雫石鉄也の
とつぜんブログ
ラフロイグの香り
「ロックでいいですか」
「そうだな」
カウンターに座った高木は小さくためいきをついた。
「もうすぐ春だな」
「はい」
鏑木はブラックニッカのボトルを開けてグラスに注ぐ。高木はグラスに口をつけて、ひと口飲んだ。グラスを置いて、ふっと息をはいた。
「今井さんはまだこの町にいるのかな」
「1年ほど前に来られました」
「あれから20年か」
高木は地元のK電機を2年前に退職。今はシルバー人材センターで週に3日ほど公園の樹木の手入れなどをしている。その帰りに、時々、ここ海神に立ち寄る。
「そういえば、あのころ高木さんと今井さんはよく二人でお見えになりましたね」
20年前。高木はK電機の労働組合の副委員長で、今井は常務取締役だった。
「あの時の春闘は苦労したよ。5月になっても妥結しなかった」
高木はグラスを開けた。2杯目のロックはひと息に開けた。
「オレのボトル、あとどれぐらい?」
「そうですね。あとワンフィンガーといったところです」
「もう1杯ロック」
3杯目はゆっくり、いつくしむようにグラスを傾ける。
「マスター。鏑木さん。新しいボトルはキープしたくないんだろう」
「はい。でも高木さんなら」
「オレ、シルバーの仕事は今週一杯で終わりだ。完全隠居だ」
高木はさみしそうな顔をした。グラスを傾ける。グラスの中で氷がゆれる。
「考えてみたら、オレがやった仕事で一番大きな仕事は、あの春闘を終わらせたことだな。今井さんと二人でな」
鏑木が棚の奥から1本のボトルを取り出した。スコッチのシングルモルト、ラフロイグの10年。
「これは?」
「今井さんの置き土産です。高木さんが来たら渡してくれって」
「ストレートですね」
「もちろん」
鏑木がテイスティンググラスにラフロイグを注ぐ。高木は香りをかぐ。独特の香り。スコットランドはアイラ島で蒸留されるラフロイグは個性の強いシングルモルトウィスキーである。独特な香りがする。ピートの香り。人によっては正露丸のような臭いだという。飲む人を選ぶウィスキーである。高木はラフロイグに選ばれたようだ。
「うまいな。久しぶりだ。小遣い1万の身の上じゃラフロイグなんてめったに飲めん」
20年前の春闘。高木は組合側の主席交渉委員。今井は会社側の主席交渉委員だった。連日深夜まで団交を重ねるが、なかなか妥結点まで到らなかった。
高木と今井は主席交渉委員どおし、二人だけでこの海神で会って、なんとか組合会社双方譲歩できるぎりぎりの線を見つけ出した。その時、二人でよく飲んだのがこのラフロイグだ。20年前はスコッチのシングルモルトは入手しにくかった。今井の妻がイギリス旅行の手土産に買ってきたモノだ。
高木は初めて今井に飲まされた時はウェといった。しかし、何度か飲んでいくうちにラフロイグの魅力に取り付かれた。ラフロイグを飲みながら二人で遅くまで話し合った。そのボトルが空になった時に妥結点を見出した。その後、今井は会社を去った。高木も退職した。今井とはその後一度も会ってない。
「今井さん、どうしてるかな。鏑木さん、知ってるか」
「存じません」
ラフロイグのボトルからアイラ島の海底の香りが漂ってくる。
「あの仕事がオレの仕事で一番大きな仕事だった」
星群の会ホームページ連載の「SFマガジン思い出帳」が更新されました。どうぞご覧になってください。
「そうだな」
カウンターに座った高木は小さくためいきをついた。
「もうすぐ春だな」
「はい」
鏑木はブラックニッカのボトルを開けてグラスに注ぐ。高木はグラスに口をつけて、ひと口飲んだ。グラスを置いて、ふっと息をはいた。
「今井さんはまだこの町にいるのかな」
「1年ほど前に来られました」
「あれから20年か」
高木は地元のK電機を2年前に退職。今はシルバー人材センターで週に3日ほど公園の樹木の手入れなどをしている。その帰りに、時々、ここ海神に立ち寄る。
「そういえば、あのころ高木さんと今井さんはよく二人でお見えになりましたね」
20年前。高木はK電機の労働組合の副委員長で、今井は常務取締役だった。
「あの時の春闘は苦労したよ。5月になっても妥結しなかった」
高木はグラスを開けた。2杯目のロックはひと息に開けた。
「オレのボトル、あとどれぐらい?」
「そうですね。あとワンフィンガーといったところです」
「もう1杯ロック」
3杯目はゆっくり、いつくしむようにグラスを傾ける。
「マスター。鏑木さん。新しいボトルはキープしたくないんだろう」
「はい。でも高木さんなら」
「オレ、シルバーの仕事は今週一杯で終わりだ。完全隠居だ」
高木はさみしそうな顔をした。グラスを傾ける。グラスの中で氷がゆれる。
「考えてみたら、オレがやった仕事で一番大きな仕事は、あの春闘を終わらせたことだな。今井さんと二人でな」
鏑木が棚の奥から1本のボトルを取り出した。スコッチのシングルモルト、ラフロイグの10年。
「これは?」
「今井さんの置き土産です。高木さんが来たら渡してくれって」
「ストレートですね」
「もちろん」
鏑木がテイスティンググラスにラフロイグを注ぐ。高木は香りをかぐ。独特の香り。スコットランドはアイラ島で蒸留されるラフロイグは個性の強いシングルモルトウィスキーである。独特な香りがする。ピートの香り。人によっては正露丸のような臭いだという。飲む人を選ぶウィスキーである。高木はラフロイグに選ばれたようだ。
「うまいな。久しぶりだ。小遣い1万の身の上じゃラフロイグなんてめったに飲めん」
20年前の春闘。高木は組合側の主席交渉委員。今井は会社側の主席交渉委員だった。連日深夜まで団交を重ねるが、なかなか妥結点まで到らなかった。
高木と今井は主席交渉委員どおし、二人だけでこの海神で会って、なんとか組合会社双方譲歩できるぎりぎりの線を見つけ出した。その時、二人でよく飲んだのがこのラフロイグだ。20年前はスコッチのシングルモルトは入手しにくかった。今井の妻がイギリス旅行の手土産に買ってきたモノだ。
高木は初めて今井に飲まされた時はウェといった。しかし、何度か飲んでいくうちにラフロイグの魅力に取り付かれた。ラフロイグを飲みながら二人で遅くまで話し合った。そのボトルが空になった時に妥結点を見出した。その後、今井は会社を去った。高木も退職した。今井とはその後一度も会ってない。
「今井さん、どうしてるかな。鏑木さん、知ってるか」
「存じません」
ラフロイグのボトルからアイラ島の海底の香りが漂ってくる。
「あの仕事がオレの仕事で一番大きな仕事だった」
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コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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久し振りの海神を朗読させて下さい。
チョット時間がかかるかも知れませんが、
どうぞよろしくお願いいたします。
どうか、ご無理なさらずに。
いつもありがとうございます。<(_ _)>
聞きにいきます。
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