座間コミニティー

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◆神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、

2017年09月08日 16時48分33秒 | 聖書
あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ……。(エペソ一・一九、二〇)
キリストの復活は、私たちの救いと同様に神の力の働きである。回心は人間の自由意志によるものであり、性質がよいからもたらされたと考える者に対して、私たちは何と答えよう。死者が自分の力で墓からよみがえって出てくるのを見ることがあるなら、不敬虔な罪人が自分の自由意志によって主に立ち返ることを期待することはできるかもしれない。しかし回心は、聞いたことば、読んだことばによってできるのではない。すべての、新しいいのちを与える力は聖霊から来る。
この力は抵抗できない力である。兵士や大祭司も、キリストの死体を墓の中にとどめておくことはできず、死もイエスを幽閉しておくことはできなかった。信者が新しいいのちによみがえる時に働く力も、このように抵抗できないものである。神の恵みの御手がある人を回心させようと働く時、どのような罪も汚れも、地上の罪人も、神のその御手をとどめることはできない。
キリストを死よりよみがえらせた力が、栄光の力であったことを覚えよ。それは神の誉れを反映し、邪悪な者たちをろうばいさせた。それゆえ、一人の罪人が回心する時、神に大いなる栄光がある。
それはまた、永遠の力であった。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しない……。」そのように私たちも死からよみがえらされたのであるから、自分の死のわざや、以前の腐敗に立ち返ることなく、神のために生きるのである。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」
最後に、冒頭の聖句において、新しいいのちがイエスに結合されていることを心に留めよ。かしらをよみがえらせたその同じ力が肢体にも働く。キリストとともに生かされるとは、なんという祝福であろうか!
 
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「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、

2017年09月08日 16時47分27秒 | 聖書

聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)

あなたも経験するだろうか。神の御心がなりますようにと祈りつつも、自分の思いと自分の願いで一杯で、建前は神の御心だが、本音では全くそうではなかったりする。

しかし、反抗する気など全くなく、一応は御心がなりますようにと思っているので、そう思っているだけに、自分でも気づかない。
自分では真剣に祈っているつもりだが、後で振り返ると、委ねる事の意味もわかっておらず、神を信頼もしていなかったとわかる。

メッセージで、学びで、神に委ねる事の大切さを、しょっ中教えられるので、それが良い事と思い、そうしている「つもり」だが、実は自分の思いと自分の願望をしっかり握って放さない。

しばしば、自分がそうあればいいと思っている事を、実際そうだと勘違いする。
反抗したり、逆らっていれば、明らかにわかるが、逆らっているつもりはないので、返ってわからない。
気づかない。何かが漠然とし、混沌としているのだ。

心に確信と満たしが無い。平安が無い。それで自分でも、何かが違うと薄々感じている。
この問題点は、献げていないところにある。心の底を御霊で照らされる時に、献げていない自分を見い出す。

この事を認めることが前進のためのまず一歩だ。握っているものは何だろう。
放す時に深い平安と喜びを経験する。
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もともと温和で親切で、罪も憎んでいる。
自分は光の中にいると思い込んでるだけなら悲しい。
御言葉を礼拝目セージを自分の事として聞いて行こう。
悔い改めや変わりたい、献げたい祈りを自分のものとしよう。


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おはようございます。

2017年09月08日 09時01分49秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年09月08日 09時01分13秒 | キリスト教

聖アドリアノと聖ナタリア殉教者

?-304年

 ローマ皇帝マキシミアヌス付きの役人であったアドリアノは、迫害を受けるキリスト信者たちの忍耐深さとその勇気に感動し、「洗礼は受けていないが、信者だから仲間に入れてくれ」と叫んだ。そのため、ただちに捕えられた。アドリアノは結婚したばかりであったが、これを聞いた妻ナタリアは夫の行為を誇りに思い、こっそりと処刑場に行き見守った。
 アドリアノは残酷にも体を切り刻まれ、ナタリアは彼の手を持ち帰ったという。

 その後、ナタリアは夫の刑を執行した役人から結婚を求められたが、きっぱりと断わり、コンスタンチノープルの近くのアルジロポリスでその生涯を送り、夫の傍らに葬られたといわれる。

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◆かすめるな、押さえつけるな

2017年09月08日 08時58分06秒 | 聖書

貧しい者を、彼が貧しいからといって、
かすめ取るな。
悩む者を門のところで押えつけるな。
主が彼らの訴えを弁護し、
彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。(箴言二二22―23)
まさか私たちは、自分の家の前で物乞いをしている人から、割り前をよこせと、その空かんの中の小銭をかすめたり、門前で行き倒れになった病人を、こんなところでうろうろするなと押さえつけるようなことはしていないと思うでしょう。しかし、貧しい人や悩める人を見くだしたり見殺しにしたりすることは、結局、それと同じことだと聖書は言います。そのようなことは、貧しい人・悩む人の弁護者「神」に逆らっていると言うのです。
こんな話を聞きました。英国の有名な政治家ロバート・ピールの娘が、西ロンドンの一流の仕立て屋に着物の仕立てをたのみました。その下請けをしたのが、東ロンドンに住む貧しい婦人だったのです。彼女の娘が熱病を患っていました。その病原菌が仕立てた着物についていき、やがてロバート・ピールの娘も熱病にかかって死んでしまったのです。この話の後に、「金持ちも貧乏人も別々ではない、遠く離れているのではない。人間の社会は一続きである」という解説がついていたのを思い出します。
イエス・キリストが言われたことを聞きましょう。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示録三17―18)。神は、貧しい者・悩める者を思いやる方です。私たちはこの神の前にへりくだって、神の愛を受け、ゆるしを受け、貧しい悩める方々を思いやる人となりたいものです。
 
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◆あなたはわたしから実を得るのだ。

2017年09月08日 08時57分16秒 | 聖書
(ホセア一四・八)
私たちは神と一つになった時に、神から実を得る。枝に結ぶ実は、直接根から来たものである。枝を切り離せば、枝は枯れ果てて実を結ばない。私たちはキリストと一体であるゆえに、実を結ぶのである。ぶどうの一房一房は、最初はその根にあった。幹を通り道管を流れて実となって現れる。しかし実は最初幹にあった。そのように、すべての良い行為は、初めキリストの中にあり、それから私たちのうちにもたらされる。おお、クリスチャンよ。このキリストとの尊い結合を重んじなさい。なぜなら、それがあなたの望むすべての実の源泉でなければならないからである。あなたがイエス・キリストに結合していないとするならば、実を結ばない枝となるであろう。
私たちの実は霊的な摂理として神から来る。露のしずくが下る時、雲が高い所から下界を見下ろし液体の宝を落とそうとする時、輝かしい太陽が房となる実をふくらませる時、これらの天来の恵みは木に向かい、「あなたは私から実を得る」とささやく。実は根に負うところ大である。根は実を結ぶために欠かすことができない。しかしまた、実は外からの影響にも大いに負うている。私たちはいかに神の恵み深い摂理に浴していることか。神は摂理によって私たちに絶えず活力を与え、私たちを教え、慰め、力づけ、私たちの必要とするものを与えられる。わずかでも私たちが役立ち、また徳があるとすれば、それは神の摂理による。
私たちの実は賢明な農夫である神から来る。園丁の鋭いナイフが房を間引き、余分の芽を切り取って実を結ぶことを助ける。クリスチャンもそのように主によって手入れされる。「わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
私たちの神は私たちの霊的な徳の創始者であられる。だから、私たちの救いの栄光はすべて、神に帰そうではないか。
 
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詩篇60篇9-12節

2017年09月08日 08時55分17秒 | 聖書


60:11 どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。
60:12 神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。


私たちが困難や苦しみに陥った時、すぐ助けを求めるのは、近くにいる人々です。

特に、問題をよく知って処すことが出来ると思われる人の所に、助けを求めにいきます。

それが戦いの時には、自分たちの援軍となるような、他国の軍隊力と規模を頼って、応援を頼むということになることでしょう。

 しかし、ダビデは違いました。

戦いに敗北してもなお、自分たちの真の頼りは、生ける真の神、主であることを確信していました。

ですから、彼は言うのです「人の救いはむなしいものです。」と。

だから自分は、神によって力ある働きをしたいのだというのです。

 私たちを守り、本当に勝利をもたらしてくださるお方は、主です。

主に寄り頼み、主を呼び求めて助けを仰ぎ、その中で生きるのが、私たちの歩みなのです。

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ルカの福音書3章22節

2017年09月08日 08時49分09秒 | 聖書


★聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」


■O:今日のコラム
幼い時から親に十分に愛されて育つ子どもは、自分に自信をもって生きるようになります。親に受け入れられ、愛されている、そのことが生きる原動力となるのです。

イエス様の公生涯における働きは、御霊を受け、御父の声を聞くことから始まりました。その御父の声とは、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」です。

この「愛する子」とは、ギリシャ語で「アガペートス」といい、「愛してやまない、愛する者」という意味です。また、「喜ぶ」とは、「好ましい、満足している」という意味です。イエス様は、そのような御父の声をいつも聞いて歩み、与えられた使命を全うしていったのです。

どんなに多忙な働きの中にあっても、イエス様は御父の前に出て行きました。御父との交わりこそ、その力の源泉であったからです。

「愛してやまない愛する者よ、私の喜び、私の満足」と言ってくださる御父の愛は、私たちにとっての原点であり、また、これからも生きていく原動力となり続けます。

道が見えないとき、弱さを覚えるとき、痛みを経験するとき、誰かを赦せないとき、それらが私たちの生活の中心となって私たちを悩ますことがないように、いつでも原点である御父の愛に立ち返りましょう。

「私たちが神の子どもと呼ばれるために、-事実、いま私たちは神の子どもです-御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」(1ヨハネ3:1a)

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)

「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(ローマ8:16)

自分の罪の愚かさゆえに死ぬべき存在が、イエス様の十字架の血潮によって、永遠に生きる者、御父との交わりを持つ者とされました。

私たちのうちに住んでおられる御霊によって、死ぬべきからだをも生かしてくださったのです。主の計り知れない愛を知るとき、今生かされていることに感謝が溢れます。

私たちにはそれぞれ主から与えられた召し、使命があると思います。自分にしか出来ない主の働きがきっとあるでしょう。しかし、神は、石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができるお方なのです(ルカ3:8)。

主に愛してやまないほど愛され、喜ばれる存在とされている…それだけで十分なのに、こんな小さな自分を主の御用のために使っていただけるとしたなら、「用いていただけて感謝」なのです。

原点に立ち返り続けましょう。



■A:考えてみよう
御父が今日、私をなんと言ってくださっているのか、どれほどに私を愛してくださっているのか、今心静め、御父の声に耳を傾けましょう。




■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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