最近ふと、「僕はマクロビオテックなのかな?」と考えたことがあったんだけど、恐らく僕はマクロビオテックではないだろうという結論に到った。
というのも、僕が今いる「ここ」に辿り着くに到った過程での約半年間は、確かに玄米菜食で、小食で、砂糖も全く取らず、必要があれば長期間の断食も行った。
ただ、よくよく考えてみると僕は「マクロビオテック」という存在を知ったことで玄米菜食を始めたわけじゃない。以前も何度か書いてきたけれど、僕の全ての始まりは「★阿修羅♪」であって、そこで千島喜久雄という人の存在を知っったからこそ今の僕がある。
もちろんそこに到るまでにも、類稀なる貴重な出会いや経験を重ねていたからこそ、それを自分の腹に落とすことが出来たことは間違いない。けれどもやはりあのタイミングで★阿修羅♪と出会い、千島喜久雄の存在を知れたことは、僕にとっては本当に大きな意味があったのだと思う。
ただ、繰り返しにはなるけれど、僕が「マクロビオテック」というものの存在を知ったのは、玄米菜食を始めた後のことだし、そういう意味ではやはり僕はマクロではないと思う。
「あ、僕の今の食生活って、マクロビオテックっていうんだ。そんでもって、マクロビオテックってのはこういう理論や理屈に基づいた思想なんだ。へぇ」
当時の僕が思ってたことなんてこの程度。
僕は千島医論や量子力学から頂戴したヒントを元に、自分なりに必要性があると判断した結果、導き出した結論がたまたま玄米菜食だっただけの話。そこからなぜか、農薬や化学肥料の怖さに行き着き自然栽培という農法を知り、薬品産業や医療業界、石油産業や穀物メジャの存在に興味を持った結果、ユダヤ国際金融資本の存在に辿り着き、みんなひっくるめて繋がってしまったというだけのこと。
今では砂糖も口にするし、必要があれば肉も魚も酒も取り入れる。
これもつい先日も書いたことだけれど、僕はなにかを勉強したり、感じたり、考えたりすることで、そこから沢山のヒントというパズルピースを収穫することはあっても、その対象に傾倒することは絶対にない。
なぜなら、何かに傾倒するということは僕にとって、自分自ら枠組みの中に飛び込んで視野を狭めることにしかならないからだ。
「結局のところ、決め込んだら何もできなくなるよ。何も決めないからこそ、なんだってできるんだ。枠を作っちゃダメ。」
これは先日、とある自然農法家の方からいただいた言葉なんだけど、今まで僕が出会ってきたホンモノの人たちは、言い方や方法論は違っても、おっしゃっていること・実践されていることの結論は皆、大体同じ。
もちろん、なんでもかんでも枠をとっぱらって自由にすればいいわけではないし、そんなことは百も承知で書いている。ただ、世の中に存在する絶対的なものは宇宙と自然界だけで、それ以外のものは、ただただ人間が作り出して、あると思い込んでいるだけのものばかり。それは、マクロビオテックだろうがなんだろうが同じこと。全て人間が考え、感じ、解釈したことを体系的なものとして確立しただけのことであって、結局それは「枠」に過ぎない。
もちろん僕は桜沢如一氏を否定する気は一切ないし、むしろ僕はPUを世に残した氏の功績はとてつもなく大きなものだと思っている。(マクロよりもPUの方が僕にとっては大きな存在)
今僕が言いたいことというのは、なにが間違っているとかどうだとか、そんなことじゃなくて、「物事と対峙して、それと向き合うためには、常に全体像とそれらの流動的な流れを読み解く必要があるのだから、なにか一つのことに囚われるのではなく、視野や価値観、考え方なんかを、もっともっと幅広くもって、穏やかに、二分化せず、素直に、ありのままに受け入れていくべきなんじゃないかな」ということ。
肥料や農薬を使わないものだけの玄米菜食は確かに無茶苦茶身体に効果があるし、色々な側面から見ても本当に必要性のあることだと思う。ただしそれを「マクロ」だとか「ベジタリアン」だとか、人間の言葉で解釈するのではなくて、もっと大きな視野で大観的に、沢山の要素から沢山のことを感じ取っていくことのほうが必要なんだと思う。
全ては自然界が作り出して決めていることなのだから、人間の言葉や概念が作り出す枠や解釈なんて、さほどの意味はない。
それよりもむしろ、人間の言葉や価値観では到底図りきれない、人の心や精神のほうが、もっともっと難しくて、大切なこと。
何度も書くけれど、全てはいつだって皆必ず繋がっていて、しかもたった今も、明日も、明後日も、何億年後も、常に流動的に動いている。だから、人間風情がなにかを枠組みやルールを決めたところで、それらは周りの環境や条件なんかで、あっという間に脆くも崩れ去ってしまうささやかなこと。そんなことに一々執着する必要は、僕はないと思う。
もちろん、沢山、大切で、必要なことはある。けれどもそこは二重性。
必要であって、必要でない。
その二重性の本質を見極められた人だけが、穏やかな心と、本当のことを掴み取って、ここではないどこかへ行けるのだと思う。
僕は、マクロであってマクロでない。
結局、言葉や名称、定義や理屈なんて、人間の「解釈」でしかない。
そして、だからこそ、楽しいんだと思う。