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◆私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

2012年01月29日 11時43分47秒 | 聖書

◆私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。(Ⅱコリント四・一八)

クリスチャンの歩みにおいて、前を見つめていることはよいことである。冠は未来にあり、ゴールは前方にある。それが希望であろうと、喜びであろうと、慰めであろうと、私たちの愛を奮い立たせることであろうと、信仰の目をもって見る主な対象は、未来でなければならない。前途を望んでこそ、私たちは罪をきよめられ、罪と死のからだが滅ぼされ、たましいが完全な者とされ、光の中にある聖徒たちの資産を受け継ぐにふさわしいものとされるのを見ることができる。
さらに前方を眺めるなら、信者の輝いた目は死の川を横切り、悲しみの川を渡って、天の都の建てられている光の丘に到達する。彼は真珠の門をくぐり、圧倒的な勝利者として歓呼を受け、キリストの手から冠を授けられ、その腕に抱かれ、イエスとともに栄光を受け、共に王座に座る。それはちょうどイエスが勝利を得て、父なる神とともに御位に着かれた時のようだ。
このすばらしい未来を考えると、過去の暗黒も現在の憂いも消えてしまう。天上の喜びは地上の悲しみを償って余りあるものである。恐れの思いよ、静まれ。この世はつかの間であり、まもなくそれを通過することになる。疑いよ、退け。死は狭い流れにすぎず、すぐにそれを横切ることになる。時はいかに短く、永遠はいかに長いことであろう。死は瞬間であり、永遠のいのちには限りがない。私は思う。私はすでにエシュコルの谷のぶどうを食べ、天国の門の内にある泉をくんで飲んでいるのである。目標は近づいた。まもなく私はそこにたどり着くであろう。
 この世にあって私の心が
 憂いの嵐に悩む時
 思いははるか天を駆けて
 嘆きも消える避け所を見つける
 この世での巡礼が終わるまで
 輝く幻が私を支える
 憂いに悩み、困難が私を責めるとも
 ついに私は天の家に帰るだろう

 

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