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使徒の働き2章17節~21節(エレミヤ2章)

2017年03月02日 06時40分16秒 | 聖書


★『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』

■O.今日のコラム
今日の箇所は、個人の約束や願いを超えて、終わりの時代に約束された神様の計画であると思います。(この箇所は私たちの教会の年間聖句です。)
新年の礼拝でこのみことばを共に受け取りましたが、その時に、「若者の集会に行けば、若者に主が注がれると言い、子どもの集会にいけば、子どもからリバイバルがはじまると言い、老年の集会では、成熟した世代こそ用いられると言われますね。全部真実です!」とおっしゃっていて本当にその通りだなと思いました。
私たちは、自分だけでなく、また自分は関係なくて他人がでなく、全てのクリスチャンが神様の霊を受け取り栄光を現していく世代となる必要があります。
終わりに用意されている主のご計画は総動員でなされるものだと信じます。幼子も学生も社会人も、主婦も、老人も誰一人招かれていない人はいません。救われたばかりの人も、また長年クリスチャンを送っていた人も関係ありません。
全ての人に主の新しい生きた霊が注がれるのです。生きているかたに私たちは仕えているのですから、日々新しい霊を受け取っていく必要があります。

ここで、主の霊を注ぐと言われたのは神様ですから、神様に主権があることを覚えましょう。
「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11:36a)
スタートも神様で、完成されるのも神様です。すべてが神様の御手の中です。
以前夢を見ました。小さなお皿を用意して座っている自分が見えました。おいしそうな料理がたくさん配膳されているのに、小さなお皿しかもっていなかった私には、少しの食事しか盛られなかったというような夢で今も覚えています。
神様は良いものをいつもいつも注ぎたいと思っておられるのです。それなのに、どれだけ自分の器が小さいか思わされ悔い改めました。自分の小ささの中に神様を入れるなんてなんて神様に対して失礼なんだろうと思います。
神様を私たちの中で制限することをせず、神様の偉大さを見上げていきたいと思わされます。自分の状況や見えるところを見つめたり、自己卑下をするのでなく、神様にひれ伏し、主権を認め、偉大さを見つめることがへりくだる心だと思います。

器を広げることと同時にもう一つ。「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」(マタイ9:17) 
器に主の注ぎを受けるためには器の中をからっぽに(新しく)する必要があると思います。
「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」(箴言1:23)
これは、シューブ、悔い改めのことをさしていると学びました。
いつも自分でいっぱいにせず、本当に自分が砕かれ主にあって新しくされる中で主が、主の霊が注がれるのです。一人一人のクリスチャンがみことばにあって新しくつくり変えられること、リバイバルされていくことを通して豊かな主の霊が注がれるのです。

神様の主権の中、御手の中で、私達の聞き従う、つくり変えられる歩みがあり、その先に神様と一緒に見る、一緒に達成する主の約束の成就が待っていると信じます。

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」(イザヤ61:1)

■A.考えてみよう
神様に期待するこころはありますか?制限していませんか?
神様はよいお方です。主の素晴らしさを宣言しましょう。神様をほめたたえる時間を持ちましょう。

また、神様だけにお任せしていませんか?今日もそれぞれ与えられたみことばに従順する歩み、みことばによって自分がつくり変えられる時間を持ちましょう。

そして今日は特に今日の聖書箇所を宣言する時間をもちましょう!

私たちは神様からの約束や計画を受けとっていても、それが成就するまで何度も何度も宣言し、信じ続ける必要があります。しかし目に見える状況や環境がそうでない場合、はじめの情熱や志がどんどん小さくなっていくように感じることもあると思います。そのようなシーズンを通ることもあるでしょう。
そうなることが駄目なのではなく、それをどう乗り越えていくかを神様は見ておられると思います。乗り越えていく方法、立ち上がる秘訣はみことばです。死んだような状態に何度もいのち与えることができるもの、それはみことばです。聖書のみことばによって私たちは何度でも、生きた言葉を受け取り、生きた信仰をもち、その約束を握り続けることができるのです。
見える事実でなく、見えない真実に目を留めたいと思わされます。

■P.祈り

愛するイエス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。

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