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◆私の不義と罪とはどれほどでしょうか。

2017年07月06日 17時56分32秒 | 聖書
(ヨブ一三・二三)
あなたは、神の民の罪がどれほど大きいものかを実際に量り、また考えたことがあるか。あちこちに罪が高山のようにそびえ立っているばかりか、あたかも、昔のおとぎ話で大男が山の上に山を積み重ねるように、あなたの不義も重なりあっていることを発見するだろう。神の子らのうち、最もきよめられた者の生涯でも、どれほど大きな罪の山があることだろう。この一人の罪に、「数えきれぬほどの大ぜいの群衆」と記されている贖われた者の数を乗ずるならば、あなたは、イエスが血を流された人々の罪の巨大さについて、多少とも理解できよう。
しかし、私たちは、そのために備えられた救いの手段の大きさを見ることで、罪の膨大さをさらによく知ることができる。それは、神の愛されたひとり子イエス・キリストの血である。神の御子! 天使たちは自らの冠を彼の御前に投げ捨てた。すべての天の合唱隊のシンフォニーは、その栄光の御座をとりまいていた。「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」それにもかかわらず、主はしもべのかたちをとられ、むち打たれ、槍で刺され、傷つけられ、引き裂かれ、そしてついに殺された。受肉された神の御子の血潮のほかに、何ものも私たちの罪過を贖うことはできないからである。どんな人も、この神の犠牲の無限の価値を正しく量ることはできない。なぜなら神の民の罪は大きいが、それを取り去る贖いははるかに大きいからである。
信者よ。たとえ罪が黒い洪水のように寄せてきても、そして過去の思い出が苦いものであっても、あなたは大いなる聖い神の輝く御座の前に立って、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」と叫ばないであろうか。罪の思い出は信者を恥と悲しみで満たすが、同時にそれは、あわれみの輝きを示す引き立て役となる。罪の暗やみの中に、神の愛の美しい星がきよらかに輝いている。
 
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