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◆私は知っている。

2017年04月21日 11時39分17秒 | 聖書
私を贖う方は生きておられ……。(ヨブ一九・二五)
ヨブの慰めの中心は、「私を贖う方」の「私」の一語であり、その贖い主が生きておられるという事実に基づいていた。私たちは主との交わりを楽しむ前に、主が私たちのうちにおられることを悟らなければならない。鉱山に埋もれている黄金が私にとって何になろう。実際、パンを買い私の必要を満たすものは、私の財布の黄金である。だから私を贖わない贖い主、私の血に対して報いてくれない復讐者がいたとしても、それが何の益になるだろう。あなたが信仰により、「私は自分を生ける主にゆだねる。主は私のものである」と言い得るまでは満足してはならない。あなたはおそるおそる主をとらえており、「私の贖い主は生きておられる」と言うのは、ずうずうしいと思っているかもしれないが、もしからし種ほどの信仰があるならば、その小さな信仰がこのことばを語る資格をあなたに与えることを覚えよ。
また、ヨブの確信を表明するもう一つのことばがある。それは「私は知っている」である。「私は望む、私はより頼む」と言うのも結構であり、イエスの城の中にも、これ以上進めない人は数限りなくいる。しかし慰めの真髄に達するためには、「私は知っている」と言わなければならない。「もしも」「けれども」「たぶん」などのことばは、平安と慰めを殺す。キリストが私のものであることを少しでも疑っているなら、それは死の苦みを混ぜたぶどう酒のようである。しかしイエスが私のために生きてくださることを知るならば、暗やみは暗やみでなくなり、夜も昼のように輝く。
キリストが来られる以前の時代に、ヨブは「私は知っている」と言うことができた。私たちは決してそれ以下であってはならない。確信は思い上がりではない。基礎のない希望の上にではなく、正しい証拠の上に立とう。しかも単に基礎を得ただけで満足してはならない。なぜなら高い建物の上からであれば、はるかに遠くを展望することができるからである。生ける贖い主が「私のもの」であることは、言い表すことのできない喜びである。
 
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