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◆御名の栄光を、

2017年08月16日 06時49分50秒 | 聖書
主に帰せよ。(詩篇二九・二)
神の栄光は、神の性質と行為の結果である。神の品性は栄光に満ちている。およそ聖なるもの、善なるもの、愛すべきものはすべて神の中に蓄えられているからである。神の品性から流れ出る行為もまた栄光に満ちている。神はその行為により、被造物に主の善なること、あわれみ深いこと、義なることを現そうとされる。しかし同時に、それらの行為による栄光がすべてご自身に帰せられるべきであるという点にも関心をもたれる。私たちの中には、誇るべきものは何もない。――私たちを他と異なるように造られたのはだれであるか。また私たちが、恵みに満ちた神によって与えられない何ものをもっているというのか。だから私たちは、主の御前に謙遜に歩むように心すべきである。
この宇宙には、ただ一つの栄光しか入る余地がない。そのため、私たちが自分に栄光を帰すならば、その瞬間に、私たち自身をいと高き方の競争者の地位に置くのである。わずか一時間しか生きられない昆虫が、自分をあたためて生命を得させた太陽に対して誇ることがあろうか。陶器が、自分をろくろにかけて造った陶器師以上に自らを高めることがあろうか。砂漠の砂がつむじ風と争うことがあろうか。あるいは大海の一滴があらしと戦うことがあろうか。栄光を主に帰せよ。
しかしおそらく、クリスチャン生活において最も困難なのは、次のみことばを学ぶことであろう。「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく……栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」これは、神が常に私たちに教えようとされる教訓であり、時には苦しい懲らしめによって教えられる学課である。もしクリスチャンが、「私を強くしてくださる方によって」という点を取り除いて、ただ単に「どんなことでもできるのです」と言うならば、まもなく彼は「私は何もすることができない」という悲鳴を上げ、ちりに伏して嘆くであろう。私たちが主のために何かをし、主が私たちのしたことを受け入れてくださったなら、私たちは自分の栄冠を主の足もとに置いて、「私ではなく、私にある神の恵みです」と叫ぼうではないか。
 
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