座間コミニティー

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◆イエスは言われた。

2017年09月23日 15時22分19秒 | 聖書
「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ九・二三)
ある人の息子が悪霊につかれていた。その父は、弟子たちが息子をいやすことができないのを見て、キリストに対してもほとんど、あるいは全く信仰をもっていなかった。だから、イエスが子どもを連れて来るように命じられた時、「ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」と言った。あわれな震えおののく父は、この「もし」ということばの置き場所を間違えた。そしてイエス・キリストは、「もし」を取り消すことをお命じにはならず、正しい場所に置かれた。イエスはこのように言おうとしておられたようである。「わたしの力、またはわたしが喜んでなすことに関して『もし』はいりません。『もし』は別な所につけるのです。もしあなたが信じることができるならば、信じる者には、どんなことでもできるのです」と。父親の信頼は強められた。彼はへりくだって、不信仰な私をお助けくださいと祈った。イエスがただちにことばをかけられると、汚れた霊は追い出され、イエスは二度と入るなと命じられた。
ここに私たちの学ぶべき教えがある。私たちはこの父親のように、常に「もし」を誤った場所において失敗をくり返す。もしイエスが私を助けられるなら、もし誘惑に勝つ恵みを与えられるなら、もし私に赦しを与えられるなら、もし私を成功させられるなら、と。しかし、もしあなたが信じることができるならば、主はなすことがおできになるのであり、むしろ、なすことを願っておられるのである。あなたは「もし」を間違った場所に置いている。あなたが大胆に信頼することさえできるなら、すべてがキリストにとって可能であるように、あなたにとってすべてが可能なのである。
信仰は神の力の中に立ち、神の尊厳をまとう。王の衣をまとい、王の馬に乗る。それは王があがめられることを喜ぶ恵みだからだ。すべてをなしてくださる聖霊の栄光に取り巻かれつつ、それは神の全能にあって大いなることをなし、勇敢に立ち向かい、力強く耐える。信じる者はすべてを無制限にすることができる。
 
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「ほんとうに、私は主のはしためです。

2017年09月23日 15時21分31秒 | 聖書

どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)

マリヤは婚約中の幸せの中にある、ごく平凡な女性だった。
それが、ある日突然、御使いから「みごもって、男の子を産む」と言われた。
マリヤは、どんなにか戸惑い、恐れや不安に襲われたことだろう。

マリヤはメシヤ到来を知り、信じていた。だが、余りも唐突で、なぜ自分なのか?
処女で出産するとは。当時、婚約中の姦通は石打ちの刑だ。
おことば通りこの身になるなら、死だ。

まさにエステルの「死ななければならないのでしたら、死にます」と同様、命がけだ。
ヨセフとの関係はどうなるのか。聖霊によってみごもったなどと誰が信じられるだろう。

ヨセフをどんなに傷つける事か。ヨセフの体面もあったものでない。
この結婚は壊れてしまうだろう。様々な恐れと不安が去来した事だろう。
しかし、そんな中でマリヤは、自分の将来も、夢も、自分の人生もすべてを、主に献げた。

「おことばどおりこの身になりますように」と何もかもを明け渡した。
マリヤの思いとは、何もかもが全く違う道であった。
しかし、自分の人生でなく、神の救いのご計画にあずかる道を選択し、決断した。

ある時、私たちも自分の思いやプランと全く違う道に、環境や仕事に導かれる。
「あなたのおことばどおりに」と従う時、神のご計画に参与し、神の栄光を拝する。
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神がマリヤを選ばれたように私達もクリスチャンとして選ばれ召されのだ。
ご計画に従おうとする時、やはり大きな痛みを伴う。
自分の思いを捨てて主の十字架にあずかるという意味を静かに考えてみたい。

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おはようございます。

2017年09月23日 11時04分18秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌

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今日の聖人の記念日

2017年09月23日 11時03分13秒 | キリスト教

聖テクラおとめ

1世紀

 テクラは、小アジア(トルコ)のイコニオンの裕福な家に生まれた。いろいろな学問を勉強し、18歳のときには婚約していた。

 そのころ、この町を宣教のため訪れた聖パウロの説教を聞き、そのすばらしさに感動したテクラは、キリストの愛の深さを知り、すべてをささげようと、婚約を破棄することを決めた。そのため婚約者がパウロを訴えたので、パウロは追放され、テクラは処刑されることとなった。しかし彼女は奇跡的に救われ、パウロに従ってその宣教に協力し、各地を転々としてアンチオキアに行った。

 この町でもある役人から結婚を申し込まれたが、拒否したために再び訴えられ、処刑されることになった。しかし神から守られているのを証明するかのように、どんなにテクラを処刑しようとしても失敗に終わった。そのため民衆も、彼女の命を助けてくれるように総督に嘆願し、晴れて自由の身となった。

 その後、彼女のもとには教えを求めて多くの人びとが集まったといわれる。テクラはセレウキアで亡くなったとされ、墓の上には大きな教会が建てられている。彼女は、初代教会以来、多くの人びとから尊敬を受けている。

聖ピオ(ピエトレルチナ)司祭

1887年-1968年

 フランチェスコ・フォルジョーネ(後のピオ神父)は、1887年5月25日、南イタリアのベネヴェント県ピエトレルチナに住む、農家の家庭に生まれた。7人兄弟の4番目として育った彼は、信心深い母親の影響を受けて、幼いころから神に一生をささげたいと望むようになった。1903年、フランチェスコが15歳のときにカプチン会に入会し、ピオという修道名を受けた。

 修道会で勉学に励んだ後、1910年司祭に叙階された。彼は聖痕を受けた聖人として有名であるが、それは、1918年9月20日のミサ後に感謝の祈りをささげているときだった。ピオ神父の前に現れたイエスの手足には傷があり、その示現が終わると、神父の手と足にも聖痕が現れた。

 ピオ神父が聖痕を受けてから、多くの人びとが彼のもとにやって来た。毎朝5時にささげるミサにはたくさんの人が集まり、時には一日に10時間も告解を聞いた。告解をする人がくわしく言わなくても、彼はその人がどのように生活しているかを知っていた。

 ピオ神父は聖痕の痛みとともに断食や徹夜の祈りをささげて、厳しい生活を送った。ミサと聖体を大切にし、ロザリオを決して手から離すことはなかった。多くの人がピオ神父の取り次ぎによって、恵みや病のいやしを受けた。彼のミサにあずかった人は熱心になり、興味本位で神父に会いに来た人も、心を動かされた。

 1968年、足が弱ったため車椅子を使いはじめ、同じ年の9月23日、ロザリオを手にして、「イエス、マリア!」と唱えながら、平和のうちに生涯を終えた。81歳だった。

 1999年に列福され、2002年没後34年という異例の早さで、列聖された。

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◆真 理 を 買 え

2017年09月23日 11時02分03秒 | 聖書

真理を買え。それを売ってはならない。
知恵と訓戒と悟りも。       (箴言二三23)
私は、このことばを読んですぐ、イエス・キリストのなさったたとえ話を思い出しました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います」(マタイ一三44)。持ち物全部を売り払っても買いとるべき、人生の宝とは何でしょうか。イエス・キリストはそれを「天の御国」と言い、この箴言では「真理」と言っています。
岡井久子さんという方は、現代のヨブとでもいうべき方です。脳性麻痺とてんかんと筋ジストロフィーの三つの病気を負っておられます。幼い時に父に捨てられ、唯一の友だった亀にも死なれ、ただ一人のたよりだった母親にも先立たれました。天涯孤独となって、施設のベッドに横たわるだけの人生でした。
ところが、この岡井久子さんが病床で、一つの真理を発見したのです。神がいらっしゃる。神が愛していてくださる。私を生かして、尊い使命を与えていてくださる。やがて神が、苦しみも暗やみも涙もない、永遠の輝く御国に自分を連れていってくださる。――キリストにあってこの神の愛の真理を見いだした時、岡井さんは絶望をふりすてて、希望を手にしました。うらみや嘆きに代えて歌をとりもどしました。無為に過ごす代わりに、祈りを与えられました。病床でつづった数々の輝かしい詩は、『ヨブの涙』という本になって出版され、療養者文学賞まで獲得しました。イエスが言われたとおり、岡井さんを「真理が自由にした」(ヨハネ八32参照)のです。
この無上に尊い真理は、金や努力や知識で買うのではありません。神なき自我の道からまわれ右して信じるという、悔い改めと信仰という値を払えば、金なくして、だれの手にも入るものなのです。
 
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◆神はその愛する方によって私たちを受け入れてくださった。

2017年09月23日 11時01分15秒 | 聖書
(エペソ一・六英訳)
なんという特権だろう。これは神の御前における私たちの義認を含むだけではない。ギリシヤ語の「受け入れる」ということばは、それ以上の意味をもつ。神の満足の対象であること、否、神の喜びの対象であることをさえ意味する。私たちは虫であり、死すべき者、罪人である。それなのに神の愛の対象となるとは!
ある信者は、その経験において受け入れられているように見える。少なくとも、彼らはそう理解している。たましいが力に満ち、希望に燃える時、神に受け入れられていると思う。そのような時、自分が高潔であり、聖化され、俗事をはるかに超越しているように感じるからである。しかし彼らは、ちりあくたのようなものに心ひかれる時、もはや受け入れられていないのではないかと恐れおののく。けれども彼らが、彼らの崇高な喜びは彼らを高めもせず、失望落胆は彼らを低くするのでもなく、常に完全にして、傷も汚れもない神の愛する御子によってのみ受け入れられていることを知るならば、どれほど幸福に満たされ、また救い主をあがめることであろう。
だから、主にある友よ。喜べ。あなたは「愛する方によって受け入れ」られている。あなたは心のうちをながめて「受け入れられる何ものもない」と言うであろう。しかし、キリストを見よ。そこにおいてすべてのものが受け入れられていないか。あなたの罪はあなたを悩ます。しかしその罪を、神はご自身の後ろに捨てられた。あなたは義なる方によって受け入れられている。あなたは腐敗と戦い、誘惑と格闘しなければならないが、すでに悪の力を征服した方にあって受け入れられている。悪魔は誘惑するだろう。しかし、雄々しくあれ。悪魔にはあなたを滅ぼすことはできない。あなたは、すでにサタンの頭を砕いた方にあって受け入れられている。あなたの栄光ある地位を確信をもって知れ。すでに栄化されたたましいは、天国で、「愛する方によって」受け入れられている。そして全く同様に、あなたはキリストにあって受け入れられている。
 
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詩篇64篇7-10節

2017年09月23日 10時59分32秒 | 聖書


64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。


悪しき者の悪は、永遠に続くわけではありません。

また悪しき人も、永遠に生きるわけではありません。

自分では意識しなくても、不意にその裁きは訪れます。

神さまが裁きの矢を放たれるからです。

それは、その人の栄華を極めている時であるかも知れません。

また、自分の栄光を自慢している時であるかも知れません。

しかし、神からの裁きが突然に訪れる時、その人はうろたえるのです。

死の恐怖と不安の一切が、彼のこの地上での栄光を消し去ってしまうのです。

神は義なる方です。

義であられる方は、裁きをなさる方です。

しかもその裁きは、峻烈極める恐ろしいものです。

ですから、罪を悔い改めてイエス様による救いを受け入れて、新しい命に生きることが求められるのです。

「不正に、この世の栄誉のみを求めることは、愚かさの極みなのだ」と知りましょう。

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ルカの福音書15章7節

2017年09月23日 10時56分19秒 | 聖書


★あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

■O:今日のコラム
ルカの福音書15章には有名な放蕩息子の話しを含む三つの話しが記されています。その内容には同じテーマがあり「失われたものが見いだされる」ことについて記されています。また、この15章は主イエスの元に罪人と呼ばれる者たちが喜んで集まるのを見て、ねたみの思いを持ったパリサイ人たちのつぶやきから始まります。

その中で主イエスは失われた一匹の羊の話しをされました。ここには「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」という表現が出てきますが、これは原語によると「悔い改めることの出来ない九十九人」と訳すことが出来ます。

聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:19)と記されているように、悔い改める必要のない人は一人もいません。しかし、私たちが自分を「あの人よりもまだましだ。自分はそんなに悪いこともしていないし、悔い改める必要はない。」と思う時、実はそれは「悔い改めることの出来ない」心の状態にあるのです。

多くの人々は悔い改めとは、自己憐憫に陥り惨めな気持ちになることだと考えます。それは悔い改めの間違った認識による故です。

悔い改めとは方向転換することであり、自分中心の生き方から神中心の生き方へと立ち返ることです。別の表現で言うなら御言葉の基準に歩み、神の国の民として生きることです。そこには大きな自由と喜びが伴います。

悔い改めとは神の厳しい裁きの故ではなく、神の偉大な愛と憐れみ故に導かれるものです。

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:4)

黙示録3章に登場するラオデキヤの教会は終わりの時代の教会の姿と言えます。あらゆることにおいて成功し、豊かになり、繁栄していますが、最も大切な主イエスご自身との親密な交わりを失い、霊的には盲目で貧しく惨めな状態にあると主は指摘しておられます。ラオデキヤの教会にイエス様は、

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:19)

と言われています。ここでも、主は私たちを熱烈に愛するが故に叱り、懲らしめ、熱心な悔い改めへと導かれることを願っておられます。悔い改めは主との愛の関係の回復へと繋がります。

この終わりの時代に聖なるキリストの花嫁として生きる為に主の豊かなあわれみと、熱烈な愛の故に「熱心な悔い改めの霊」が私の内に注がれることを共に祈り求めましょう。



■A:考えてみよう
主の御前に正直に「主よ。私は自分では自分の罪も認識出来ず、悔い改めることも出来ない者です。どうかあなたの豊かな慈愛とあわれみを注いで下さい。」と祈る時、御霊なる主は今日も新たに私たちを悔い改めへと導き、主ご自身の似姿へと栄光から栄光へと日々造り変え続けてくださいます。
全ては主の恵みによります。我らの素晴らしい主に栄光がありますように。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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9月22日(金)のつぶやき

2017年09月23日 02時24分25秒 | キリスト教
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