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2016年12月07日 16時03分19秒 | 聖書
それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(Ⅰコリント九・二二)
パウロの大目的は、単に教えて向上させることではなく、救うことであった。人々の心が新たにされ、赦され、きよめられること、事実、人々が救われることを欲した。私たちのクリスチャンとしての働きは、この重要なこと以下の何かを目標としていたのではないか。もしそうであれば、私たちのやり方を修正しよう。終わりの大いなる日に、人々が教えられ道徳を説かれたのみで、救われることなく神の御前に出るとすれば、いったい何の益があるだろう。私たちが生涯を通じて、より劣った目的を追求し、人々が救いを必要としていることを忘れるならば、私たちの着物のすそは真っ赤になるであろう。
パウロは、人の生来の状態が破滅であることを知って、人を教育しようとはせず、救おうとした。彼は、人々が地獄に沈みつつあるのを見て、彼らを改善するために語らず、来るべき怒りより救うために語った。たゆまぬ熱心さで、広く福音を宣ベ伝え、神と和解するように人に警告し、また求めた。彼の祈りは執拗で、彼の働きはやむことがなかった。たましいを救うことが、彼の焼き尽くすほどの熱情であり、大望であり、使命であった。彼はすべての人のしもべとなり、同胞のために労し、もし福音を宣べ伝えなかったら、わざわいに会うと感じていた。彼は、人が福音を受け入れるなら、形式にはこだわらなかった。伝道が彼にとって唯一の最も重要な務めだった。もしだれかを救うことができれば、彼は満足だった。それが彼の得ようとして骨折った冠であり、すべての苦労と自己否定に対する唯一の、十分な報いであった。
愛する友よ。あなたは、そして私は、このような高潔な心で救霊のために生きてきたであろうか。私たちは、同じ願いにとらえられて、それに没頭しているであろうか。もし私たちが救霊によってキリストの誉れを求めないならば、キリストに対する私たちの愛はどこにあるのか。おお、主がたましいに対する絶えざる熱情を注いでくださいますように。
 
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