聖パウロ(十字架の)司祭
1694年-1775年
パウロは、イタリア、ピエモンテ地方オヴァダの商人の家に生まれ、信仰厚く育てられた。1720年、自分の使命は、キリストの受難に示された神の愛を人びとに伝え、その苦しみを自分たちの生活とする修道会「御受難会」を創立することであると悟った。33歳でに司祭に叙階され、43歳になったとき、仲間とともに修道会の誓願を立てた。「十字架につけられたキリストを宣教する」をモットーに説教をして回り、多くの人びとを感動させ、信仰に立ち返らせた。その後、1771年に女子修道会も創立し、12の修道院を建てた。
彼は、「イエス・キリストのご受難と聖母の苦しみ、それは私の唯一の希望です」と言って静かに息をひきとったといわれる。
聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者
17世紀
聖イザーク・ジョーグ、聖ヨハネ・ブレブーフ司祭と同志殉教者は、1642年から1649年にかけて、カナダで殉教した8人のフランス人イエズス会士たちである。
1636年、イザーク・ジョーグ神父は「カナダの先住民族の人びとに、福音を知らせたい」と、ヨハネ・ブレブーフ神父、そして仲間といっしょにカナダのケベックに出発した。彼らは命の危険にさらされることも覚悟の上で、現地のイロコイ族、ヒューロン族の文化を尊重しつつ、彼らと生活をともにした。また、ヒューロン語を学んで、カテキズムや辞書を編纂するなどして、宣教した。
ヒューロン族はたびたびイロコイ族と戦い、ジョーグ神父はイロコイ族に捕らえられ、13ヶ月投獄された。彼は仲間たちとともに、村から村へと連れて行かれ、拷問を受けた。また、ヒューロン族の改宗者が拷問を受けて、殺害されるのを目の当たりにした。
その後、オランダからの思わぬ助けによって、ジョーグ神父は拷問の傷を受けた体で、フランスに帰国した。神父は人々から英雄として迎えられたが、彼は「ヒューロン族のために働きたい」という夢を捨てきれず、数ヶ月後またカナダに旅立った。
しかしカナダでは部族間の争いが絶えず、8人のイエズス会士たちは、イロコイ族に捕らえられて、残酷な拷問の末に殉教した。彼らの証しはイロコイ族の人びとの心に刻み込まれ、こうしてキリスト教はカナダの地から消え去ることはなかった。そして、10年後にキリストの教えは人びとから受け入れられるようになった。
この8人の勇気ある宣教者たちは、1930年に教皇ピオ11世によって列聖され、教皇ピオ12世は、「カナダの保護聖人」と定めた。
福者ティモティオ・ジャッカルド司祭
1896年-1948年
1896年1月13日にクネオ県のナルツォーレに生まれた。彼は12歳のとき、ナルツォーレに派遣されたアルベリオーネ神父と出会った。当時、助任司祭だった神父は、信心深く、賢明で活発なジャッカルドに深い印象を受け、神父の世話でアルバ神学校に入学した。出版の使徒職に興味を持ち、1917年、アルベリオーネ神父が創立した聖パウロ修道会に入会し、2年後に司祭に叙階された。
柔和で勤勉、忍耐深かった彼は、記事の執筆、編集をはじめ、志願者たちの養成、会計係や院長の役も担った。修道会の初期は、人びとからの無理解と経済的困難に遭遇したが、アルベリオーネ神父の片腕となって、兄弟たちを導き、修道会の土台を築いていった。特にマリアへの深い信心を持ち、謙虚で従順な彼は皆から愛された。
アルベリオーネ神父が創立した聖パウロ女子修道会、師イエズス修道女会の聖座法による認可にあたって、父親のように献身した。
1948年1月12日、師イエズス修道女会が教皇直轄修道会として認可されたが、このころ、彼は急性白血病と診断された。12日後の1月24日、アルベリオーネ神父やシスターたちの見守るなか、祈りのうちに天の国へと旅立った。
1989年10月22日、聖パウロ修道会創立75周年の年に、ローマの聖ペトロ大聖堂にて、教皇ヨハネ・パウロ2世により、列福された。