座間コミニティー

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第2列王記9章30-36節

2015年04月29日 07時59分02秒 | 聖書

9:32 彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか」と言った。二、三人の宦官が彼を見おろしていたので、
9:33 彼が、「その女を突き落とせ」と言うと、彼らは彼女を突き落とした。それで彼女の血は壁や馬にはねかかった。エフーは彼女を踏みつけた。



 アハブの元にシドンから王の娘として嫁いできたイゼベルは、アハブ王とアハズヤ王、ヨラム王の下で、偶像礼拝の悪しき習慣をもたらしてきた女性でした。

エフーがイズレエルの町に入った時、彼女はエフーに対して「主君殺しのジムリ」と嘲笑しました。

ジムリというのは、かつて北イスラエルの王エラを倒して王となった人物です。

その王位は7日間で、オムリという人に攻められて、自害した人でした。

エフーに対して、彼女がこのように罵ったのは、お前の天下もジムリのように短いぞという、呪いの言葉でした。

しかし、彼女にはもう助けてくれる味方もなく、ついに城壁から落とされて殺されてしまいました。

その力が尽きたのです。


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1列王記17,18章

2015年04月29日 07時56分19秒 | 聖書

★2 それから、彼に次のような主のことばがあった。
5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
18章1,2節
★ 1 それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」
2 そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリヤではききんがひどかった。


■O:今日のコラム
4月28日の朝です。今日1日も天のお父さんの声に敏感になれるよう、心を主に向けていきましょう。主は、やるべきことをはっきりと教えてくださいます。



雨が降る時、降らない時、僕らがどの様に主の言葉を聴くかが大切です。そして、御言葉に従う時に、本気で従うことです。


御言葉に従う時、川のほとりでカラスに養われる時があります。水なるイエス様のすぐ側に留まり、自分の力ではなく周りにいる能力のある人から神様のパンと肉を受け取る時です。雨が降らないため、イエス様の臨在が枯れた状態を味わう時があります。飢え乾く時です。また、精錬所に留まらなければならない時、自分を大切にしてくれていた人との別れの時、大切なモノを手放す時、敵の前に自ら行き、自分では行きたくない所に行かなければならない状況もあります。



一つ一つのステップによって僕らは、雨の降らないような飢え乾く時をも過ごすことができます。僕らは主なる神様に「天のお父さん」と言える神様に愛されている神様の子供としての権威を与えられています。アバ父、お父ちゃんと呼ぶことができます。それは、主なるイエス様が僕らの身代わりとして十字架に架かられたからです。天のお父さんの声に敏感に聴き、本気で従っていたイエス様の行動によってです。イエス様が十字架の上で完全に渇ききってくださいました。



そして、イエス様は、天のお父さんに信頼していたことで、死に繋がり続けることなく、力強く復活されたのです。僕らに、復活の希望を与えてくださいました。天のお父さんとイエス様、そして聖霊様が互いに愛の主だからです。


御霊の実は愛です。愛は恐れを締め出します。愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶのです。愛は僕らに力を与えてくださいます。僕らを満たしてくださいます。


僕らは力を受け取る時、御言葉を自分の宣言とし、御言葉をより求め、御言葉に本気で従うことができるのです。今日、御言葉を受け取り、理解できないことでも従っていきましょう。主が必ず従う力さえも与えてくださるからです。


■A:考えてみよう
主の声に敏感になれるよう、心を主に向けていきましょう。
御言葉に聴き従う力を主から受け取っていきましょう。御言葉に飢え渇いていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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4月28日(火)のつぶやき

2015年04月29日 01時42分36秒 | キリスト教
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◆イスラエルの全家は鉄面皮で、

2015年04月28日 16時01分50秒 | 聖書

心がかたくなだからだ。(エゼキエル三・七)

これに例外はないのか。ないのである。一人もない。神の御愛を豊かに受けた民族についてさえ、このように書いてある。最善の民族がそのように悪いとすれば、最悪の者はどのようであろう。私の心よ。この普遍的非難にどれだけ思い当たるかを考えよ。そして、おまえに罪のある点において、その恥を負う覚悟をせよ。
まず第一の非難は鉄面皮である。すなわち、無神経で、恥知らずで、悪に対してずうずうしくなっている。私は回心以前には、罪を犯しても良心の責めを感じず、自分の罪を人から指摘されても、なお高慢であった。そして罪の告白をしても、そのために屈辱を感じることがなかった。罪人が神の家に行って祈り、賛美をすることを装うのは、最も悪質な鉄面皮を示すものである。生まれ変わった後にも、神の面前で神を疑い、つぶやき、だらしない態度で礼拝し、罪を犯しても嘆き悲しむことがなかった。もし厚顔無恥でなかったら、私はもっと聖い恐れをもち、さらに深い悔い改めの念を抱いたはずである。ああ、なんということか。私はイスラエルの家の一人のように鉄面皮なのである。
第二の非難はかたくなである。この点においても、私はあえて無罪を主張してはならない。かつて私は、石のような心のほか何ももっていなかった。そして恵みによって、私は今柔らかな心をもっているが、以前のかたくなさがまだたぶんに残っている。イエスの死によって当然受けなければならない影響をまだ受けておらず、友の滅亡や、現代の邪悪、また天の父の懲らしめ、私自身の失敗によって当然心を動かさなければならないのに、まだ動かされていない。おお、もう一度救い主のお苦しみと死を思い起こすことにより、私の心が柔らかくされるように。ああ、神様。このうちなる石臼、この憎むべき死のからだを取り去ることができるなら……。主の御名はほむべきかな。この病は不治ではない。救い主の尊いご宝血はすべてにわたって有効である。そして、私のような者すら柔らかくされ、私の心は炎の前のろうのように溶けるであろう。

 

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「主を待ち望め。その道を守れ。

2015年04月28日 16時00分55秒 | 聖書

そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる」(詩篇37:34)

よく難しい事の中の一つが、「待つ」ことだと言われる。
あなたもそうだろうか。
ファーストフードを食し、自販機ですぐにジュースが飲め、コンビニは24時間開いていて、いつでも、すぐに物が手に入る。
各自が携帯を持ち、連絡も即取れる。
世界中リアルタイムでメールが行き交う。便利な時代になった。
すぐに欲しいものが手に入るので、「待つ」ことは本当に難しい。
待てない。信仰生活でも、すぐに行動に移りたい。
すぐに目に見える結果が欲しいのだ。
今すぐに欲しい物を手に入れたい、持ちたい。
しかし、神は、神の前に座し、じっくり祈り、御声を聞いて、導きを確信して歩めと言われる。
導きを求め、確信するには、じっと御声に耳を傾ける時が必要であり、祈りが必要だ。
そうでなければ、自分の思いと力で、自分の判断で行動し、必ず失敗してしまう。
つまずいてしまう。誰しも肉の欲望があり、自分の思い通りにやりたい。
しかし、それなら肉に従い、サタンに従う事になってしまう。
神の栄光どころか、サタンに用いられてしまう。
あなたにも今、待ち望みが必要だろうか。
サタンは急かす、しかし神は導かれる。
焦りはサタンの誘惑だ。肉の思いに走らないために、サタンに欺かれないために、じっくり主を待ち望もう。
必ず御声をかけ、確信与え、導かれる。    
--------------------------
主は、尋ね求める者に進むべき道を教えられる。
目の前の状況や思いを脇に置きじっと主の導きを待とう。
主のご計画だけが完全だ。
待っている間も焦りや恐れから守られますように。

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今日の聖人の記念日

2015年04月28日 06時40分42秒 | キリスト教

聖ルイ・マリー・グリニヨン・ド・モンフォール司祭

1673年-1716年

 グリニヨン・ド・モンフォールは、フランス北西部の町で生まれた。敬虔で徳の高い両親に育てられ、イエズス会の学校で学んだ。哲学終了後、パリのサン・スルピス神学校に進み、司祭になった。厳格なヤンセニストに対して、人生の目的や信仰生活を人々に説いた。また聖母に熱心に祈っていた。

 グリニヨンは、『聖母に対する真の信心』『聖母の秘密』などの本を書き、聖母への祈りを広めた。

 1703年に、病人・貧しい人を世話する「英知修道会」を、翌年にはパリに「マリア宣教会」を創立した。

聖ペトロ(シャネル)司祭殉教者

1803年-1841年

 ペトロは、フランスに生まれた。早くから宣教師になることを志し、27歳のときに司祭となった。その後「マリスト会」に入会し、宣教師として大洋州に派遣される。その島は古い迷信の風習があり宣教がとても難しかったが、現地の人に溶け込み、島の王子に洗礼を授けた。しかし、そのことで王の怒りをかい捕えられ、37歳の若さで殺害された。



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◆他人をうるおす人生

2015年04月28日 06時39分08秒 | 聖書

おおらかな人は肥え、
人を潤す者は自分も潤される。   (箴言一一25)

現代人が見失っているものは、この「おおらかさ」ではないでしょうか。来客があっても、十分な時間をとって話を聞いてあげられません。また、ゆっくりと人を訪ねるゆとりもない状態です。みな時計のまわりにはめこまれたようにスケジュール第一で、仕事や時間にがんじがらめになっています。私自身、耳が痛いのですが、私たちはおおらかさを失ってしまったのではないでしょうか。
昔の人は、たゆたわず、たゆみなく流れる川を見て感嘆しました。川は、こだわりなく流れて、他をうるおします。昼夜を分かたないおおらかさです。
私たちの人生は、いつもうるおしてやまない川のようでありたいものです。おおらかで、よく働き、文句を言わず、こせこせせず、他人から信頼され、他人をうるおして恩に着せず、自らも豊かに生活しています。人々のまさつも解消し、あの人と話していると心がなごむというようなおおらかさ、それはどこから来るのでしょう。その人生は、すべての豊かな祝福の源である神につながっているのではないでしょうか。ダビデは神に向かって、「いのちの泉はあなたにある」(詩篇三六9)と言いました。
また、神につながるばかりではなく、この自分というものを終点にしません。自分のところで、せきやダムをつくって神の祝福をストップさせない生き方ではないでしょうか。
イエス・キリストは言われました。「私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ四14)、「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(七38)。

 

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どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。

2015年04月28日 06時38分11秒 | 聖書

◆あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。(詩篇一一九・四九)

あなたがどのような特別な要求をもとうと、それにふさわしい約束は容易に聖書の中から見いだせる。道が険しいために気力を失い、弱さを覚えているか。ここにあなたへの御約束がある。「疲れた者には力を与え……。」それを携えて、約束を告げた偉大な方のもとへ行き、御約束の実行を求めよ。
キリストを求め、さらに密接な交わりを渇き求めるか。あなたの上に星のように次の御約束が輝いている。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」この御約束を幾度でも御座に携えて行け。根気よく神のみもとに行き、「あなたのしもべへのみことばを思い出してください」と告げよ。
罪のため、不法の重荷のために苦しむか。それなら、次のみことばに耳を傾けよ。「わたし、このわたしは……あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」あなたには罪の赦しを求めるだけの功績は何もないが、書き記された神の御約束に基づいて嘆願せよ。そうすれば神は実行されるだろう。
あなたは初め自分を神の子と思っていたのに、いつか捨てられてしまうのではないかと恐れるか。それなら、次の恵みのみことばをもち、御座に行け。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」
救い主の臨在の実感を失い、悲しみの心を抱いて主を探しているなら、次の御約束を思い出せ。「わたしに帰れ。……そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。」「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。」
神のみことばであなたの信仰を満たせ。あなたの恐怖と欠乏がどれほど大きくても、あなたの父なる神の約束手形を携えて信仰の銀行へ行き、こう言え。「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。」

 

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第2列王記9章27-29節

2015年04月28日 06時36分22秒 | 聖書

9:27 ユダの王アハズヤはこれを見ると、ベテ・ハガンの道へ逃げた。エフーはそのあとを追いかけて、「あいつも打ち取れ」と叫んだので、彼らはイブレアムのそばのグルの坂道で、車の上の彼に傷を負わせた。それでも彼はメギドに逃げたが、そこで死んだ。



 ユダの王アハズヤは、北の国の王ヨラムを見舞いに来ていました。

彼も、ヨラムと同じような心で主に対しての歩みをしていた人物でした。

ヨラムが、エフーの反乱に気がついた時、彼はアハズヤに向かって、「アハズヤ、悪巧みだ。」と叫びました。

そこで彼も、自分の身が危うくなると思って逃げ出しました。

エフ-は逃げる彼を追い、兵士達に彼を討ち取れと命じました。

そしてグルの坂道で、彼に傷を負わせました。

その結果、王はメギドに逃れたのですが、その地で、受けた傷のために死んでしまいました。

彼の母は北王国のオムリの孫娘で、その影響を受けて彼もアハブの道に歩み、主の前に悪を行っていた人物でした。

その悪の故に今、こうして滅ぼされていったことを告げているのです。

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1列王記15:3,5

2015年04月28日 06時34分07秒 | 聖書

★彼は父がかつて犯したすべての罪を行ない、彼の心は父ダビデの心のようには、彼の神、主と全く一つになっていなかった。

それはダビデが主の目にかなうことを行ない、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられた全てのことにそむかなかったからである。


■O:今日のコラム
列王記を読んでいると、ダビデに対して「ダビデが主の目にかなうことを行ない」と書かれ、また3節を読むと「ダビデの心は主と一つになる心」だったことが分かります。英語でダビデのことをman after God’s own heart(神の心を追い求める人)と良く言われるのもダビデがどのような人物であったかを理解することができます。

2歴代誌16章9節には、「主はその御目を持って、あまねく全地を見渡し、その心が全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです…」と書かれています。

神様の心と一つになるためにはどうしたら良いでしょうか?

1 御言葉を読み、主の心を求める。神様の心を知るには、聖書を読むこと、またその言葉を探り求めることが不可欠だと思います。御言葉の中に神様の心が記されています。それを読み、聖書がなんと言っているかを知ることは大切だと思います。ビル・ジョンソン師も日々御言葉を浴びるように聞くことを心がけていると言っていました。(ローマ10:17)また御言葉が理解できないこともたくさんあるので、神様に知恵と啓示の御霊を求め、真理を悟らせてくださるように求めることが大切だと思いました。(エペソ1:16,箴言25:1)

2 心の一新によって自分を変える。良く言われることですが、この「心」とは、原語だと「nous」。訳すと知性とか理解と訳される。戦場は頭の中で…自分の本当の敵は自分と言われますが、私たちの考え方が神様の御言葉と一つになっていない時、私たちの中に葛藤が生じます。私たちが御言葉を悟り、御言葉と一つになるなら私たちの心に平安がやってきます。私たちの考え方、理解が変えられることを求めましょう。御言葉と思いが一つになることを求めていきましょう。


■A:考えてみよう
神様の心と一つになることを求めて行こう。


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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4月27日(月)のつぶやき

2015年04月28日 01時45分27秒 | キリスト教
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「あなたがたのからだを、

2015年04月27日 17時59分59秒 | 聖書

神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)

あなたも経験するだろうか。神の御心がなりますようにと祈りつつも、自分の思いと自分の願いで一杯で、建前は神の御心だが、本音では全くそうではなかったりする。
しかし、反抗する気など全くなく、一応は御心がなりますようにと思っているので、思っているだけに自分でも気づかない。
自分では真剣に祈っているつもりだが、後で振り返ると、委ねる事の意味もわかっておらず、神を信頼もしていなかったとわかる。
メッセージで、学びで、神に委ねる事の大切さを、しょっ中教えられるので、それが良い事と思い、そうしている「つもり」だが、実は自分の思いと自分の願望をしっかり握って放さない。
しばしば、自分がそうあればいいと思っている事を、実際そうだと勘違いする。
反抗したり、逆らっていれば、明らかにわかるが、逆らっているつもりはないので、わからない。
気づかない。何かが漠然とし、混沌としているのだ。
心に確信と満たしが無い。平安が無い。
それで自分でも、何かが違うと薄々感じている。
この問題点は、献げていないところにある。
決して自分を献げてはいない。
心の底を御霊で照らされる時に、献げていない自分を見い出す。
この事を認めることが前進のためのまず一歩だ。
握っているものがないか。
-----------------------
知識だけが増えて来るので敬虔ではないにしてもそれなりの信仰があるつもりでいる。
本当の自分の姿は見えているだろうか。
信仰は自分が神様に献げるものだ。
みんなと一緒に…はありえない。

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今日の聖人の記念日

2015年04月27日 06時09分12秒 | キリスト教

聖ジタおとめ

?-1278年

 ジタは、イタリアの貧しい家に 生まれた。父母の教えに従って、「心は神に、手は仕事に」をモットーによく祈り、よく働いた。13歳のとき裕福な家のお手伝いとなり、生涯そこで働いた。ジタは心やさしく、貧しい人にたびたび食べ物などを分け与えていた。あるクリスマスの夜に、凍えそうな老人に出会い、コートを貸した。実はその老人は天使であったと言われ、そのことによってますます彼女は、人々から尊敬されるようになった。

 ジタは60歳でその生涯を閉じ、遺体は彼女が祈りに通った聖フレディアノ教会に、今も横たわっている。

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◆豊かになる方法

2015年04月27日 06時07分57秒 | 聖書

ばらまいても、なお富む人があり、
正当な支払いを惜しんでも、
かえって乏しくなる者がある。    (箴言一一24)

私の尊敬している友人三浦綾子さんは、ある小説の最後に、「人間の価値を決めるものは、その人が地上でどんなに集めたかでなく、どれだけ散らしたか、ばらまいたかである」というようなことを書いておられます。それが私の心にこびりついています。
私たちはだれでも、豊かな人生を望んでいます。「お金も豊か、友達も大勢。いつもにぎやかに人が寄ってくるような、知識も力も豊かな人生」と。ところが、その豊かさの秘密は、受ける側になることではなく、与える側にまわることなのです。
札幌の町の真ん中を流れる川にサケがのぼってきたという話を聞きました。それは四年前に、五センチほどに育ったサケの子を惜しげもなく放流しておいたからでした。ところで、私がつりに行った時のことですが、四、五十匹の小ブナをつってきたことがありました。放してやるのが惜しくてなりません。小さな水槽に入れ、何とかして生かして人に見せてやりたいと努力しました。けれども、二、三日のうちに、酸欠でみな死んでしまいました。
私たちの神は、祝福しようとして待ち構えていらっしゃる神なのです。受けた祝福を惜しげもなく人に流していくと、より多くの新しい祝福を次々に送ってくださいます。自分のためにだけ祝福をためこむ人には、神は新しい恵みを注ぎこめません。今まで持っていたものまでくさって、どんどん貧しくなるのです。
使徒パウロは、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ローマ八32)と言いました。また、イエス・キリストご自身「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒二〇35)と言われたのです。

 

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◆神、

2015年04月27日 06時07分10秒 | 聖書

私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。(詩篇六七・六)

私たちが神の与えてくださる霊的祝福をほとんど活用していないのには、驚くほかはない。しかしさらに不思議なことは、私たちがほとんど神ご自身を活用していないことである。神は「私たちの神」なのに、私たちは神に注意を向けることが少なく、求めることも非常にわずかである。困難に会う時、重荷を主の肩に投げかけて支えていただこうとはせず、常に自分で重荷を担おうとする。私たちは故意に主の助けを仰がない。なぜなら主のほうでは「たましいよ。わたしはおまえのものだ。来て望むままに用いなさい。おまえは自由にわたしの倉庫に来ていいのだ。その回数の多いほど歓迎する」と言われるからである。神の富を自由に用いていないことは、私たちの過失なのである。
あなたはすばらしい友をもち、主はあなたを招かれる。だから、日々必要とするものを主から引き出せ。助けを得るために行くべき神がおられる限り、あなたは決して欠乏を感じないし、あなたを支えられる神がおられる限り、決して恐れや失望に陥ることはない。あなたの宝庫へ行き、必要なものを持ち出せ。神をあなたのすべてとすることを学べ。神はあなたにすべてのものを与えてくださる。さらに適切な表現をすれば、神はあなたのためにすべてのものの代わりになられる。そのゆえに、あなたの神を利用するようにお勧めする。祈りにおいて利用せよ。しばしばみもとに行け。主はあなたの神であられる。
神のみもとに急いで行き、必要の一切を訴えよ。暗黒の運命があなたを閉じ込めたなら、あなたの神を「太陽」として用いるようにせよ。敵があなたを襲うなら、主をあなたの「盾」とせよ。主はその民にとって太陽であり、盾である。あなたが人生の迷路で行く道を見失ったら、主を「道案内」とせよ。主はあなたの導き手である。あなたが何者であろうと、またどこにいようと、神は、あなたが求めるそのものであり、あなたが求めるその場所におられ、あなたの願う一切をなすことのできるお方であることを記憶せよ。

 

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