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◆このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから……。

2016年11月08日 08時26分24秒 | 聖書
(コロサイ二・六)
信仰の生涯は、「受け入れる」ということばで代表される。それはいさおしとは全く相反する意味である。それは単純に賜物を受け入れることである。大地が雨を吸収し、海が川の流れを受け入れるように、私たちは何らの代価を払うことなく神の恵みを受け入れる。
そもそも聖徒は、泉でもなく川でもない。ただ、いのちの水が流れ込む水槽にすぎない。彼らは、神がその中に救いを注ぎ込まれる空の器なのである。
受けるという概念は実現を意味する。すなわち、あるものを現実とすることであって、私たちは影を受け入れることはできない。実質のあるものを受け入れるのである。信仰をもたないうちは、イエスは私たちにとって単なる名前にすぎない。主ははるか昔に生きていた人物であり、その生涯も歴史上の物語にとどまる。しかし、それが信仰の働きによる時、イエスは私たちの意識において現実の人格となられるのである。
また、受けることは所有をも意味する。私は、与えられたものを自分のものにすることができる。私がイエスを受け入れる時、主は私の救い主となられた。私のものとなったからには、生も死も私を主から引き離すことはできない。キリストを受け入れるとは、主を神よりの無代価の賜物として受け入れ、私の心の中で現実のものとし、私自身のものとすることである。
救いは、目の不自由な人が視力を得、耳の不自由な人が聴力を得、死者がいのちを得ることにたとえられる。しかし私たちは、これらの祝福だけでなく、キリスト・イエスご自身をも受けるのである。なるほど主は私たち死んだ者にいのちを与え、罪の赦しを与え、主の義をまとわせてくださった。これらはみな尊い。だが私たちはこれだけで満足するものではない。私たちはキリストご自身を受けたのである。神の御子が私たちの内に注がれたゆえに、私たちは主を受け入れて自分のものとしたのである。イエスはなんと私たちの心に満ちあふれておられることであろう。天も主を包むことはできないからである。
 
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