日本人の ”戦い”

激動する時代の日本に多大な影響を与えた人物の思索をたどる。

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日米戦争の経緯 東條英樹 「宣誓供述書」(全文) その19 十二月一日の御前会議終了から開戦に至る迄の重要事項   

2017-01-03 21:32:06 | 東條英機

                            パル判事の碑文 (靖国神社)


東條英機 宣誓供述書 


               東條英機 
(ウィキペディア)


十二月一日の御前会議終了から開戦に至る迄の重要事項 

 

一一八 

一九四一年(昭和十六年)十二月一日の御前会議に於て開戦決定を見たる上に開戦に至る迄の間の重要事項は(一)開戦実施の準備と(二)之に関する国務の遂行との二つであります。前者は大本営陸海軍統帥部に於て行われるものであつて政府としては此のような統帥事項の責任には任じないのであります。

 唯統帥の必要上の軍事行政の面に於て措置せることを必要とするものがあります。此のことに関しては私は陸軍大臣として在任期間に於ける其の行政上の責に任じます。但し海軍の事については自分は陸軍大臣としては勿論総理大臣としても之に関興致しません。陸軍参謀本部条例(証第七八号)海軍軍令部令(証第七九号)に重ねて貴裁判所の御注意を煩わすものであります。右に拠れば参謀総長は各軍の統帥に関し政府と独立して補翼の責めに任ずることとなつて居ります。これが日本特有の統帥権独立の理論であり又基本的の制度であります。即ち作戦葉柄の計画実施、換言すれば統帥部のことについては行政府は関与出来ず、従って責任も負ひませぬ。唯各省大臣の内陸海軍大臣は輔弼の参画者たる身分に於て他の各省大臣とは違った所があります。即ち作戦の方から惹いて関係をもって来るところの行政(軍事行政)並に人事に関しては之に関与致します。

此の場合でも作戦の実体である作戦計画の決定や作戦計画の実施には参与致しません。唯陸海軍大臣は作戦計画に関しては陛下に上奏して御裁可を受けた後にその通報を受けるのです。此のことに関しては証人石原完爾が述べたところが正しいのであります。(法廷記録二二一五四三号)

 尚ほ統帥部の問題に触れたこの機会に於て、一九四六年(昭和二十一年)三月十四日検事の取調に対する私の陳述中法廷に証拠として提出せられある法廷証第一九七九号Aは私の當時述べました意思を明確に表しておりませんから、茲に左の数点を明らかに致して置きたひと思ひます。

(イ)大本営の構成人員は主として、参謀本部及陸海軍令部の職員より成り、一部は陸、海軍省の職員(陸、海軍大臣以外の)が兼職して居ります。而して大本営陸軍部、同海軍部に分かれて居りますが参謀総長及海軍軍令部総長が之をそれぞれ統率して居るのであります。

(ロ)陸海軍大臣は、前記法廷証に於ても述べた如く本来大本営構成の一員ではありませぬが、所要の随員を従へて、大本営の議に列すと規定されて居ります。これは陸軍大臣として統帥に関係を有する軍事行政を敏速に処理するためであります。而して私の陸軍大臣在任中大本営の議に列したことは一回もありませんでした。又陸軍大臣は統帥部の決定には参画出来ず、其の最後的決定後通報を受くるのであります。(弁護側証二九四二)

(ハ)天皇陛下御出席の下行ふ、真の大本営会議なるものは私の陸軍大臣在任中一回も開催されたことは、ありませんでした。

 右法廷証に於て述べた会議は、実は陸海軍の情報交換の会議を指したのであり、所謂大本営会議ではありませんでした。

 

一一九 

 十二月一日以後開戦までは縷々連絡会議を開きました。そして此間に作戦実施準備と国務につき重要なる関係を有する諸事項を決定しましたが、そのうち重なものは次の通りであったと記憶して居ります。これ等は本節冒頭で述べました統帥以外のことであり、国務と統帥との両者の間に協定を遂げたものであります。

(一)対米通告とその米国への手交の時期の決定

(二)今後の戦争指導の要領の決定

(三)占領地行政実施要領の決定

(四)戦争開始に伴ふ対外措置の実行

(五)宣戦詔勅の決定 

 

一二〇 対米通告と米国政府への手交時期の決定――
 

日本政府は一九四一年(昭和十六年)十二月八日(日本時間)米国政府に対し、駐米野村大使に対して帝国が外交交渉を断絶し戦争を決意せる主旨の通告を交付せしめました。その文言は法廷証第一二四五号のKの通りであります。そうして此の通告に対する外交上の取扱は外務省の責任に於てせられたのであります。

 これより先一九四一年(昭和十六年)十一月二十七日の連絡会議に於て同月二十六日のアメリカの最後通牒と認められたる「ハルノート」に対する態度を定めたことは既に述べました。之に基き東郷外相より私の記憶に依れば十二月四日の連絡会議に於て我国より発すべき通告文の提案があったのであります。之に対し全員異議なく承認し且つその取扱に付には概ね次のような合意に達したと記憶します。

A、右外交上の手続は外務大臣に一任する。 

B、右通告は国際法によ依る戦争の通告通告として米国政府に手交後に於ては日本は行動の自由をとり得ること。

C,  米国政府への手交は必ず攻撃実施前に為すべきこと。此の手交は野村大使より米国政府責任者へ手交すること。駐日米国大使に対しては攻撃実行後に於て之を通告する。

 通告の交付は攻撃の開始前に之を為すことは豫て天皇陛下より私及両総長に屢々御指示があり、思召は之を連絡会議関係者に伝へ連絡会議出席者は皆之を了承して居りました。

D、通告の米国政府に対する手交の時間は外相と両総長との間に相談の上之を決定すること蓋し外交上、作戦上機微なる関係がありましたからであります。

 真珠湾その他の攻撃作戦計画及作戦行動わけても攻撃開始の時間は大本営に於ては極秘として一切之を開示しません。従って連絡会議出席者でも陸海軍大臣以外の閣僚等は全然之を知りません。

私は陸軍大臣として参謀総長より極秘に之を知らされて居りましたが、他の閣僚は知らないのであります。私の検事に対する供述中法廷証第一二〇二号のAとして提出してある部分に真珠湾攻撃の日時を東郷外務大臣及鈴木企画院総裁が知つて居つたと述べているのは全く錯覚であります。之はここに訂正いたします。

 私の記憶によれば一九四一年(昭和十六年)十二月五日の閣議に於て対米最終通告につき東郷外務大臣よりその骨子の説明がありました。全員は之を了承しました。

 日本政府に於ては十二月六日に野村大使に対し慎重廟議を盡したる結果、対米覚書を決定したこと又この覚書を米国に提示する時期は追て電報すべきこと、並に覚書接到の上は何時にても米国に交付し得るよう文書整備其の他豫め万般の手配を了し置くよう外相より訓電せられて居ります。詳細は山本熊一氏の証言せる如くであります。(英文記録第一〇六九七頁)その上右覚書本文を打電したのであります。翌十二月七日にはその覚書は正確に「ワシントン」時間午後一時を期し米側に(可成、国務長官に)野村大使より直接に交付すべき旨訓電して居ります。

 要するに対米通告の交付については日本政府に於ては真珠湾攻撃前に之を為す意思を有し且つ此の意思に基き行動したのであります。而して私は當時其の交付は野村大使に依り外相の指示に基き指定の時間に正しく手交せられたものと確信して居りました。蓋し斯の如き極めて重大なる責任事項の実行については出先の使臣に完全なる正確さをもつて事を當るといふことは何人も曾て之を疑わず、全然之に信頼して居るのは当然であります。然るに事実はその手交が遅延したること、後日に至り承知し日本政府としては極めて之を遺憾に感じました。

 対米最終報告の内容取扱については外務當局に於て国際法及国際条約に照し慎重審議を盡して取扱つたものであつて、連絡会議、閣議とも全く之を信頼して居りました。

 

一二一、 今後の戦争指導要領の決定

 今は確実なる日時は記憶して致しませんが連絡会議に於て戦争の指導につき次の合意に達しました。但し此の内の一部は十二月一日以前の連絡会議に於て準備のため定めたものもありますが説明の便宜のためここに併記致します。

A,対米英開戦の後、先ず政戦両略を盡して「イギリス」及重慶の脱落を図ること。

B、統帥部の企画せる計画に基き速に「フィリピン」英領「マレー」蘭領東印度の各要域、南部「ビルマ」等の要域を戡定す。此の要域の確保により自給体制の基礎を確立する。且つ北方情勢の変化に応ずる体制を整 ふ。統帥部に於ては之に要する期間を五か月と概定する。爾後の作戦実施はその時の状況、殊に主として海戦の結果に依る。

C、宣戦布告は最初は米英に止め、蘭印に対しては宣戦せず。武力行使を必要とするに至り戦争状態の存在を布告する。然し開戦と共に和蘭に対しては之を準敵国として取扱ひ諸般の処置をとる。

D、支那事変を急速に解決するとの従来の方針に変化なし。開戦と共に香港を攻略する。天津英租界、上海共同租界、その他在支敵国権益を処理する。

E、「ソ」聯に対しては中立条約を尊重して北方静謐保持の従来の政策を堅持すると共に 、米「ソ」提携に付き厳に警戒す。

F、日本軍の泰國進駐直前泰國に対し日本軍の通過容認等の要求を為すことに決す。

G、満州國及南京政府に対しては帝国は参戦を希望せず。友好協力のみを期待する。

H、獨、伊とは単独不講和条約を締結すること――獨伊との単独不講和条約締結の交渉は一九四一年(昭和十六年)十一月二十九日獨伊に対して対米交渉の不調を告げると共にその申入をしました。然し、開戦の日時に関しては開戦迄は何等通報は致しません。そして此の条約の締結を見たのは開戦後、即ち十二月十一日であります。従って獨伊との間に開戦前緊密なる提携は遂に為されず、日本の開戦決意は獨伊の態度如何に拘らず、独自の立場に於て真に自存自衛のため止むを得ざるに至ったため決意せられたものであります。

I,開戦時期は之を秘匿す。

J、十二月一日の決定に基く開戦準備行動の間に十二月八日迄にもし日米交渉妥結すれば開戦準備行動は之を中止する。

 開戦の始に於ては真珠湾の攻略は専ら大本営海軍部が之に任じ、自分は之に関知しませんでした。但しその政治的関係については後に述べます。

 十二月一日大本営陸軍統帥部に於ては南方総軍司令官、支那派遣軍総司令官並に南海支隊長に対し開戦準備命令が下達せられました。右と同時に開戦に至る間に日米交渉妥結せば随時その行動を中止すべきことが示されて居ります。統帥部に関することは私の責任ではありません。従って之については述べることは出来ません。(弁護側証第二九四七号)

 

一二二 占領地行政について陳述致します。

 

(一)作戦準備の一つとして私の記憶によれば十一月二十日の連絡会議に於て南方占領地行政実施要領(証八七七)を決定したのであります。十二月一日開戦準備の行動開始の統帥命令を大本営より発せらるる際同時に之を示達されたと記憶致します。

(二)占領地行政実施要領を定るに當り基礎となりたる當時の考へ方は作戦の進展に基き次の如き着意の下に占領地行政を行はしめるものであります。

 (A)占領地に対しては差當り軍政を行ふ。その占領地行政は作戦軍の任務として行は占める。

(B)現地の政治状態の許す限り、可成速かに従来の歴史的地域を考へ、独立乃至自治を與へ可成早く軍政を実施する。此等の独立乃至自治地区は帝国の意図する大東亜共栄圏建設の趣旨に協調せしめ状況の許す限り戦争に協力せしむ。

(三)南方占領地行政実施要領は法廷証第八七七号の如くでありまして其要点は、

(A)占領地域内治安の回復、民生の安定

(B)重要国防資源の急速取得

(C)作戦軍の現地自治の確保

その実施に當り特に注意せしむることは次の如くでありました。

(A)残存統治機関の利用、従来の組織、民族的風俗、習慣の尊重、宗教の自由

(B)土地在住の外国人は軍政に協力せしむ。之に応ぜざる者はやむ得ず退去せしむ。

(C)華僑に対しては蒋政権より分離し、我施策に協力せしむ。

(D)新たに進出すべき邦人の厳選 

 

一二三 戦争に伴う対外措置につき陳述致します。

 

 和蘭に対しては前に述べし如く宣戦の布告をしません。一九四一年(昭和十六年)十二月十日に和蘭から我国に宣戦して来ました。我国に於ては千九百四二年(昭和十七年)一月十二日に至り同國との間に戦争状態に入ったことを宣戦したのであります。(法廷証第一万三千二百三十七頁)

 泰国に対する関係を述べます。千九百十一年(昭和十六年)十一月五日御前会議に於て次の如く定まるりました。即ち

「対米英蘭開戦のやむなき場合には泰國との間に軍事的緊密関係を設く」といふのであります。

(一)之に基き十一月二十三日の連絡会議に於て一応準備として決定せる日本軍が泰國通過直後、通達の容認と之に対する諸般の便宜供与並びに日泰両軍の衝突回避の措置を要求する。

(二)日本軍の進駐前に「イギリス」が泰領に進入する場合には日本は機を逸せず、駐泰大使に之を通報し、泰国と交渉したる後に進入する。

 

十二月一日の戦争準備開始決定後の要領を現地に通知して置き通過開始直前に之が実行を命じました。蓋し斯の如き方法をとりましたのは當時に於ける日泰間の特殊事情に依るものであります。然し乍ら此當時日本政府は泰國殊に「ピブン」首相の親日的態度に鑑みて之を信頼し、必ず右通過の交渉は円滑なる結果を得るものと確信して居りました。ただ過早なる要求をすると英国側に遺漏の虞あるためこれをしなかったのであります。駐泰日本大使は所命に基き泰國政府との交渉を進駐前に開始致しました。唯、偶々泰國首相旅行のため八日正午に協定書調印が出来たといふ経過であります。(法廷証三〇三五号)これより先、日本の陸軍は英軍の泰南部領土進入の報を受けました。

泰の南部海岸の限定地域に於ては日泰間に一部の衝突を見ましたが泰國政府の処置に依り八日午後三時迄に一切停止されたのであります。英軍の泰領進入は曾て「ワイルド」大佐が証言した通りであります。(英文記録五六九一頁、五六九二頁)私は當時既に其報を獲て居ります。仍て十二月十五日に開かれた第七十八回帝国議会に於ては木村陸軍次官は陸軍大臣たる私に代り「英国は久しきに亘り政戦両略を併用して泰國を強圧し、之をして反日戦線に導入すべく執拗なる策動を続けつつあったのでありますが、遂に七日の夜間に乗じ「マレー」国境を突破し、泰國南部に進入し来つたのであります。ここに於て我陸軍は海軍と共同致しまして、八日未明「マレー」半島の要衝に上陸を敢行したのであります」と述べたことを記憶しております。(弁護側証拠二七一〇号)

 

一二四 宣戦詔書の決定と其の布告、帝国は一九四一年(昭和16年)十二月八日開戦の第一日宣戦の詔書を布告しました。右詔書は法廷証第一二四〇号がそれであります。而して此詔書はその第一項に明示せられある如く、専ら国内を対象として発布せられたものであつて、国際法上の開戦の通告ではありません。

 

一二五 之より○(注、一文字、判読不明?)一九四一年(昭和十六年)十一月二十六日米国の「ハルノート」なる最後通牒を受取り開戦はもはや避くべからざるものなるを知るに及び、同年十一月二十九日頃の連絡会議に於て宣戦詔書の起草に着手すべきことを決定しましたと記憶します。十二月五日頃の閣議並に十二月六日頃の連絡会議に於て詔書草案を最終的に確定し十二月七日に上奏したものであります。
 尤も事の重大性に鑑み中間的に再三内奏致しました。その際に右文案に二つの点につき聖旨を体して内閣の責任に於て修正を致したことがあります。その一は第三項に「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端ヲ開クニ至る洵ニ己ムヲ得ザルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ」との句がありますが、これは私が陛下の御希望に依り修正したものであります。
 その二は十二月一日木戸内大臣を経て稲田書記官を通じ詔書の末尾を修正致しました。それまでの原案末尾には「皇道ノ大義ヲ中外ニ宣揚センコトヲ期ス」とありましたが、御希望に依り「帝国ノ光栄ヲ保全センコトヲ期ス」と改めたのであります。右二点は孰れも陛下の深慮のあらせらるるところを察するに足るものであります。(法廷証三三四〇号中二四〇節二四一節)

 右宣戦詔書発布の件は枢密院に御諮詢になりました。即ち十二月八日枢密院にて審議の後勅裁を経て同日午前十一時過ぎ内閣より発表せられたるものなりと記憶しております。枢密院に於る審議の概況は法廷証第一二四一号昭和十六年十二月八日枢密院審査委員会の筆記にある通りであります。此の枢密院審査委員会の筆記中私の説明として対米交渉は十二月一日の御前会議に於て対米英蘭開戦に決し従って爾後は作戦の関係より継続せしめたに過ぎざる旨の答弁を為したとの記事があります。
  又「オランダ」に対しては今後の作戦上の便宜を考へ敢えてここに宣戦布告を為さざる旨答弁を為したとの記事があります。しかし此等の記事は速記法に依ったものでなく唯私の申したことを書記官が要約して筆記したに過ぎません。従て私が當時述べたところの真意を盡して居りません。當時私の陳べた趣旨は次の如くであります。
 即ち対米英蘭開戦は十二月一日に決した。それ以後は専ら開戦準備行動に移ったのである。而してその間と雖も米国の反省に依る外交打開に一縷の望みをかけて居った。その妥結を見たならば作戦中止を考へ居つたが遂に開戦になつたこと。並びに「オランダ」に対しては開戦の當初、その攻撃を予期して居らず従って日本より好んで宣戦する必要はない。それであるから「オランダ」のことは此の詔書より除外したと述べたのであります。

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