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◆ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、

2017年04月06日 06時15分52秒 | 聖書
宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(ヘブル一三・一三)
イエスは十字架を担い、苦しむために門の外へ行かれた。クリスチャンが世の罪と邪教の宿営の外に出て行くのは、弧独を愛するからではない。イエスがそのように要求され、弟子はそれに従わなければならないからである。キリストは「世のもの」ではなかった。そのご生涯を通して、またその証しによっても世との妥協を常に反対しておられた。イエスのように罪人に対していつくしみ深い方をほかに見ることはできない。しかし、イエスは罪人から聖別されていた。
同様な意味において、主の民は「みもと」に行かなければならない。「宿営の外」にいて真理の証人にならなければならない。まっすぐな狭い道をたどって行く覚悟がなければならない。決然と大胆に、獅子のような心をもち、まずキリストを愛し、次にキリストの真理を愛し、キリストとその真理を世のすべてにまさるものとしなければならない。
民が「宿営の外に出る」のを主がお望みになったのは、彼らが聖化されるためである。世と妥協している限り、あなたは恵みの中に成長することができない。旗色を鮮明にした生涯は悲しみの道であるかもしれない。しかしそれは安全の正道である。聖別された生涯はあなたに多くの苦痛を与え、日ごとに戦いがあるかもしれない。しかしそれは幸福な生涯である。キリストの兵士にまさる喜びはない。イエスはその兵士にあわれみ深くご自身を現し、力づけてくださるので、彼らは日ごとの戦いの中にありながらも、休息している者にまさる静けさと平安を身にしみて感じる。聖潔の正道は霊の交わりの正道である。
こうして、もし私たちが恵みによって忠実に「宿営の外」までキリストに従うならば、冠を得る望みを抱くようになる。栄光の望みは聖別の十字架に続く。一時の恥辱は、永遠の名誉により豊かに報いを受け、今しばしの証しの時は、永遠の主と共なる時に比べれば何でもないことである。
 
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