座間コミニティー

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◆わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。

2017年09月18日 18時11分13秒 | 聖書
(ヨハネ一〇・二七)
私たちは、羊が羊飼いに従うように、ためらうことなく主に従うべきである。なぜなら、主は欲される所に私たちを導く権利をもっておられるからである。私たちは代価を払って買い取られた。だから、贖いの血の権利を認めよう。買い取られた財産である私たちが、自分の贖い主に従わなくてもよいだろうか。もし私たちの指導者また指揮官である方の命令に対してとやかく言うならば、クリスチャンであるという信仰告白に対して真実ではない。服従は私たちの義務である。
主は、ペテロに対して言われたように、私たちに対してもしばしば「……あなたは、わたしに従いなさい」と言われる。どこへ導くにも、イエスは先立って行かれる。私たちは行く先を知らなくても、だれと共に行くかを知っている。旅は長いであろう。しかし主の永遠の腕は私たちを目的地まで運ぶ。イエスのおられることが、永遠の救いの確証である。主は生きておられる。それゆえ私たちも生きる。
私たちは、単純な信仰をもってキリストに従うべきである。主が導かれる道はすべて、栄光と不朽に至る道だからである。それは平たんな道ではなく、鋭いごつごつした試練におおわれているかもしれない。しかしその道は、神が「設計し、建設された」、「堅い基礎の上に建てられた都」へ続く。「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とさとしを守る者には。」
導き手である主に全き信頼を置こうではないか。なぜなら、前途に繁栄、逆境、病、健康、名声、軽蔑のどれがあろうと、主の目的は実現され、その目的はすべての恵みの相続人にとって、純粋な混じり気のない善であることを知っているからである。キリストと共に険しい道をよじ登ることはすばらしい。雨や雪が吹きつけても、主の愛に抱かれていることは、世俗の手で自らを暖めている者よりも、はるかにまさる祝福である。私たちは、愛する主に従って行こう。アマナの頂でも、獅子のほら穴、ひょうの山へでも行こう。
尊いイエス様。引き寄せてください。私たちは走ってあなたのみあとについてまいります。
 
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「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

2017年09月18日 18時09分43秒 | 聖書


神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)

弟子たちの問いと、主の答えに大きな隔たりがある。
人の見方と主の見方が全く異なる。人は、何か起こる時、その苦しみや不幸の理由をまず問う。

「なぜ?どうして?」「なぜ?なぜ?」と問うて行く。
しかし、それは過去の事であり、現実にある事態が、起きた原因を追及しても、そこに解決は無いし、救いはない。

病で死にかけている人に対して、その病気の原因を追求したところで何にもならない。
しかし、人はどうしても原因や理由を探し出さなければ、自分の納得が行かない。

自分が納得したいがために、「なぜ」「どうして」を探る。
しかし、人は自分の意志で生まれたのではないし、自分の意志で死ぬこともできない。

与えられた一生は、自分の意志通りにはならないし、それぞれの人生は自らの思いを越えている。
そこに人間を越えた大きな力が働いていて、その方の意志通りに動いている。

私たちが生を受けたのも、今、ここにあるのも、神の大いなる御心による。
その神に焦点を置く時に、「なぜ?なぜ?」は意味をなさず、目が見えないことも、病気も、苦しい境遇も、思い通りにならない事態も、「神のわざがこの人に現れるため」なのだ。

あのせい、このせい、ではなく、神が働かれるためのステージであり、何と希望と平安と将来がある事だろう。
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神様の栄光が現れるための今だ。
原因を問うよりも必ず神様が良くして下さるという希望を持って生きよう。

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おはようございます。

2017年09月18日 06時19分30秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年09月18日 06時19分00秒 | キリスト教

聖ヨセフ(クペルティノ)司祭

1603年-1663年

 ヨセフは、イタリアのナポリ近郊のクペルティノの貧しい家に生まれた。
 病弱で、普通の子どもよりも知恵が遅れており、口をぽかんとあけていたので、人びとからもあざけられることが多かった。

 仕事に就くとすぐに解雇され、修道士になることを望んで修道会に入るが、すぐに出されるなどして、ようやくラ・グロッテラのフランシスコ修道院から、馬丁として受け入れられた。ここで、ヨセフは祈りと断食の修行をよく行い、1628年に司祭となった。

 そのころから、彼は神秘体験をし、身体が宙に浮かぶことが度々おこり、「空飛ぶ修道士」と呼ばれて、人びとの訪問を受けるようになった。そのため教会の権威者たちは、ヨセフをピエタロッサの修道院に移して、人びとの目にふれないようにした。彼は死ぬまで監禁されていたが、決して不平を言わずすべてを耐え、神にのみ信頼を置いていた。ヨセフはこの徳ゆえに、1753年に聖人とされた。飛行機の操縦士と乗客の保護の聖人といわれている。

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◆心とくちびる

2017年09月18日 06時17分47秒 | 聖書

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、
私の心も喜び、
あなたのくちびるが正しいことを語るなら、
私の心はおどる。                      (箴言二三15―16)
「心とくちびる」のことが言われています。人の心とくちびるは、時々、いいえ多くの場合、裏切り合うものではないでしょうか。「遊女は客にほれたと言い、客は来もせでまた来ると言う。」こんな浪花節の文句ではありませんが、心の中に、愛も真実も信頼もないのに、口先では、さも愛と真実があるように語る。――ここに、人の偽りがあります。天の父である神は、このような人とその偽善に対して、最も悲しい思いをされるのです。
しかし、一方では、心の中で神を求め、愛を求め、罪のゆるしを求め、永遠のいのちを求め、真実の生きる目的を求めていながら、口ではどうでもいいようなことを言う人が、世の中にたくさんいるのです。変なところで変なみえを張っている、偽悪者・照れ屋です。
昔路傍で説教していた時、新円切り替え時代の虎の子の十円札を取り出して、欲しい人にあげますと大勢の前で言ったことがあります、ところが、だれも、「下さい」と言って手を出す人はいませんでした。しばらくして、小学校五年生ぐらいの男の子が、人垣を分けて前に出てきました。「おじさん。おくれ」とさし出されたかわいい手に、私はその十円札をにぎらせました。惜しい気はしました。しかし私は、神の前に心と口を一つにして、愛・いのち・ゆるしを神からいただく姿を語りたかったのです。
パウロは言いました。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ一〇10)。
神の愛を心で深く求めるなら、それを口で告白して、手をさし出しなさい。心で深く神の愛を信じたなら、照れないで、口で告白してごらんなさい。――人生はすっきりしてきます。そのことを神が喜び、力を与えてくださいます。
 
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◆もし私たちが御霊によって生きるのなら、

2017年09月18日 06時17分04秒 | 聖書
御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ五・二五)
キリスト教に最も重要な二つのことは、信仰のいのちと信仰の歩みである。これを正しく理解している人は、実践神学の奥義を極めていると言っても言いすぎではない。この二つは、クリスチャンにとって欠くことのできないものだからである。あなたが真に敬虔でないならば、決して真の信仰を見いだすことはできないであろう。また反対に、キリストの義に基づく生きた信仰を根底としない聖い生活は存在しない。
この二つのうち一方のみを追求する人はわざわいである。ある人々は信仰を養って、聖潔を忘れている。彼らの信仰はきわめて正統的であるかもしれないが、それは強く非難されるべきである。彼らは不義の中に真理を握っているからである。他方、聖い生活を追求して努力するが、パリサイ人のように信仰を否定する人がいる。主は彼らを「白く塗った墓」と言われた。
私たちは信仰をもたなければならない。それは土台である。そして、私たちは聖い生活をしなければならない。それは上層建築である。あらしの日には土台のみで何の役に立つだろう。まさかその中に隠れるわけにもゆくまい。土台もむろん必要であるが、雨露をしのぐためには家がなければならない。そのように、もし私たちが疑いの日に慰めを得たいと思うならば、霊的生活の上層建築が必要である。しかし、信仰なくして聖い生活のみを求めてはならない。なぜなら、それは岩の上に土台を置いていない家を建てることであって、永続するはずがないからである。
信仰と生活とを組み立てて、アーチの二本の柱のようにしよう。そうすれば、私たちの敬虔は永続するであろう。光と熱が同じ太陽から出ているように、この二つも祝福に満ちている。神殿の二本の柱のように、それらは栄光と義とをかたどる。恵みの泉から流れ出る二つの川、聖なる火をともされた二つのランプ、天上の水に育てられた二本のオリーブの木である。
主よ。私たちに内なるいのちを与えてください。それが外に現れて、あなたの栄光を現すのです。
 
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詩篇63篇1-3節

2017年09月18日 06時15分31秒 | 聖書


63:1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。


「神よ、あなたは私の神」と叫んでいます。

神さまは、すべての人の神です。

しかし作者はそれだけに終わらないで、この主であられる神は、特別に自分のことを導き守り支えてくださる、私の神であられると言っています。

それほどに、この方の恵みと愛を慕って生きていることを、語っているのです。

日ごとの主との親しい交わりの中で、また日常の歩みの内に、いつも主のことを覚え、主の守りと導きを感謝して、主と共に歩んでいる事を語っているのです。

彼がこのように叫んだからといって、「主は、他の人にとって神ではない」という事を語っているのではありません。

この主なる神は、どれほど主を慕う人が多くても、主を慕い求めて、主と共に歩むことを喜びとするすべての人にとって、その人の主であられるのです。

あなたの神なのです。

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ルカの福音書10章42節

2017年09月18日 06時13分10秒 | 聖書


★「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


■O:今日のコラム
今日の箇所は、マリヤとマルタの有名な話です。主の足もとで御言葉に聞き入っていたマリヤを見て、マルタは主に「主よ、あなたはなんとも思わないのですか!」と怒りました。

どうしてマルタは怒ったのでしょうか?このマルタの姿を通して、もう一人の人物が思い浮かびました。創世記に出てくる、アベルの兄、カインです。

「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。』」(創世記4:5-7)

このマルタとカインを通して、神様は私のうちにある「孤児の心」に気づかせてくださいました。



■A:考えてみよう
イエス様は「どうしても必要なことはわずかです、いや一つだけです。」と言われました。イエス様が喜ばれた、マリヤがしたことは「神の言葉であるイエス様から離れなかった」ことでした。

?  孤児の心を主に明け渡す
何かをしなければ認められない、評価を受けるために頑張る、そのような「孤児の心」が私の心のどこかにありはしないか?今日、そのような心が自分のうちにないか、チェックし神様の前に明け渡しましょう。

?  御言葉から離れない
マルタは、イエス様に聞くよりも先に、自分で考えておもてなしの準備をバタバタと始めました。また、カインは「地の作物」を主の御前に捧げました。この作物、とは「自分の努力」「自分の捧げたいもの」を象徴しているということを以前に学びました。

なぜ、主のために捧げているのにも関わらず、怒りがあるのでしょうか。それは、主に捧げたい!という情熱があっても、自分勝手な、自己満足な、主に押し付けるような自分の捧げたい捧げ物をしているからかもしれません。自分が中心になっているからです。

主を愛するとは戒めを守ることです。主を愛することは、自分ではなく、絶えず御言葉が中心となることです。主を愛するには御言葉に聞き、御言葉を知らなければなりません。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14:15)

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11)

「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)

「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」(ヤコブ1:19)

主のそばにとどまり、主の完全な愛によって私のうちにある孤児の心が取り去られますように。そして、みことばに聞き入っていたマリヤのように、主の声を聞くのに早い者となれますように。

私の捧げたい捧げものではなく、御言葉なるイエス様から離れずに、今日主が語りかけてくださる語りかけに、レーマに従い、生きていくことができますように。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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