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1枚の絵

 バー海神の壁に1枚の絵が架けてある。正直、毒にも薬にもならない、なんということもない静物画だ。

「マスター、もう1杯」
 これで5杯目だ。今夜はどうしたのだろう。いつもは、水割りを2杯か3杯飲んで、おとなしく帰る渡辺が、いつになく深酒をしている。
 鏑木は5杯目の水割りを作って、カウンターに置いた。渡辺は、ひと息に飲んだ。カウンターの上につっぷした。ジョニ赤が空になった。
 ムニャムニャとなにやらつぶやいたあと、顔を上げた。目の焦点が定まっていない。
「もう1杯。マスター、もう1杯くれ」
「ボトルはもう空ですよ。どうしたんですか渡辺さん」
「なあ、マスター、40年という年月をどう思う」
「長い年月ですね」
「そうなんだ、オレの40年はなんだったんだ」
 渡辺は絵描きだ。名のある絵描きではない。大昔、小さな展覧会に出品した作品が選外佳作に選ばれたことがあった。賞とは縁のない絵描きだった。そう「だった」だ。10年前、画業の集大成と、自分では位置づけた個展を開いた。数少ない知人がパラパラを来ただけ。作品は1点も売れなかった。それ以来絵は描いてない。絵は・・・。
 絵画教室をやっている。土日だけだが、団地の集会所を借りて、10人ほどの子供たちに絵を教えている。もちろん、それだけでは生活できない。渡辺の本職はイラストレーターである。デザイン専門学校を卒業して、広告制作会社に入社した。そして、このたび65歳となり定年となった。
 広告会社のイラストレーターだから、渡辺の作品を、ポスターか新聞雑誌の広告で見ることができるか。できない。渡辺の「作品」は絶対に世の中に出ることはない。
「きょう、会社で最後の『作品』を仕上げたよ」
 渡辺の会社での仕事はカンプ専門のイラストレーターだ。カンプ。広告会社が、こういう広告になりますよと、クライアントにプレゼンするときにビジュアルを具体的に提示する時、絵を見せて説明する。それでOKとなれば、本番用のイラストなり写真なりが制作される。渡辺はそのカンプの絵だけを40年描いてきた。
「そりゃ、おれは何度も会社にいったよ。カンプだけじゃなく、本番用のイラストを描かせてくれと」
「新しいボトル開けますか」
「いいのかい。この店、新規のボトルキープはダメなんじゃないのか」
「渡辺さんだから特別です」
 鏑木はスコッチを1本開けた。
「それ、マッカランの18年じゃないか。そんな高い酒、オレには不適当だ」
「画代ですよ」
「画代って」
「あそこの壁、さみしいと前から思ってました。あそこに架ける絵を描いてもらえませんか」
 
 渡辺はその絵を完成させた後亡くなった。その絵は、なんということもない静物画だが、何をいいたいかだけは、よく判る絵だ。
 その絵を見れば、渡辺が会社では重宝されていたイラストレーターであったことは、よく判る。重宝はされていたが・・・。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
お願いします (はる)
2017-05-22 17:35:38
海神にはいつも優しい空気が流れていますね。
朗読のお願いです。
どうぞよろしくお願いします。<(_ _)>
 
 
 
はるさん (雫石鉄也)
2017-05-22 18:23:10
朗読OKです。
楽しみにしてます。
 
 
 
切ないけど優しい (りんさん)
2017-05-27 00:10:47
いい話ですね。
カンプを書くだけのお仕事があるんですね。
有名な画家にはなれなかったけれど、好きな絵を職業に出来たことは幸せです。
鏑木さんは優しい人ですね。
最後に素敵な仕事が出来て、本当によかったと思います。
 
 
 
りんさんさん (雫石鉄也)
2017-05-27 08:42:49
ありがとうございます。
この渡辺は、芸術家ではなく、職人だったのですね。でも本人は芸術家たらんとしたかったのでしょう。そのギャップで苦しんでいたわけです。
 
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