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◆だから、こう祈りなさい。

2016年10月29日 09時23分24秒 | 聖書
「天にいます私たちの父よ……。」(マタイ六・九)
真の祈りは、主のすべての祈りのように、子が父に呼びかける心、すなわち「私たちの父よ」で始められなければならない。私たちが「立って、父のところに行って……」と言い得るまでは、神に受け入れられる祈りは出てこない。子どものように単純な心はすぐに、「天にいます」父の荘厳さを見させ、「御名があがめられますように」という真心のこもる崇敬を上らせる。「アバ、父」という子どもの片言が成長して、「聖なる、聖なる、聖なる」というセラフィムの叫びとなる。
全心全霊をもってする礼拝から、燃えるような宣教精神までの距離は、わずか一歩にすぎない。この宣教精神は、神への愛と、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と敬虔に主をあがめることの必然の結果である。
次に心からの神に対する信頼が続く。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」
彼は主に依存しているだけでなく、さらに聖霊の光に照らされる時、自分の罪深さを発見するので、次のようにあわれみを願う。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」
そして、罪赦され、キリストの義を着せられ、神に受け入れられたことを知り、彼は常に聖くあることをへりくだりつつ懇願して、「私たちを試みに会わせないで……」と言う。真に罪赦された者は、再び罪を犯すのではないかと恐れる。義とされた者は聖くなろうとする。「私たちの負いめをお赦しください。」これは義認である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」これは消極積極両面の聖潔である。
以上の結果として次の賛美のことばが続く。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」私たちは、私たちの王が摂理の中に支配されること、やがて、恵みによって地の果てに至るまで統べ治められ、その統治の尽きないことを喜ぶ。
 
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