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◆見よ。

2016年11月07日 11時19分29秒 | 聖書
わたしは手のひらにあなたを刻んだ。(イザヤ四九・一六)
「見よ」ということばの中に表れている神の驚きは、その一部が前の句にある不信仰への嘆きから来ている。シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。この不信仰のことばを聞いて、神はどんなに驚かれたことであろう。神の愛された民の口から出る根拠のない疑いや恐れほど、驚くべきものがあろうか。
主の優しいお叱りのことばを聞くと、私たちは赤面する。主は、声を大にして言われる。「わたしは手のひらにあなたを刻んだのに、どうして忘れることができようか。おまえの思い出がわたしの肉に刻まれているのに、どうしてわたしが常におまえを思っていることを疑うのか」と。
不信仰な者よ。あなたはなんと不可解な人間か。私たちは神の誠実とその民の不信仰とのどちらが驚くべきものであるかを知らない。神はこれまで、数え切れないほど多くの約束を守られた。それにもかかわらず、次の試練が来ると私たちは神を疑う。神は決して失敗されない。神は決して、空井戸、落日、流星、またかげろうのようなお方ではない。それにもかかわらず私たちは、あたかも私たちの神が砂漠の蜃気楼ででもあるかのように思って、悩み、疑い、かつ恐れている。
「見よ」ということばは、驚嘆を呼び起こすために発せられたことばである。事実ここには、私たちにとって真に驚きに値することがある。私たち反逆者が、神の手のひらに刻まれるほどに無限の愛をもっておられる神に近づけられるとは、天地が驚嘆したとしても無理のないことである。ここには「わたしはあなたを刻んだ」とあって、「あなたの名前を」とは記されていない。もちろん名前も刻まれているであろうが、それだけではない。「わたしはあなたを刻んだ」のである。このことばの含む完全性を見よ。「わたしはあなたの人格、姿、事情、環境、罪、誘惑、弱さ、欠乏、働きを刻んだ。わたしはあなたを刻んだ」と言われるのである。神がこのようにあなたを手のひらに刻んでおられるというのに、あなたはなおも、主は私を捨てられた、と言うのか。
 
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