座間コミニティー

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◆また、御座の回りに二十四の座があった。

2017年09月09日 16時33分58秒 | 聖書
これらの座には、白い衣を看て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。(黙示録四・四)
天国における聖徒の代表者たちは、「御座の回りに」いたと記されている。雅歌の中に、ソロモンが食卓についている王を歌っている箇所がある。ある人はそれを「円卓」と訳す。ここから、ある注解者たちは、「聖徒たちは平等である」と言うが、これはみことばの意味を正しく解釈していると思う。二十四人の長老が同じ距離を保って、みな御座に近くいたというのである。
天にある栄化された霊たちは、主に近くおり、その栄光をはっきり見、その宮廷に常に出入りをし、ご自身と親しく交わっている。この点に関して、聖徒たちの間に優劣はない。神の民は、使徒も、殉教者も、教役者も、また名もない信徒も、すべてが御座近くに座るのである。そこにおいて彼らは、とこしえに高められた主を見、その御愛に満ち足りる。彼らはみな主に近くおり、主の御愛を喜び、同じ食卓で主と共に食し、全部の者が主に近くある友として、平等に愛される。
地上にある信者も、キリストに近くいることにおいて、天上の聖徒にならおう。地上にある私たちも、天上における長老たちのように御座の回りに座ろう。どうか、私たちの思いがキリストに向けられ、キリストが生活の中心となられますように。どうして私たちは、愛する主から遠く離れて生きていけるだろう。
主イエス様。私たちを近くに引き寄せ、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」と私たちに告げてください。そして「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに」と歌わせてください。
もっと高く私を引き上げ
もっと近くで会わせてください
私のたましいをへりくだらせて
御足の下におらせてください
ますます自分に頼まなくなり
ますますあなたの愛にある楽しき慰めを
証しさせてください
 
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ルカ15:28

2017年09月09日 16時33分02秒 | 聖書


「兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで父が出て来て、いろいろ
なだめてみた」(ルカ15:28)

弟の放蕩息子は有名だ。しかし、背後に隠れて兄息子がいた。
弟が帰宅し、喜んだ父親が祝宴を催した。
兄息子は畑仕事に出て、弟が家出した後も、忠実に父に仕えていた。

ところが、家の近くで、弟の突然の帰宅を知る。
喜びの宴、子牛をほふらせた父、この光景を見た時、何と兄息子は激怒した。
怒りで家にも入らない。弟の帰還を機に、兄の普段決して出ない心の奥が現われ出た。
その心の奥の思いは、彼をなだめに出た父親に噴出した。

彼は自分が正しいと思っている。
「長年の間、お父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もない」自己正義のパリサイ人とダブる。
それなのに正当な報酬が与えられていないと、実は不平不満で一杯であった。
「楽しめと言って」子山羊一匹貰った事がないと。
実は、本当は自分も世を楽しみたかった。

本音は弟と同じであり、それを鬱屈させていて、弟より更に問題児であった。
父は一言も彼を叱っていない。責めてもいない。愛に満ちていた。
そのまま、受け入れ「私のものは全部おまえのもの」との莫大な祝福と特権、愛を伝えた。

兄息子の応答は記されていない。兄の姿は、自分を映した鏡だろうか。
実は仕えるのが嫌で、しんどくて、不満と怒りがあるか。
正直に自分を神の前に開き、認める時に初めて、真に御父と交われて、平安と喜びに満ちた信仰生活へと変えられる。
弟息子にも、兄息子にも、あなたへも、同じ変わらない父の大きな愛と深い慈しみが注がれている。

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「命令は重荷とはならない」、重荷となっていたら、何かがおかしい。
御霊によらず、自分の力で動いているので、自分の肩に荷がかかって来る。
喜びが失せ、人への裁きが出ているなら要注意だ。そのままで目を主に向けるよう。
おおいが除かれ、自由にされる。

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おはようございます。

2017年09月09日 07時27分47秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年09月09日 07時27分16秒 | キリスト教

聖ペトロ・クラベル司祭

1580年-1654年

 クラベルは、スペインのカタロニアに生まれ、信仰深い両親のもとで育った。幼いころから司祭になることを望み、バルセロナ大学で学んだのちに1602年にイエズス会に入った。勉学のためにマジョルカの修道院に派遣され、そこで聖アルフォンソ・ロドリゲスと出会った。アルフォンソは、クラベルに新大陸での宣教の可能性を熱く語り、それを聞いたクラベルは自分の使命を悟って、宣教師となることを決心した。1610年、神学生としてコロンビアのカルタヘーナへ行き、黒人奴隷の悲惨な状態を知って、生涯彼らの救いのために働きたいと思った。1616年に司祭になり、「大切なことは唇で話すことでなく、手で話すことだ」と言って、奴隷たちに薬や食物などを与えたり、キリスト教について教えるなど、力を尽くして働いた。クラベルは黒人の保護者といわれている。

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◆怒りっぽい者といっしょに行くな

2017年09月09日 07時26分15秒 | 聖書

おこりっぽい者と交わるな。
激しやすい者といっしょに行くな。
あなたがそのならわしにならって、
自分自身がわなにかかるといけないから。(箴言二二24―25)
ある尊敬している先輩が、いかにも優しく柔和なまなざしで、「あの青年はすばらしい男だけれど、まだまだ怒りっぽいからだめだ」と言っていることばを聞いて、「ああ、私のことを言っている」と深く感じたことがありました。私は上州長脇差、激しやすいのは私の身上などと思ったこともなきにしもあらずですが、「おこりっぽい」ことはみじめです。
不正や、不義不法な圧迫に対して、聖なる怒りを感じないような者にはなりたくないと思います。しかし、私たちが「おこりっぽい」のはいつも、私たちを取り巻く親しかるべき身近な人に対してではないでしょうか。怒りっぽい人には、いつも次の二つの洞察が欠けているように思われます。
第一に、自分自身に対して神が怒りっぽく、すぐ結論を出したり、さばきや仕返しや断罪をも行ってしまうならどうでしょうか。この世に、神の断罪を免れる人が一人でもいるでしょうか。神は、私のような偽り者・自分勝手な者・罪深い者にも、深い愛と忍耐を持っておられます。私のために、ゆるしもきよめも新しい人生をもみな備えて、そうです、キリストの十字架の中に備え整えた上で、忍耐深く待っていてくださるのです。このことが分からない時、人は怒りっぽくなるばかりか、怒りに任せて怒りといっしょに「行ってしまう」のです。つまり、そういう人は自分自身に対する洞察に欠けています。
第二には、どれほど怒っても怒り足りないような人でも、神の恵みと力によって、正されゆるされ新しくされる可能性があることを知りません。しかも、自分の人間としての力や知恵の中に、人を変える力がないことを悟りません。さばきと救いの力は神にあるという洞察に欠けています。
 
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◆わたしを呼べ。

2017年09月09日 07時25分30秒 | 聖書
そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ三三・三)
この聖句には、種々の異なった訳がある。「わたしは、あなたに大いなる、防備されている事を示す」とも、「大いなる、保留されている事」とも訳されている。クリスチャンの経験の中には特別に保留されたものがある。霊的生活のすべての発展は、どれも容易に到達できるものではない。
悔い改め、信仰、喜び、希望などの共通な心の状態や感情がある。これらはすべての神の家族が経験しているものである。しかし、あふれる喜び、霊の交わり、キリストとの一体の意識などの高次の段階については、それがすべての信者に共通なものとはとても言えない。私たちのすべてが、イエスの胸によりそったヨハネのような高度の特権をもっているのではなく、パウロのように第三の天にまで上げられるのでもない。神に関する経験的知識の高さは、わしのような鋭い目をもっても、哲学的な思想をもっても、決してうかがい得ない。神のみが私たちをそこへ伴ってくださる。
そして神が私たちをそこへ連れられる車と、それを引く火の馬は、熱心な祈りそのものである。熱心な祈りは恵みの神に勝つ。ヤコブは「その力の神と争った。彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はべテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた」。熱心な祈りはクリスチャンをカルメルに伴い、彼をして天を祝福の雲でおおい、地をあわれみの洪水でおおうことを得させる。熱心な祈りはクリスチャンを高くピスガに運び、彼のために備えられている資産を示す。それは私たちをタボルにまで高め、私たちを聖化して主の御姿に似たものとし、この世にあっても主のようにするのである。
あなたが普通の卑しい経験よりも高いレベルに達することを願うならば、あなたよりはるかに高い岩であるキリストを見上げ、執拗な祈りの窓から信仰の目をもって見つめよ。窓を自分の側から開けさえすれば、窓の向こう側は開け放しになっているのである。
 
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詩篇61篇1-4節

2017年09月09日 07時23分43秒 | 聖書


61:2 私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。
61:3 まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。


 私たちの心は、弱り果てる時があります。

それは戦いに敗れた時もそうですが、自分がサタンの誘惑に負けて、罪を犯した時などもそうです。

その時、自分の弱さを思って、自分はもうだめだと思ったりしてしまいます。

神の方に、心も顔も向けられなくなります。

 しかしそうした時に、ダビデはなお、「自分の心と顔を主に向けます。神こそが私の助けであり、敵を倒すことが出来るお方であると覚えて、神に助けを求めます。」というのです。

神は、神を慕い求める者を無視されません。

たとえ、罪を犯して苦しみもがく者であっても、主の方に心を向け、また主に許しと助けを求める者に、主は憐れみ深くあります。

主が、私たちを高き所に立たせてくださるのです。

私たちが主に信頼し、主に求める時に、主はその願いに応えてくださるのです。


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ルカの福音書5章11,25節

2017年09月09日 07時21分40秒 | 聖書


★彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
★すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
箴言5章17節
★それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。

■O:今日のコラム
しゃろーむ!8月15日の朝です。今日1日も、主から御言葉を頂き、主に御言葉の応答を求め、受け取り、主の足跡を追い、主に従っていきましょう。主は、僕ら一人一人に計画をもっておられるからです。

ルカの福音書5章には、様々な人が登場します。群衆の一人一人、パリサイ人と律法の教師たち、奇跡を体験する者たち、弟子になる者たちです。
・群衆は、イエス様の御言葉を押し迫るように聞きに来ました。
・パリサイ人と律法の教師たちは、イエス様の御言葉を聞き、自分の理屈を言いました。
・奇跡を体験する者は、イエス様を求め、自分の願いをイエス様の元にもっていき、御言葉を受け取り、自分の願いを叶えて頂きました。イエス様は、彼らに人々へのあかしをさせるために、家に帰らせました。彼らは、イエス様のその御言葉に従いました。
・イエス様の弟子となった者は、イエス様から話しかけられ、イエス様の御言葉を聞き、イエス様の考えていることを中心とし、自分の持ち物や計画などの何もかも捨てて、従いました。

イエス様は、全ての人のために、この地に来られました。全ての人に、御言葉を与えてくださいました。イエス様は、僕ら一人一人の願いを叶えてくださいます。求める者に、必要を応えてくださいます。僕らは、奇跡を体験する者となることができます。

そして、一人一人に、召しを与えてくださいます。直接、イエス様から御言葉を受け取り、今、やるべきことを教えてくださいます。もしかするとそれは、僕らが求めているものではないかもしれません。しかし、主が、僕らを創造された目的に生きるために必要な御言葉を与えてくださるのです。

イエス様は、僕らが本来の目的に生きるために、十字架と復活の勝利によって、新しいいのちを与えてくださいました。僕らの内側に、聖霊様を送ってくださいました。心の奥底から、生ける水が流れ出るようにしてくださいました(ヨハネの福音書7章38節参照)。

主を知るまで、僕らは罪の奴隷でした。僕らのうちに住みついている罪は、僕らの内側にいる他国人です。神様の国のものではありません。僕らがイエス様から頂いた生ける水を、他国人に与えてはいけません。神様の国のことではなく、自己中心的な考えに御言葉を用いてはならないのです。

神様は、御言葉を与えてくださいます。だから、僕ら一人一人に与えられた御言葉を、大切にしていきましょう。



■A:考えてみよう
ルカの福音書5章に登場しない人がいます。どんな人でしょうか?1つのパターンとして、イエス様に、興味もない人です。
・自分の中に、イエス様を知ろうとしたがらない部分がないか、確認していきましょう(ローマ人への手紙1章28節~参照)。
・今日僕らは、どの様にイエス様と過ごしていくことができるでしょうか?



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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9月8日(金)のつぶやき

2017年09月09日 02時27分21秒 | キリスト教
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