トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

西国街道海田市宿跡を歩く

2017年09月17日 | 日記

JR呉線がJR山陽本線から分岐するJR海田市(かいたいち)駅です。3面5線のホームを持つ駅で、たった今、広島駅方面に向かう列車が出発して行きました。ここは、その3番ホームです。左側に見える島式ホームの4番線と5番線には呉線の電車が発着しています。

線路上の駅の改札口を出て、海田市駅の山(北)側の出口に出ました。海田市駅のある広島県安芸郡海田町は、江戸時代には西国街道(山陽道、以下「旧山陽道」と書きます)の海田市宿が置かれ、宿場町、商業町として発展してきたところでした。

駅前にあった観光案内図です。オレンジ色で描かれた旧山陽道を中心にして、それに関連する施設などが描かれています。

駅の上(北)側の水色で示されたところは、江戸時代に瀬野川が流れていたところです。瀬野川の流路を南に変えて、かつての瀬野川の跡地が商業地、住宅地になっています。この日、江戸時代の旧山陽道の海田市宿を歩いてきました。

ここは、先ほどの案内図の旧瀬野川の脇にあるグレーの道路の⑧のところにある、胡神社(左)と荒神社(右)です。左側の祠は、天保5(1834)年に勧請された胡神社。右側の祠は、明治6(1873)年、瀬野川の流れを変えたときに勧請されたと推定されている荒神社です。

さらに、北に向かい、次の東西の通りに出ます。これが、かつての旧山陽道です。写真は、道路脇にあった「安芸山陽道」の案内標識です。駅前の案内図の右側の部分、旧山陽道が山陽本線と交差する辺りから歩き始めました。

海田町畝二丁目にある大力(だいりき)第1踏切です。ここからスタートしました。

これは、踏切の少し先です。旧山陽道の東(大坂)方面です。街道は、新幹線の下をくぐって大力第1踏切に向かっていました。

旧山陽道を西(広島方面)に向かって進みます。しばらく行くと、左側に自然石でつくられた常夜灯が見えてきました。「文政8年乙酉参月」と読めました。文政8年は、江戸時代後期の1825年にあたります。右側に上っていく道は、春日神社の参道です。その上り口に、1対の常夜灯がありました。それには、「文化7庚午年」(1810年)と刻まれていました。

石垣の上に築かれた白い土塀のあるお宅が続いています。この地は、もともとは「包浦」、その後「開田」と呼ばれていたそうです。「海田」の名前が最初に文献に登場したのは、安元2(1176)年、「開田荘」という荘園としてでした。その後、海に面していたことから「海田」と呼ばれるようになったのだそうです(海田恵比須神社の案内碑より)。その後、交通の要衝にあったため、東の西条四日市、西の廿日市とともに市が開かれたことから、「海田市」と呼ばれるようになりました。こうして、海田市は、安芸郡の政治、経済の中心として発展してきました。

その先、旧山陽道沿いの民家の壁に「街道松」の案内が掲示されています。旧山陽道には並木として植えられていた街道松がありました。最後まで残ったのが「名残(なごり)の一本松」で、松くい虫の被害を受けたため、昭和61(1986)年に伐採されました。

掲示されていた「名残の一本松」の写真です。伐採される直前と言っていい昭和60(1985)年頃の姿だそうです。案内には、「掲示のあるところから25メートルぐらいのところにあった」と書かれていました。

左側にある民家の位置などから、松があった場所が推定できそうです。

その先にも、改修はなされていましたが、かつての雰囲気を感じるお宅が点在しています。江戸幕府の3代将軍、徳川家光のとき、五街道と脇往還(街道)が制定されました。旧山陽道は脇往還とされ、大坂から下関まで道幅2間半(約4.5メートル)の街道が整備されました。海田市宿では、寛永10(1633)年に行われた幕府巡検使の巡視に合わせて、画期的に整備が進んだといわれています。参勤交代の制度が始まった寛永12(1635)年からは、広島城下と西条四日市を結ぶ宿場町として、人馬15組、駕籠10挺が置かれ、人馬の継立が行われていました。

右側に、妻入りで奥行きの長い、宿場町に多い形式の民家がありました。

こちらは左側にあった、白壁の土蔵のあるお宅です。このあたりは上市地区。本陣(海田市宿では「御茶屋」と呼ばれていました)が置かれ、高札場も設けられていた宿場の中心地でした。ちなみに、海田市宿は、「東西6町27間、南北15町35間」といわれています。文化2(1814)年の「差出帳」には「家数563戸、人数2708人」と書かれているそうです

袖壁がつくられたお宅の先に、海田町役場の白い建物の一部が見えてきました。

海田町役場の向かいにあった熊野神社です。この神社にも、1対の常夜灯が残っていて、「文政8乙酉年九月」と刻まれていました。文政8年は1825年にあたります。承応3(1654)年に拝殿が再建された時の棟札が残っているそうで、それには、「庄屋猫屋次郎兵衛が願主となって再建された」ことが記されていたそうです。

その先、右側に上がっていく坂道のところに、「御茶屋跡(本陣)→」と書かれた案内がありました。参勤交代のとき、大名が宿泊する本陣があったところです。広島県には、海田市の他には、可部、吉田、八木、西条、本郷、吉舎(きさ)、甲山、尾道の8ヶ所に本陣が設置されていた(本陣跡の説明にあった「広島藩御覚書帳」から)そうです。

坂を登り切ったところに本陣(御茶屋)跡がありました。海田市宿の本陣(御茶屋)は広さ770坪で、広島県下9ヶ所の本陣の中で「4番目の広さだった」と書かれていました。ここは熊野神社の西にあたり、住宅になっている敷地のほぼ全域が、本陣跡に当たっているとお聞きしました。

旧街道に戻って進みます。右側に、海田恵比須神社がありました。延宝2(1674)年に勧請されたそうですが、享保14(1729)年、火災で焼失、その後、宝暦11(1762)年に再建されたそうです。ここにあった「海田恵比須神社由来記」(平成2年11月設立)には、海田市の歴史が詳しく説明されていました。このあたりは「中店」。江戸時代には「中市」の町が形成されていたところです。

海田恵比須神社の先の海田中店郵便局を過ぎたあたりで、「海田公民館」と書かれた看板が見えました。

海田公民館です。ここは、かつて、脇本陣があったところです。公民館にあった説明には、「安芸郡海田市国郡志御編集に付、下弾書出帳(したしらべかきだしちょう)」には「庄屋猫屋新太郎宅が、当時脇本陣と呼ばれていた」という記録が残っていると書かれていました。猫屋は広島城下町の猫屋町の出身で、海田市では「猫屋」を屋号としていました。海田市の庄屋と宿場業務の脇本陣をつとめていました。明治になってからは、ここに、安芸郡の郡役所が置かれました。先ほど通過してきた、熊野神社が、拝殿を再建した時の願主であった猫屋次郎兵衛も、この家の方だったのでしょう。

脇本陣の先にあった千葉家の邸宅です。平成3(1991)年、広島県の重要文化財に指定されました。この日は一般公開になっていました。江戸時代中期の建築様式を伝えていることで知られており、座敷棟は安永3(1774)年の建築で、寛政元(1789)年の建築略図が残っています。玄関は入母屋づくり、座敷は数寄屋風書院造り。また、庭園は、平成3年に、広島県の名勝に指定されています。邸宅は、本陣や脇本陣に準ずる施設として使用され、大名や幕府の役人の宿泊施設としても使われていました。

邸宅の内部を見学させていただきましたが、写真撮影ははばかられましたので、いただいたパンフレットの写真を撮影しました。千葉家は、江戸時代を通して「天下送り役」(幕府の書状や荷物を扱う任務)、「宿送り役」(広島藩の書状や荷物を扱う任務)、宿場町の年寄、組頭などの要職をつとめていました。写真の道具はその時に使用したものです。表面に「天下於(お)くり」、裏面に「宿送役」「海田町」、側面に「御用」と書かれていました。

千葉家の先祖は、中世前期に房総で勢力を張っていた千葉氏の一族で、下野国(栃木県)真壁に住んでいましたが、後に信州伊那に移り「神保」と号したといいます。永正年間(1504~1507年)に安芸国賀茂郡西条付近に移り、大内氏に属しました。大内氏の滅亡後には、毛利氏に属し、小早川氏の配下になっていました。そして、関ヶ原の戦いの後、毛利氏が長州に移ったとき、この地に残って住みつき、酒造業で財をなしたといわれています。

稲荷町に入りました。浄土真宗の寺院、明顕寺(みょうけんじ)です。天文10(1541)年の開基という古い歴史をもつ寺院です。幕末の第2次長州戦争で戦死した高田藩士の墓が設けられているそうです。

境内の西の端にあった鐘楼です。振り返って撮影しました。江戸時代中期の享保年間(1716~35年)、海田市の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金屋源兵衛の寄進により、安芸国鋳物師(いもじ)の筆頭総代の名工、植木屋(金屋)源兵衛が制作した銅製梵鐘が納められています。

明顕寺の斜め向かいにあった三宅家の住宅です。江戸時代から明治時代にかけての豪農のお宅です。屋号は”新宅屋”だそうです。両替商で財をなしたお宅です。向かって左側が平入り、右側が妻入りの住宅が合体したような造りになっています。寛政元(1789)年に建設された土蔵が残っており、江戸時代の面影を今に伝えています。

旧山陽道から右に入る通りの角、黒い車のバンパーの向こう側に、一里塚跡の石碑が建っていました。道路の右側を歩いていましたので、見逃さずにすみました。

安芸ライオンズクラブが、昭和56(1981)年3月に建立した「旧山陽道海田市の一里塚跡」の石碑です。裏面には「古塚 大正10年撤去」と書かれていました。一里塚は、一里ごとに、通りの両側に直径、約6メートルの塚を設け、2本ずつ松の木が植えられたそうです。東(京・大阪方面)の次は、「鳥上の一里塚」で現在の安芸中野駅付近に、西(広島方面)の次は、「矢賀の一里塚」でイオンモール広島府中ソレイユ付近にあったそうです。

その先の山陽道も、かつての雰囲気を残す家並みが続いていました。

広かった通りが狭くなるところに、「広島市船越町」の標識がありました。ここが、安芸郡海田町の町境です。

その右側の路地です。そこには、広島市安芸区船越6丁目1番の住居表示がされていました。

江戸時代、大坂と下関を結んだ旧山陽道の海田市宿を歩いてきました。
広島藩の城下町から、東に向かって最初の宿場町、海田市宿は、広島城下へ物資を送るための中継点としての役割をもつ町でした。城下へ向かう人や物資の送迎に、忙しく、賑やかな町であったと伝えられています。






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