり次第米豪軍の使用に供する旨発表したとの報道に接しました。十月中には「ニューマイヤー」氏は「シンガポール」より空路「マニラ」に着して居ります。
 一方「ブルック・ボッパム」「イギリス」極東軍司令官は十月中旬には「シンガポールを」発し、豪州に向ひました。「カーチン」首相は十月下旬には太平洋共同戦線交渉が米、英、蘭、「ニュージーランド」豪州間に完了せる旨発表致しました。

 以上各情報に依り当時米英蘭支の間に日本を対象とする軍事的、経済的連鎖が緊密に行はれ所謂一発触発の状況にあったものと判断せられました。

(二)而も依然として米英豪其の他の陸海空軍の大拡張が継続せられつつあるとの情報が入って来て居ります。即ち米国海軍省では千九百四十年(昭和十五年)一月以降七十二億三千四百万弗を以て艦艇二千八百三十一隻の建造契約成り現在九百六十八隻を建造中なる旨を発表しました。
 なお千九百四十一年(昭和十六年)十月下旬には「ノックス」海軍長官は米海軍の建造状況に関し
(イ)就役せる戦闘用艦船三百四十六隻
(ロ)同建造中乃至契約済三百四十五隻
(ハ)就役せる補助艦艇約三百四十五隻
(二)建造中乃至契約済二百九隻

(ホ)十月一日現在在海軍飛行機四千三十五機
(へ)同製造中のもの五千八百三十二機なる旨発表いたしまた。

 「ルーズヴェルト」大統領は十一月初に飛行機製造費四億四千九百七十二万弗を要求したと報ぜられました。

 「スチムソン」陸軍長官は十月下旬に航空士官候補生及徴集兵を約三倍、即ち四十万人に増員方準備中なる旨発表しました。

 

一方豪州「カーチン」首相は欧州戦争開始以来四十五万人の兵が入営した旨発表しました。
 比島では比島陸軍参謀総長は其の現役兵の除隊中止を発表しました。同じく十月下旬には比島空軍新司令官「ブリヤーン」少将は華府発「マニラ」に向かったと報ぜられました。 

千九百四十一年(昭和十六年)九月中旬には「ルーズヴェルト」大統領は国防促進法に基づく五十九億八千五百万弗の追加予算の審議を求むる教書を議会に発付し、引続き一億五千十九萬八千弗の国防費追加予算案を米国議会に提出したのであります。

 以上の事実等により米国は引続き陸海空軍の飛躍的大拡張を計画しつつあることが窺われました。

(三)前述の連絡会議及び御前会議の前に於ては米国の首脳者の言動は益々挑発的となって来たのであります。即ち九月下旬には「ハル」国務長官は政府は中立法の改正若くは廃止を考慮中なりと言ひ「ノックス」海軍長官は戦艦「マサーセッツ」号進水式に際し、中立法は次代遅れであると言明したと報ぜられました。又同長官は十月下旬に日米衝突は日本が現政策を変更せざる限り不可避なる旨言明いたしたといふことであります。


(四)以上の外更に次のようなことが判明して来たのであります。
(1)即ち印度政府は同年九月十二日以降日本より積出す綿布人絹等織物類の輸入許可を取消したこと。

(2)同年十月二十九日には印度政庁は一切日満両国の商品の輸入禁止を布告しました。斯くの如く連合国側の対日圧迫は益々露骨となつて来たのであります。斯くの如き状況の下に十月下旬以来の連絡会議並に十一月五日の御前会議の決定が行われたのであります。

 

九六

 

 前述御前会議の決定に基き十一月十二日の連絡会議に於ては之に基く対外措置を決定しました。その内容は法廷証第一一六九号のとおりであります。(記録一〇三三三以下、但し此の中一〇三三八の十四行より一〇三四〇の末行は此の決定には含まれて居りません。)一歩陸軍側に於ては十一月六日には寺内大将を南方総司令官に任命し統帥部に於ては南方の戦闘序列を決定し、同日南方要域攻略の準備命令を下達し尚ほ統帥部は同月十五日には対米英作戦計画大綱を決定しました。(弁護側証二七二六) 

 無論是等は仮定に基いて統帥部の為した準備行為に準備行為に過ぎません。私は陸軍大臣樽資格に於て之を承知して居りますが、他の閣僚は右統帥部の採りたる措置は一切知っては居りません。海軍統帥部は此の間何を為したるかは承知致しません。

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