忠実な人は多くの祝福を得る。
しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。(箴言二八20)
「あせる」気持ちは、よく分かります。思いがけない情況の中に投げこまれる時、私たちは、どうしてもあせります。そんな一時的なことではなく、人生の生き方そのものがあせっている人がいます。金もうけがしたくて、えらくなりたくて、人からほめられたくてあせります。自分の欲求をしゃにむに満足させようとして、あせるのです。
「あわてるこじきは、もらいが少ない」といいますが、聖書は、「富を得ようとあせる者は罰を免れない」と言うのです。なぜでしょうか。
第一に、自分の欲望の満足のためにあせる人は、分別を失って不正を働く危険がいつもつきまといます。第二に、ギャンブルの精神というか投機心が働き、必要なプロセスを無視してしまいます。実力以上のことに手を出して失敗します。
それに対し、「忠実な人は多くの祝福を得る」と言います。その「多くの祝福」を数えてみましょう。いつも、自分自身が平安な気持ちでやっていけます。信頼され、人の役に立ちます。聖書によれば、神のおほめのことばと報いは、「忠実な人」に与えられるのです。
いったい「忠実な人」とはどんな人を指し、忠実さとはどんなことでしょうか。
第一に、忠実を尽くして仕えるべきお方、神を見いだしています。自我が主人ではありません。第二に、与えられた使命を知り、小さなことでも大きなことでも、それを果たすことです。十円では大した物は買えませんが、電話をかけるには十円玉でなければなりません。自分の持っているものは、大きくても小さくても、みな神から与えられ、神から預かったものと認め、それを神の喜びたもうように守り用いる。――それが忠実ではないでしょうか。
「あわてるこじきは、もらいが少ない」といいますが、聖書は、「富を得ようとあせる者は罰を免れない」と言うのです。なぜでしょうか。
第一に、自分の欲望の満足のためにあせる人は、分別を失って不正を働く危険がいつもつきまといます。第二に、ギャンブルの精神というか投機心が働き、必要なプロセスを無視してしまいます。実力以上のことに手を出して失敗します。
それに対し、「忠実な人は多くの祝福を得る」と言います。その「多くの祝福」を数えてみましょう。いつも、自分自身が平安な気持ちでやっていけます。信頼され、人の役に立ちます。聖書によれば、神のおほめのことばと報いは、「忠実な人」に与えられるのです。
いったい「忠実な人」とはどんな人を指し、忠実さとはどんなことでしょうか。
第一に、忠実を尽くして仕えるべきお方、神を見いだしています。自我が主人ではありません。第二に、与えられた使命を知り、小さなことでも大きなことでも、それを果たすことです。十円では大した物は買えませんが、電話をかけるには十円玉でなければなりません。自分の持っているものは、大きくても小さくても、みな神から与えられ、神から預かったものと認め、それを神の喜びたもうように守り用いる。――それが忠実ではないでしょうか。