日本人の ”戦い”

激動する時代の日本に多大な影響を与えた人物の思索をたどる。

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大川周明 『頭山 満と近代日本』(四) 玄洋社の設立

2017-01-25 16:17:06 | 大川周明


大川周明 『頭山 満と近代日本』 

 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 



    

 明治十三年春、頭山翁は再び土佐に遊び、板垣を初め立志社の諸同志と交りを温めた。その福岡に帰るや、箱田六輔・進藤喜平太・平岡浩太郎等と相図り、向陽義塾を改めて政治結社となし、名を玄洋社と命じて三条の憲則を定め、新たなる活動の準備を整へた。
 その憲章は下の如し。
 

 第一条 皇室を敬戴すべし
 第二条 本国を敬重すべし
 第三条 人民の権利を固守すべし

 右の条々各自の安全幸福を保全する基なれば熱望確護し子々孫々に伝へ、人類の世界に絶えざる間は決して之を換ふる事なかるべし。若し後世子孫之に背戻(はいれい)せば、純然たる日本人民の後昆(こうこん)に非ず矣(かな)。鳴呼 服膺(ふくよう)すべき哉。此憲則、集議可決す、長く玄洋社の骨髄なり。

 

 箱田・平岡・進藤及び翁の四人は玄洋社創立の元勲であり、前三一者は相次いで其の社長となつたが、いつれも抜群の人物であつた。箱田六輔は翁より長ずること五年、人参畑の興志塾以来の同志である。忠実にして剛直、非道の事は一歩も許さず、『邪を明かにする精神が極めて強かつた。もと箱田家は維新前後まで豪富を以て聞こえて居たが、箱田は悉く之を玄洋社のために散じて顧みなかつた。明治二十一年急病のために三一十九歳で長逝したが、若し健在して居たら、初期以来代議士に選ばれ、河野廣中・長谷場純孝・杉田定一等と伍すべき人物であつた。

 

 平岡浩太郎は、西南戦争の際に同志と共に兵を挙げて大西郷に呼応し、一敗地に塗るるや乱軍の問を縫ふて薩軍に投じ、諸方に転戦して勇名を馳せたる豪快なる男児で、博弁宏辞、才気換発、進むを知りて退くを知らず、頭山翁とは凡そ対蹠的なる性格であつた。進藤喜平太は醇情にして沈着、謹厳にして潔白、人呼んで『九州侍所別当』と言った。福岡を通じて徳望比肩する者なく、玄洋社長たること実に三十余年に及んだ。而して頭山翁自身は、幾度びか社長に推されたけれど、堅く之を辞退し、終始進藤を支持した。但し玄洋社の名をして天下に重からしめたのは、頭山翁の存在が最も与つて力ありしこと言ふまでもない。

 

 さて玄洋社の組織一応成るや、翁は此年五月始めて東京に上り、六月十一日東北一巡の旅に出た。下に掲ぐる書簡は、翁が越後より家郷に寄せたるものにして、翁の人間味を最も善く露呈せると同時に、その遊歴の状況を彷彿せしめるものである。

 秋冷相催し候処、益々御勝旺御暮し被在可く、大悦至極に奉り候。然れば奉別爾来既に半歳に跨(またが)る。渇想何ぞ堪へん。雨に逢ふては仁兄の鰻待ちを思ひ、井に臨んでは大慈父の風呂の水汲み給はんことを恐想し、雨に風に思を父兄に生ぜざるはなし。然り而して時々安否をも伺ひ奉らず、不孝不弟の罪、敢て一言謝罪の辞を知らず、誠に漸懼(ざんく)極点に御座候へども、何分御仁恕被下度、伏て奉恐願候。併し此度の遊歴にて、少しく道義の真味肺肝に感銘致し候へば、聊(いささ)か御慈育の鴻恩に違背仕らざる様、日夜 黽勉(びんべん)罷(まかり)在(あ)り候。憚りながら御憐察下さるべく候。十二月初旬には、多分帰県の心算に御生候。返す返す御自愛の之奉仰願候。恐惶謹言

                      十月一日     頭山 満

 

 左に聊(いささ)か経歴の景況を陳ず。

 六月十一日東京を発し、同十三日常陸の国土浦に至る。当地には知人有之候間、七八日滞在せり。当地には未だ格別の誓も無之と難も、奨弘館とか云へるものを設立し、之より追々盛大に及ぶの企てなり。夫れより下総小金ヶ原抔(注、たどのルビ)を遊覧し、又常陸水戸へ出づ。此地、先勇士の夢の跡のみにて、誠に寥々たる模様なり。
 夫れより平・三春・二本松・福島等を経て仙台に至る。塩釜より舟にて松島に遊べり。実に独歩の絶景なり。仙台には相応の結社杯も有之、夫れより盛岡・青森・弘前・秋田・酒田・庄内等を巡りて遂に当地に達せり。以土各地の景況は何れも大同小異なり。大体今日は各地同様にて、一瓶の氷を以て天下の寒を占ふに余りあり。時節も否塞極度に候へば、頓(やが)て堅氷大雪の後には、春日の好佳節と相成る可く候。私遊歴の模様、恰も水漂々たる如く、実に水滸伝水滸伝。

 

 頭山翁は此の旅行中に福岡に於て初めて河野廣中と相識つた。河野は前年東京に於て箱田六輔と会つた時、福岡第一等の人物は誰ぞと問へるに対して、箱田は言下に『頭山満』と答へたので、予てより翁の風貌を想像して居たが、愈々来訪を受けて会つて見れば、粗末な木綿着物一枚に紺木綿の兵児帯を締め、朴の木の足駄で雨傘一本提げて居るだけの無造作な身なりであるのに驚かされた。而も翁が一個月前後逗留して居る間に、河野を初め福岡の有志は、皆翁の輪廓の偉大なるに服するに至つた。

 

 翁は其後越後を経て越前に至り、杉田定一父子の経営せる自彊学舎に暫く足を停めた。杉田家は名高き越前坂井郡の豪農で、定一の父仙十郎の代に至り、傍ら酒造業を営んで居たが、息定一と図りて邸内に自彊学舎を設け、酒倉を塾舎に充て、青年の薫陶に従つて居たのである。杉田家に滞在中、翁は仙十郎の蔵書のうちから『和論語』一巻を発見し、熱心に之を読んだ。此書は痛く翁の心に会つたと見え、其中の重なる章句を晩年まで精確に暗誦して居た。

 

 頭山翁が諸国を行脚して人才を物色しつつありし間も、国会開設の建白と請願とは依然として続行されたが、此年十二月九日、政府は『人民の上書、一般の公益に関するものは、何等の名目を以てするに拘らず、渾(すべ)て建白となし、元老院に於て取扱ひ候条、管轄庁を経由して同院に差出すべし』と布告したので、今や請願は不可能となつた。而して建白として元老院に提出せるものは、唯だ参考として留め置かれるに過ぎなかつ定から、幾度差出しても矢を暗中に放つに等しく、何の手応へもなきに至つた。かくて翌明治十四年の前半は、前年の政界多事なりしと打つて変り、表面は無事なるが如く見えたが、七月に至りて北海道開拓使官有物払下事件が起り、民心一時に激動し、久しく蓄へたる在野の不平は、一斉に此の噴火口を借りて暴発するに至つた。

 

 明治政府は北海道開発の目的を以て、既に明治二年を以て開拓使を置き、年額約四十万円の経費を之に充てた。然るに黒田清隆が開拓使長官に任ぜらるるに及び、従来の定額金を廃し、明治五年以降ぼく十年間に一千万円を国庫より支出し、一切の開拓施設を開拓使に委任することにした。

 明治十四年は即ち予定の事業を完了する期であり、従つて従来開拓使が創設した幾多の事業と、之に附属する官有物とを処分すべきこととなつたのである。而して黒田開拓使長官は、此等の事業を政府に於て継続しても成績を挙げ難ぎを以て、之を民間に払下げて事業を継がしむるを有利なりとし、之を関酉貿易会社と称する一商社に払下げんとした。

 此の商社は、鹿児島人にして維新の際一時要路に立ち、後に辞職して大阪に居住せる巨商五代友厚及び旧山口県令にして同じく大阪に於て巨商の名を博したる長州人中野梧一が、開拓使の官吏四名と謀り、四名は辞職して野に下り、力を合せて設立せるものであり、明治二年以降十三年に至る間に、一千四百万円を投じて創設せる事業及び物件を、僅に三十万円、而も無利息三十ケ年賦を以て払下げんことを請願したのである。

 願書の提出されたのは七月二十一日であつたが、廟堂の大半は薩長二藩出身の人であるから、此の前古未曾有の不当なる請願に対して異議を唱ふる者なかつたけれど、独り大蔵卿大隈重信が痛烈に之に反対したので、即座に許可することが出来なかつた。時に陛下東北御巡幸の儀あり、七月二十九日車駕東京を発し給ひ、黒田・大隈之に陪従したが、官有物払下の件は未だ許可の沙汰なかつたので、一二参議は攣輿(らんよ)の後を追ひて千住駅に至り、強いて請ふて僅に勅許を得たのである。

 

 先是(これよりさき)民間の志士は頻りに自由民権を唱へて政府に迫つたが、未だ実際問題を捉へて政府を攻撃する機会を得なかつた。然るに此の払下事件は、最も露骨に薩長が国利民福を犠牲にして私利を営まんとする事実を天下に明示したものであるから、輿論は烈火の如く激昂し、苟(いやしく)も政治を論ずる新聞雑誌は一斉に其の不当を痛撃し、全国悉く之に和した。暫く鳴りを潜めたる国会開設要望の声は俄然また昂まつた。而して当時廟堂に於て参議中の最有[力]者なりし大隈が開拓使官有物払下に反対し、且輿論を誘ひて之に反対したことが、政府攻撃の火の手を弥(いや)が上に掲がらしめた。
 蓋し大隈は此機に乗じて薩長の専制を抑へんとしたもので、『小野梓伝』は此問の消息を下の如く伝へて居る――「開拓使官物払下の物議の起るや、大隈参議は大勢を端摩(しま)し、左大臣有栖川宮に就き、一夜密に座を請ひ謂ひて曰く、方今に処する善道は、速に国民の希望に従ひ、明年を以て憲法を制定し、十六年に於て国会を召集するに外ならず、然れども之を成すに先たち、断然藩閥の元老数名を斥け、新に民間の志士を入れて之を補ひ、茲に積年の宿弊を洗蕩(せんとう)するに非ずば、事容易に成し難し、則ち刻下人心の動揺は、終に収拾し難きに至らんと。而して私擬憲法・国会開設要目七十九条を記して、之を座右に献じたり。』

 

 かくて大隈は単り政府部内に於て官有物払下に反対したるのみならず、其の部下として養成したる沼間守一等の京浜毎日新聞、藤田茂吉等の郵便報知新聞、嶋田三郎・肥塚龍等の嚶鳴雑誌等をして、盛んに紙上に其の不当を論じ、且頻りに演説会を開いて之を攻撃させた。当時帝都各処の演説会に於て、政府の失政を攻撃すること猛烈を極めたけれど、解散中止の厄を免れたのは、大隈が政府部内に在りて暗に之を庇護せるためであつた。而して新聞及び演説は、皆政府の処置を痛撃したる後、是くの如き専横不正を敢てして忌樺する所なきは、官僚専制政治の然らしめる所なるが故に、之を根本より改めなければ私曲を絶滅することが出来ぬ、その根底を絶滅するの途は国会開設以外になきことを力説した。
 多年国会開設を要望し来れる輿論の炎は、之によつて油を注がれ、必ず払下を取消し国会開設を見ざれば己まざるの勢を示した、而も廟堂に在りては大隈が断乎払下に反対し、且其弊を除くために国会開設を主張すると聞き、天下の輿望頓に大隈に集まり、大隈出でずんば蒼生を如何せんと称ふるに至つた。かくて大隈が其志を遂ぐるの機は略ぼ熟し、将に.挙して藩閥政府を転覆し、政党内閣の実現を見ることも遠からじと思はしめた。

 

 政府は是くの如き形勢に一驚し、十月十一日明治天皇の東北より還幸し給ふや、即夜御会議を開かせられ、翌十月十二日開拓使官有物の払下を取消し、同時に明治二十三年を期して国会を開くべきことを天下に告げさせ給ふた。而も此事のために薩長人士の怨恨憤激は悉く大隈の一身に集まり、其の車駕に従つて外に在るの間に、政府部内は一致して大隈放逐の議を定めたので、藩閥政府転覆の企図は全く画餅となり、帰郷と同時に薩長七参議のために排細されてしまつた。而して大隈と志を同じくして政府に在りし大小の諸官は、河野敏鎌・矢野文雄・前島密・犬養毅・尾崎行雄・島田三郎・小野梓・中上川彦次郎・中野武営・小松原英太郎以下相踵(あいつ)いで職を罷め去り、廟堂に大隈派の隻影を止めざるに至つた。伊藤・山県の長州勢力が始めて確立されたのは実に此時からである。

 

 国会開設の時期を明示し給へる聖詔は、能く政海の狂瀾怒濤を鎮め、民権運動者は今や他日国会開くる時の準備として、政党団結の必要を感じ、此年十月国会期成同盟会及び自由党は、合同して自由党と名くる政党を結成し、総理に板垣退助、副総理に中島信行を選挙した。之と前後して大阪に立憲政党の結成を見たが、自由党副総理中島信行を請ふて其の総理としたので、両者は異体同心のものである。明治七五年に入りてよりは、政党の団結全国に起つたが、就中九州に於ては福岡県の玄洋社・立憲帝政党・柳河有明会、鹿児島県の自治社・公友会・三州社・博愛社、長崎県の佐賀開進会・唐津先憂社等の委員及び大分県竹田の有志等が、三一月十日熊本に会し、熊本の前田案山子・高田露・嘉悦氏房・山田武甫等と相図りて九州改進党を組織した。頭山翁も箱田六輔と共に玄洋社委員として此の大会に出席した。

 

 先是(これよりさき)東京に嚶鳴社及び東洋議政会といふ二つの団体があつた。嚶鳴社は前元老院書記官沼間守一が、明治十二年官を辞して、後、河津祐之・肥塚龍・末廣重恭・波多野伝三郎・田口卯吉等と共に組織した結社で、社員の多くは英学者尺振八の塾より出で、京浜毎日新聞を其の機関として居たが、島出三郎も掛冠(けいかん)後に来り投じた。
 議政会は矢野文雄・森田義吉・箕浦勝人・犬養毅・尾崎行雄等の慶鷹義塾出身者を以て組織し、郵便報知新聞を其の機関とし、前者と共に望を大隈に属し、常に其の政策を助けて来たが、大隈の朝に敗るるに及んで、河野・前島・小野・牟田口等も相踵いで野に下り、茲に三派合同して立憲改進党を組織し、四月十六日其の結党式を挙げた。

 

 さて征韓論は佐賀及び薩摩の戦争となり、共に政府の鎮圧する所となつたが、今や民選議院論が自由党及び改進党の結成となりて政府に反抗することとなつた。両党は同じく政府に反抗したけれど、自由党は其の精神に於て征韓論者の流を汲み、自由民権を叫び主権在民を唱へながらも、最も力を国威宣揚に注がんとした。

 然るに大隈は初めより非征韓論者であり、従つて改進党の政綱には特に「内地の改良を主として国権の拡張に及ぼす事」を明示して居る。此点に於て改進党は非征韓派即ち大久保一派と主義を同じくするものである。

 それ故に自由党は征韓論及び民選議院論を併せ、改進党は征韓論を非として民選議院論のみを採れるものと謂ひ得る。而して政府は征韓論に反対し、民選議院論に反対したのであるから、自由党とは正反対の立場を執り、内治を主として国権の拡張に及ぼそうとする点は改進党と同一であるが、大隈を廟堂より放逐せる関係から改進党をも敵視した。明治維新の当初、薩長は人才を収撹するの急務なるを感じたるが故に、成るべく門戸を広くして有為なる人物を歓迎した。
 彼等は荐(しき)りに外国の文物を輸入し、自由民権の議論すらも成るべくは之を輸入した。然れども彼等は漸くにして自由民権の議論を盛んならしめることは、虎の子を養ふよりも危険なることを感ずるに至つた。彼等は自ら余りに進み過ぎたるを疑ふに至つた。而して政治運動の民間に勃興するに及んで、保守的反動が次第に彼等の心を掴み、弾圧政策を以て国民に臨むに至つた。是くの如き精神を最も鮮明に示すものは実に下の如き岩倉具視の意見書である。

 

 曩に明治六年、参議の重任に居る者、始めて朋党の兆あり、一動して佐賀の騒擾となり、再転して台湾の出師となり、八年に及び二三の参議大阪に密会し、遂に漸次立憲の詔を請へり。抑々(そもそも)此事たるや、下民上を罔(あみ)するの路を啓き、大権下に移るの漸をなし、実に不易の国体を変ずる者、具視極めて其不可を論ぜるも用ゐられず。時に維新の功臣其末節を令くせず、芳蘭忽ち輩落に変ずる者あり、具視憂憤の情に堪へず、勉めて政務に従事す。

 果して十年に至り、西郷暴挙の事あり。次年には分権自治の目的を以て府県会の法を定む。内閣の中二三の人は其甚不可なるを論ずるあり、具視亦所見を同じくす。以謂(おも)らく此法は又大権下移の路を速にす、天下之より多事ならんと。爾来大本既に堅からざるを以て小規亦定まること能はず、甲事将に成らんとすれば、乙功既に壊る、

 彼を補ひ之を支ふ、日給するに逞あらず、役々として休からず。遂に明治十四年夏秋の際に至りて開拓使の事あり。此事や僅に行政事務の.小処分に過ぎざりしも、此年以来、士威軟弱、下民横恣の弊、漸く積聚(しゃくじゅう)するを以て、一たび詭激(きげき)の論を以て人心を煽動するや、上下惑乱、官民鼎沸す。

 

 平常忠実の官吏と難、其向背を定めず、誠偽黒白を判す可からざるに至れり。惟ふに彼の不逞の徒、空拳赤手、徒に口舌を鼓し筆管(ひつかん)を弄す、固よリ三軍の衆あるに非ざるなり、又剣銃の利器あるに非ざるなり。然り而して政府の之に対して岌々々として安からざること、むしろ驚愕に堪へざるものあり。鳴呼大権下移の漸、此に至りて其様を察すべぎなり。夫れ政府の頼りて以て威権の重を為すものは、陸海軍を一手に掌握し、人民をして寸兵尺鉄を有せしめざるに因れり。然れども若し今日の如くにして人心を収束することなく、権柄益々下に移り、道徳倫理滔々として日に下らば、兵卒軍士と難、焉ぞ心を離し、文を倒まにせざるを保せんや。
 気運一旦此に至らば、夫夜呼び関中守を失ふの覆轍を踏まざらんと欲するも、豈得べけんや。故に今日にして政府の威権を恢復し、民心の頽瀾(たいらん)を挽回せんと欲せば、断乎として府県会を中止し、万機一新の精神を奮励し、陸海軍及び警視の勢威を左右に提げ、凛然として下に臨み、民心をして戦憟する所あらしむべし。凡そ非常の際は一豪傑振起し、所謂武断専制を以て治術を施す、古今其例乏しからず。故に此時に当り、半期一歳の間、或は嗷々不平の徒あるも、亦何ぞ顧慮するに足らんや。

 

 これは誠に徹底せる、また素朴なる武断専制主義であり、その起革されたのが明治十五年十二月のことなりしを想へば、当時の日本が如何に思想的に混沌たりしかを察することが出来る。而して如何に岩倉公の勢力を以てしても、府県会中止の事は行はれなかつたが、武断専制だけは此後も長く政府の採用する所となつた。政府は薩摩の暴動を鎮圧せると同じ精神を以て、政党をも弾圧せんとしたのである。

 自由党と改進党との軋礫は、政府をして漁夫の利を収めさせた。二党は共に政府を敵としながら、その首領の性格、党員の気風、思想的根拠の相異のために、啻に共同戦線を張らんとせざるのみならず、互に抗争を事とした。自由党の領袖は主としてフランス思想に養はれたる仏学者であり、其の唱ふる所は極めて単純であつた。彼等は社会は民約によつて成り、主権は国民に存し、法律は民衆の好悪に成るといふ信条を、甚だ露骨に宣言せるに過ぎなかつた。而も新たに政治的に覚醒せる日本人にとりて、議論の単純なるは理解され易き所以であり、自由党が旭日昇天の勢を以て進んで来たのは、是くの如き学純なる自由民権を其の旗幟としたからである。

 然るに改進党はイギリスの経験主義・功利主義に心惹かれし英学者を幹部とし、民権論の如き空想のために戦はんよりは、国民の実際の生活を改良向上せしむることを以て人生の能事とし、歩一歩現在を改めんとするものである。従つて前者の急進的なるに対して漸進的である。自由党員は熱血の士に富み、理想のために万難を排して進まんとし、改進党員は多智の才子多く、難に遭へば避けて暫く機会を待とうとする。それ故に自由党員は燥急熱狂して屡々刑辟に触れ、改進党員は自重自重、容易に危道を冒さない。
 かくて自由党員は改進党員に対して初めより平かならざるものがあつたが、当時世間の非難の的となりし三菱会社に対し、自出党が激しく攻撃を加へたるに当り、改進党が之を傍観したるを憤り、三菱攻撃は一転して改進党攻撃となり、偽党撲滅・海坊主退治の運動となりて激しく輿論を動かし穴。爾来両党は氷炭相容れざる間となり、全国至る処に両党互に反目して相対峙するに至つた。

 

 政府の苛酷なる弾圧は、先づ自由党をして言論に代ふるに陰謀を以てする革命党たらしめんとした。党員の或者は、自家の目的を遂げるためには、暗殺と暴動との外に千段なしと考へた。公会に演説せずして密室に私議し、秘密書を頒布し爆弾を製造した。大事を成す者は小饉を顧みずとして、強盗奪掠をさへ決行し、富家を脅追して運用金を調達した。世間は火付・泥棒と自由党とを併称した。多数の党員が牢獄に投ぜられた。
 前年十一月、海外立憲国の制度を視察するために欧米漫遊の途に上れる板垣は明治十七年六月帰朝し、自由党の実状を見、党員の節制容易ならざるを知り、此年十月遂に自由党を解散した。而して狡慧にして難を避くるに巧なる改進党も、また内訌(ないこう)のために、此年十二月総理大隈及び副総理河野が党籍を離脱したので、其の首領を失ふこととなつた。かくて一時勃興したりし諸政党は一旦悉く解散し去るに至つた。頭山翁等が尽力せる九州改進党も、翌十九年五月を以て解散した。

 

 先是(これよりさき)政府は安場保和・井上毅・古荘嘉門等をして、其の郷里熊本に保守党の団結を作らしめ、之を紫溟会と名けたが、主として之を指導したのは佐々友房であつた。頭山翁が土佐より帰りて福岡に民権運動を始めし頃、佐々は熊本より来りて翁を訪ひ、互に相許す仲となつた。然るに佐々は世間より権謀術数を事とする険険なる策士と思はれて居たので、箱田・進藤等の玄洋社同志は、翁が佐々と交はる事を歓ばず、熱心に彼と遠ざかることを忠告したが、翁は頑として聴かなかつた。熊本には紫溟会の外に相愛社といふ団体があつた。前者は池辺吉十郎の系統を引き、後者は宮崎八郎の系統であつたが、両者は氷炭柑容れざる間柄[な]ので、翁は箱田・進藤等と謀り、九州有志大会を熊本に開き、此の機会に両者を握手させようとしたが、相愛社側は此の大会に社員を出席させなかつたので、玄洋社の計画も水泡に帰した。但し爾後玄洋社と紫漠会との関係は極めて親密になつた。

 此年頭山翁は輿論指導の機関として新聞を発行せんと思ひ立つた。無一物の翁が新聞発行を計画すると聞いて世間は相手にしなかつたが、翁は有志を説得して寄付金を集め、後に九州新聞界に覇を称へたる九州日報の前身福陵新報を発刊を見るに至つた。

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