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◆信じる者はみな、

2017年05月15日 06時27分00秒 | 聖書
この方によって、義と認められるのです。(使徒一三・三九欄外注)
キリストを信じる者はただちに義と認められる。信仰はだんだんに義の実を結んでいくのではなく、今、実を結ぶのである。義認は信仰の結果であるから、たましいがキリストに近づき、キリストをすべてのすべてとして受け入れた瞬間に与えられる。神の御座の前に立つ者は、今、義と認められているのであろうか。そうだ。そして私たちも同様に義と認められている。
私たちは、白い衣をつけて歩み、天上のたてごとに合わせて美しい賛美を歌う彼らと同様に、真実に、また明白に義と認められている。十字架上の犯罪人は、信仰の目をイエスに向けた瞬間に義と認められた。そして長年伝道のために辛苦の生涯を送った老パウロでも、何の奉仕もしなかった犯罪人以上に義とは認められなかった。
私たちは、今日愛する御子によって受け入れられ、今日罪を赦され、今日神の法廷から無罪放免されているのである。ああ、心の躍る喜びではないか。エシュコルのぶどうの木には、私たちが天国に入るまでは取ることのできないふさがある。しかしこの恵みは、塀を越えて外に出ている枝である。これは、私たちがヨルダンを越えなければ食べることのできない穀物ではなく、荒野の中のマナであり、あちこちと旅をする私たちに神が与えてくださった食物である。
私たちは、今という今、罪を赦され、今、罪を取り去られ、今、これまで一度も罪を犯したことがないのと同じ状態で受け入れられている。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」神の書の中には、神の民を断罪する罪は今は少しもない。
あえて神の民を告発しようとする者はだれか。義とされて神の民となった以上はだれであっても、全地のさばき主の前に一点のしみもしわもない。この今の特権が、私たちを今の義務に目覚めさせてくださるように! この世に私たちが生きている限り、自分の生涯を愛する主のために使い果たそうではないか。
 
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