トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

庄原市東城町の家並みを歩く(1)~本町の家並み~ 

2017年06月30日 | 日記
広島県北部の町、庄原市東城町にあるJR東城駅を訪ねた日(「JR芸備線の駅らしくないJR東城駅」2017年5月26日の日記)、駅前の町の案内図を見て、ゆっくり歩いてみたいと思っていました。

この日も、JR岡山支社管内の乗り放題きっぷ「吉備之国 くまなくおでかけパス」をもって、新見駅発13時01分発の芸備線の列車で出かけました。写真はJR東城駅の駅舎とトイレです。どちらもリニューアルされており、モダンな建物になっています。

駅前からトイレに向かう途中にあった観光地図です。東城駅の西側を、東城川が北から南に流れています。東城川のさらに西側に広がるのが東城の町並みです。町並みの中央を旧街道が通っています。中国山地の村は、古くから「鉄穴(かんな)流し」によって砂鉄を採取し、炉で溶鉱して銑鉄をつくる「たたら製鉄」が盛んでした。江戸時代から明治時代にかけて、東城の町は鉄の集散地として知られ、東城川を舟に乗せて、また、東城往来を馬の背に乗せて、運ばれていました。鉄はさらに、東城から成羽を経由して倉敷市(岡山県)に送られ、そこから全国に運ばれていました。こうして、東城は、江戸時代を通して、多くの物資が集まる商業町として栄えていました。

駅前広場から、東城川にかかる駅前橋を渡り、西に向かって歩きます。

ゆっくり歩いて10分ぐらいで東城高校南の交差点に着きました。文明堂という屋号のお店の手前を左折して、旧街道に入ります。中国山地の各地から鉄を運んだ道であった旧街道は、現在は「街道東城路」と呼ばれ、町おこしの中心になっています。

この地図は、この先の「東城まちなか交流施設えびす」でいただいた「ぶらり散歩マップ」に載っていたものです。地図の右側が北の方角にあたります。北から南に向かって、「街道東城路」を歩くことにしました。

旧街道です。かつての街道の面影を残す家並みが続いています。上本町の家並みです。

歩いて5分ぐらいで着いた、右側の大きな邸宅の一角に手作りの案内図がありました。地元の町おこしグループの人たちがつくられたもののようです。この邸宅は「三楽荘」(旧保澤家)で、現在は、東城町に寄贈され東城の歴史と文化を継承する施設になっています。元は、呉服反物商、醤油の醸造業を営んでいましたが、昭和24(1949)年から旅館業に転業し、旅館「三楽荘」として多くの人に親しまれていました。写真の手前の建物は離れと門、いずれも建築当初の建物がそのまま残っています。

旧保澤家の本館と隣接する別館の一部を撮影しました。本館は、明治24(1891)年に、東城の名匠といわれた棟梁、横山林太郎氏によって建てられたものだそうです。内部には、昭和5(1930)年、三神線(JR芸備線の前身)が東城まで延伸した当時の町図が展示されています。
そこには「広島県備後国東城村 醤油醸造 呉服反物 保澤定四郎」と書かれていました。

三楽荘の内部です。どっしりとした、重厚なつくりの内部です。三楽荘は、明治42(1909)年に建設された離れと、土蔵(明治26年建築)、茶室と門(どちらも昭和前期の建築といわれる)が残っていること、今日では入手の困難な高価な木材を使用していることなどにより、平成23(2011)年に国の登録有形文化財に登録されました。

三楽荘(旧保澤家住宅)の本館の前から、街道筋から離れ、東に延びる備中町を東城川に向かって進みます。この道はかつての備中街道。岡山県の西部に向かう道だったといわれています。

東城川の手前、右側にあった「備中町胡(えびす)」と常夜灯(金比羅灯籠)です。江戸時代の元禄年間(1688~1704)、広島の胡子(えびす)神社から勧請されたと伝えられています。東城の町の7ヶ所にあり、「備後東城の7胡(ななえびす)」と呼ばれています。胡様は商売繁盛の神、江戸時代の町衆の心意気を感じます。常夜灯には、「寛政十年仲秋」という銘があり、江戸時代、東城川を往来する川舟に対して、灯台の役目を果たしていたようです。

その先の東城川にかかる大橋です。東城で最も古い橋だといわれています。欄干のデザインや「おおはし」の銘から長い歴史を感じることができます。

大橋の上から見た東城川の下流方面です。左岸には、昭和5(1930)年頃植えられた桜並木が続いています。三神線の開通を祝って植えられたのでしょうか。今は水量がさほど多くありませんが、江戸時代には川舟が往来し、鉄や米などの物資が集まり、鉄はさらに成羽まで運ばれていました。

東城川から三楽荘の前に戻ります。今度は、三楽荘の南側から右に入る通りである「但馬屋小路」に入ります。東城の町は、現在「街道東城路」と呼ばれている本町の通りのような3本の大路とそれらをつなぐ但馬屋小路のような小路によって形づくられています。写真の右側は三楽荘の白壁です。正面に浄土真宗の禅佛寺があります。東城は、江戸時代中国山地の各地から多様な物産が集まる商業町の印象が強いのですが、地元の人々は”城下町”で町おこしをしておられます。

禅佛寺の前を左折します。戦国時代に、宮氏がこの地に五本竹城(ごほんがたけじょう、後に「五品嶽城」と書かれるようになります)を築き、この地を治めていました。関ヶ原の戦いの後、福島正則が広島城主となり、家老の長尾隼人正一勝が五品嶽城に入り東城を治めることになりました。現在の東城の町は長尾隼人正が計画的に整備したものだといわれています。

禅佛寺の土塀の先で、道は枡形になります。しかし、元和元(1615)年に一国一城令が出されて、五品嶽城は廃城となりました。その後、元和5(1619)年には広島城主の福島氏が改易となり、浅野氏が広島城主になりました。それに伴い、長尾氏は美作国津山に去り、浅野家家老の亀田高綱が、続いて、寛永18(1641)年からは、浅野高英が東城の支配者となりました。こうして、幕末まで浅野氏の支配が続くことになりました。

枡形から、山裾を走る国道314号に続く道です。写真の奥の横断陸橋は、山裾を走る国道314号を渡るために設けられています。そこから「世直神社(よなおりじんじゃ)」を経て、五品嶽城へ登る登山道が延びています。観光案内所である「東城まちなか交流施設えびす」でお聞きすると「最近、まむしがでるという話しがありますので・・」とのことでした。江戸時代の初頭の姿がそのまま残っていて、学術的に貴重な城跡なのだそうです。ちなみに、世直神社は、豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)を祭神とする神社。天正19(1591)年に、五本竹城の城代だった渡辺内蔵が伊勢から勧請したといわれています。枡形を左に入り、館町(旧家中町)を歩きます。「家中町」という名前のとおり、江戸時代に家老に従った武士(東城勤番家中)が居住していたところです。

これは、三楽荘に展示されていた「三神線東城駅開通当時(昭和5年)の商店広告とまちなみ」の図です。左右の道(大路)が3本町を通っています。一番下の通りから下(西)に延びているのが横断陸橋に続く通りです。その起点にある小さな枡形の右側に「検番」の文字が読めます。「検番所」があったところのようです。そこから道を進んだところにある「東城町役場」と書かれている辺りまで、武家屋敷が続いていたようです。3本あった大路の一つを南(右)に向かって歩きます。道幅の広さや民家の石垣に、かつての武家屋敷の雰囲気を感じることができました。

館町をさらに進みます。左のお店のすぐ先に「街道東城路」とをつなぐ「家中小路」がありました。三楽荘にあった掲示物の「まちなみ」を見ると、家中小路の右側に、以前東城町役場がありました。広島城主の命で東城を治めていた長尾隼人正などが勤めていた陣屋は、町役場のあるあたりにあったといわれています。写真の右側の建物の先の空き地のあたりになるのでしょうか?

三楽荘に戻ってきました。「街道東城路」をさらに南に向かいます。左側に、浄土真宗正翁山徳了寺の山門が見えました。

徳了寺の山門です。慶長9(1604)年、当時この地を治めていた長尾隼人正から、鉄などの商いで財をなした有力商人である大坂屋新左衛門と和泉屋与兵衛が寺地を願い受けて建立した寺だそうです。この中に国境石が保存されていました。

徳了寺の本堂の脇に、岡山県と広島県の県境、二本松峠にあった備中国と備後国の境界に設置されていた国境石がありました。左側の石碑には、正面に「従是西備後国」裏に「奴可郡福代村」、右側の石碑には、正面に「従是西芸州領」、右の側面に「従是西備後国」と刻まれていました。もちろん、保存のためにここに移したものです。

徳了寺の向かい側にあった「上本町胡」です。これも「備後東城の七胡」の一つです。その脇にあった天保年間創業の北村醸造場。清酒「菊文明」で知られています。江戸時代に建てられた蔵を、今も一部使っているそうです。

情報をいただいた「東城まちなか交流施設えびす」です。旧街道の左側にありました。

しまなみ信用金庫の先が「家中小路」。その手前にあった「下本町胡」です。祠だけの胡が多いのですが、この胡は、玉垣のついた立派なつくりでした。ここで右折して、家中小路を進めば、旧東城町役場があったところ(江戸時代に陣屋があったところ)に着きます。

「ぶらり散歩マップ」にあった観光地図です。本町からまっすぐ南に進むと、その先に、城下町や宿場町に多く見られる枡形があります。再び、東城路から離れ、家中小路の入口のところから、今度は左折して東城川に向かって歩きました。

東城川の手前にあった豊国山西方寺の山門です。東城勤番家中の菩提寺として知られています。山門前の「案内」には、「寛文8(1668)年の東城の大火災の際に焼失し、宝暦(1751~1763)年間に再興された」と書かれていました。寛永5(1641)年に、広島藩主浅野家から東城の領主を命じられた家老浅野孫左衛門高英が、西方寺を回向(えこう)所として定めたことに始まります。

西方寺は、2階建ての本堂をもつ寺院としても知られています。

山門から北に延びる通りの入口付近にあった浜栄町胡です。このあたりは、かつての浜栄町で、東城川の舟運で開けた宿場町として繁栄していたところです。現在は後町になっています。この通りが3本あった大路の3つ目です。

「街道東城路」に戻ります。再度、南に向かって進みます。その先で国道314号を渡ります。

枡形の手前にあった、道路脇の溝を渡る石製の橋。かつての雰囲気を伝えています。

枡形です。旧街道はここで右折します。そして、車が出てきていた通りにつながっていました。枡形の先は新町になります。

古い町並みが残る、庄原市東城町。中国山地の商業の中心都市として繁栄してきました。
現在も古き良き時代の雰囲気を残すために、町並み保存に努めています。
次回の日記では、枡形の先、新町に残る商業町の名残を訪ねて歩きます。
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