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◆私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、

2016年10月14日 09時47分24秒 | 聖書

いっさいのことを損と思っています。(ピリピ三・八)

キリストに関する霊的な知識は個人的な知識である。私は他の人が主を知っているその知識によって主を知ることはできない。私は自分自身で主を知らなければならない。
それは理知的な知識である。私は幻や夢の中で主を知るのではなく、みことばが啓示する主を知らなければならない。私は主のご性質、その神性、および人性を知らなければならない。私は主の職分――その徳、働き、恥辱、栄光――を知らなければならない。私は、「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知る」に至るまで、主について黙想しなければならない。
それは主についての熱愛の知識である。事実、もし私が主を知るならば、主を愛さずにはおられない。一グラムの心の知識は、一トンの頭の知識に相当する。
主についての私たちの知識は満足を与える知識である。救い主を知る時、私の心は縁まで満たされる。たましいがあえぎ求めてきたものを得たことを感じる。
同時にそれは刺激的な知識である。愛する主について知れば知るほど、私のうちにさらに知りたいという思いが起こる。高く登れば登るほど、私を招く山頂はさらに遠く見える。多くを得れば得るほど、私はさらに多くを得ることを願うであろう。
要するにこれは、キリスト・イエスを知る知識が、最上の幸福だからである。事実この知識は、私を高めて、時にはすべての試練、すべての疑惑、すべての悲哀を完全に超越させる。なおその知識は、私がそれを楽しむ時、私を「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです」という人以上の何ものかにするのである。なぜなら、それは永遠に生きる救い主の不朽のいのちを私の周りにまき散らし、主の永遠の喜びの金の帯を、私にまとわしめるからである。
 
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