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テトス2章14節

2017年07月27日 06時27分51秒 | 聖書


★キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。


■O:今日のコラム
私たちの愛する主イエス・キリストは、愛する私たち一人ひとりが神のきよさ・神のみたけにまで達するために、ご自身の命を贖いの代価として捧げられました。その贖いのために十字架に架けられたイエス様を見上げる時、 私は涙が出てきて、感謝の祈りがこみ上げてきます。そしてこの贖いは私のため、イエス様は私の身代わりとなって死んでくださったという告白が出てきます。

しかし、ある時それだけでは十字架の贖いのおもてしか私は理解していないのではないか、と思うようになりました。なぜならガラテヤ2章19~20節には、
「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」と書かれているからです。

つまりイエスキリストは私のために十字架につけられましたが、私も主とともに十字架につけられたということです。この真理が頭の理解ではなく、心深くにストンと落ちるように理解するようになりました。

当然私はもうこの真理を捕らえた、完全に理解したとは思っていません。事実、まだまだ悟りきれていない、真理に到達することのできていない領域があります。しかしながら、私の中で御言葉と御言葉が一つになっていくとき、私の中にはもっともっと真理が知りたい、もっともっと御言葉が受肉されて御言葉を行う者になりたいという飢え渇きと願いが起きます。

そのように祈り、御言葉を黙想しているとき、「苦しみ」について主が語っているように感じました。私の個人的な見解ですが、苦しみには2つあると考えています。それは罪を犯したがゆえに打ちたたかれて受ける苦しみと、不当に受ける苦しみです。どちらも苦しみですが、前者は受けるべき苦しみつまりは刈り取りであり、後者は受けるべきでない苦しみです(1ペテロ2:19-24参照)。

前者に関しては、言い訳はできないと思います。なぜなら自分という自我のゆえに、受けるべくして受けるものだからです。私たちの神様は誘惑される方ではありません(ヤコブ1:12-15参照)。

しかし私はいつの間にか、自分の苦しみを「不当な苦しみ」として取り扱ってきたところがあったと思わされました。まるで信仰の試練であるかのように、自分がキリストの苦しみを通っているかのように思っていました。本当に私はどれほど愚かで、わきまえのない者かと思いました。だからこそ自分を点検して、悔い改めに入っていくときこそ、罪について義についてさばきについて教えてくださる聖霊様がいなければ、私は真に悔い改めることはできないと激しく思わされます(詩篇51:6、箴言1:20-33、ヨハネ16:7-8参照)。

私たちはキリストと共に共同相続人ですから、キリストにある苦しみ、つまり十字架の道を歩む必要があります(ローマ8:17参照)。イエス様は罪人ではありませんでした。すなわち十字架に架かる必要は全くありません。恵みを受けるに値しない私たちのために、受けるべきでない苦しみを通られました。このことを私は本当に分かっているのか、何回も自問自答しました。聖霊様にあって祈る中で「キリストの道を行かせてください。」、「十字架の道を行きます。」という言葉を決まり文句のように祈っていた私がいることに気づかされました。本当に主の御前に悔い改めるべきは私です。

そのようにわきまえのない私を、父は愛する子として取り扱ってくださり、私の中にある自我・罪・汚れを、懲らしめを通して明らかにして、それらを捨てさせ、主のように生きる者へと造り変え続けてくださっていることを覚えます。この大きな大きな恵みを心から感謝します。私たちは幼子としての子で終わりではなく、成熟した子へと成長するように召されています!(ヘブル12:4-13参照)

テトス2:11~13によれば、「恵み」は、私たちに不敬虔とこの世の欲を捨てること、慎み深く、正しく、敬虔に生活すること、祝福された望み、すなわち顔と顔を合わせて主に出会うその時を待ち望むように、教えさとすものです。つまり悔い改めと祈りと御言葉に励み、地の塩・世の光として歩み、再臨の希望を持って進むことです。

そのように歩むために、私たちを主のきよさへと至らせる神の力である恵みを受け取っていこうではありませんか。そして主と共に十字架につけられ、葬られ、復活の恵みにあずかっている者として、キリストの苦しみをも通る者として歩んでいこうではありませんか。



■A:考えてみよう
レビ記19章2節には、「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」と書かれています。私たちは自分の努力によっては神様のきよさに到達することは不可能です。ですから主の聖さにあずかるためには、主の前に出るしかありません。なぜなら主の聖さは主から来るからです。

今日も主の前に出て、主の愛をまず初めに受け取りましょう。そして聖霊様を歓迎し、御言葉によって自分自身の心を探っていただきましょう。もし示されることがあるならば、それを悔い改めましょう。そして赦し変わらず愛してくださる主に感謝を捧げましょう!

また導かれるならば、私たちが受けるべき苦しみと同時に、「イエス様のように、受けるべきでない苦しみという十字架の道を歩まさせてください」と祈り、その決心を主に捧げましょう。




■P:祈り
愛する父なる神様、イエス様、聖霊様、あなたの御名をほめたたえます。今日も生かされていることを心から感謝します。

主よ、私は自分の自我が招いた苦しみを、あたかも信仰の試練として、またキリストの苦しみを通っているかのように考え、生きていたことを認めます。自分の苦しみをそれ以上の何かりっぱな苦しみを通っているかのように考え、生きていたことを認めます。そして主よ、それらを悔い改めます。今日方向転換させてください。あなたが私の主であり、神であり、王であり、救い主であることを宣言します。私の心の王座を主が治めてください。

そしてイエス様、あなたがこの地上で受けるべきでない苦しみを通り、十字架に架かられたことをより深く理解させてくださって、その道を歩む決心と行いをすることができるように、聖霊様助け導いてください。私が苦しみを避けることなく、それから逃げることがありませんように、弱い私を助けてください。

これからは苦しみを誇張することをせず、イエス様、あなたが残されたその足跡に従って主と共に歩むことを決心しますから、どうぞそのように一歩一歩進めるように私に力を与えて導いてください。あなたに留まり続けることができますように。

今日という日に御声を聞き、主のために実を結ばさせてください。私はあなたに愛され、あなたを愛する者です。あなたのために生きます。

愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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